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【連載小説】息子君へ 175 (36 君は心が動く速さで生きないといけない-5)

 俺がこの手紙のようなもので書いてきたことの全てが心のスピードで感じるということと直結しているのがわかるだろう。そして俺は、目の前にひとがいると、自分のことを考えるのが停止して、相手を漫然と感じる状態になってしまうような肉体に生まれたひととして、そんな自分の息子である君に、この手紙のようなものを書いているんだ。
 本当のことは、心のスピードの中でしか感じられないんだ。現実の状況はほとんどいつでも、心のスピードよりも速く流れていく。その場ではなんとなくそう思ってそう行動したけれど、あとで思い返したら、自分は全然そんなことをしたくなかったし、そんなふうに思っていたことだってそれまでなかったのに、どうしてあのときはそうしてしまったんだろうと思ってしまうようなことが誰だってたくさんあるだろう。もちろん、今までの自己イメージが勘違いで、実際にそういう場面になってみたときに、本当の自分がわかったというパターンもあるのだろう。けれど、圧倒的に多くの場合、みんなとその場にいるときにこそ、自分の気持ちにしっくりこないはずの行動をなんとなく取ってしまうもので、だからひとは簡単にいじめに加担したり、いじめを黙認しながらへらへらしていられるのだろう。
 心が反応したものを、ちゃんと感じてあげることは、みんなの中にいて状況に追い立てられているときにはそんなに簡単なことではないのだ。だから君は、自分の本当のことでひとに接することができる時間を増やしていくためにも、自分の心が動くのをできるだけ待ってあげられるようにしながら生きていくべきだし、日常生活ではそういう時間が足りなくなりがちなのだから、そうやって過ごせる時間を与えてくれる作品に向き合って、状況に追い立てられるのではなく、自分の心が自分は確かにそう思っているのだろうと思えるところまで、時間が止まったみたいな感覚になるまで、作品を見詰めながら、文字を追いながら、ずっと自分の心が何かを思うのを待ち続ける時間を確保するべきなんだ。
 当事者として過ごす現実はあっという間に流れ去っていく。当事者として自分はどういう行動を取るのかということに追われて、感じることは疎かになっていく。何かを感じたとしても、その場は当事者たちの目的意識みたいなもので状況が進んでいて、誰かが本当にそう思ったことを話せる隙間もないし、本当に思うことを話したとしても、今の話題のこととして受け取られて、そのひとの本当のこととして受け取ってもらえる間合いにはならない。そして、あっという間にその状況は流れ去っていく。
 時間を止めないと、本当のことは話せないものなんだ。それは現実でもそうだろう。親密な相手と本当にそうだと思えることを語り合えているような感覚のある時間というのは、まるで時間が止まっているみたいになっていたりするものだろう。
 ひとと気持ちを伝え合ったり受け止め合ったりすることだけではなく、自分のことを感じるのだってそうで、目の前でどんどん状況が動いているのを目にしていると、自分が今どんな気持ちなのかということを抱えたままではいられなくなる。他人への感情は他人から気付かされるものだったりもするけれど、自分が自分にどう思っているのかということをじっと考えるためには、ひとりになって、誰のためにそうしているわけでもなく、自分がただそれを思っているだけであるような止まった時間の中で思い返していく必要がある。
 そんなふうに、時間が止まっていないと語れないものがあるから、小説というものがあったりもするんだ。小説によるとはいえ、シーンを描くのではなく、語る主体にとっての本当のことを感じ取れるようにということが目的になって、それを実体化できるようにと描写が積み重ねられている小説というのがいくらでもある。ただ物語の顛末を伝えようとしているのではなく、人物や情景がどんな印象を与えてくるものだったのかが描写されていて、そんなふうに描写されていることで、人物には世界がそういうものとして体験されていることを読むひとが追体験できるようになっている。それによって伝わってくるものがあったなら、それはそのひとの心がどんなふうにそれを感じていたのかということなのだ。
 俺がこの手紙のようなもので、本当のことというのはあると繰り返していたのは、そういうことなんだよ。何もかもがそのときその場ではそうだったからというだけで流れ去っていくようでいて、けれど、そのとき本当にそう思っていたというのは本当で、それを自分が確かめて、言葉にしたり、何かを表現したりすることはできるんだ。
 本当のことというのは、ひとによっては、現実の中でそれが誰かから言葉なり肉体で伝えられていると感じることが全くないものだったりするのだろう。平凡なおじさんが家族から好かれていなくて、職場でも特別仲がいいひともいなければ、自分に対して何かを感じようとしたり、伝えようとしたりしてくるひとは誰もいないという場合が多くなるのだろう。そういうひとたちは、その場とかその状況に合わせてそれなりに扱われるだけで、誰かと立ち話をしても、たまに飲みに行っても、喋る前からわかっているようなことしか喋ることはないのだろう。そうすれば、そこにはうっすらとした屈辱感に沈められたうえでの果てしない自己追認しかなくなるのだろうし、生活していても、いらいらしたり、何かをして少しすっきりしたりとか、それくらいの感情しかなくなるのだろうし、自分が本当は何をどう感じているのかなんて、自分には全く関係のないどうでもいいことになってしまうのだろう。
 けれど、いい仲間がいて充実した時間を過ごせているひとたちからすれば、自分の中の本当のことなんて、職場でも家庭でも日々いくらでも実感していることだったりしてしまうのだ。本当のことを話せていると思えているときは、話していて心身の感覚が違うから、その感覚によって、今伝えようとしている気持ちは本当のものだとわかる。そのときいい感じで話せているのなら、お互いのそのひとらしさにいい気分になれている感触というのは、リアルタイムに感じ取れてしまうものなのだ。
 俺は若い頃はちょくちょくそういう状態になってひとと話せていたりした。けれど、今では、わかってほしいとか、誤解されたくないとか、こんなふうにあなたのことを素晴らしいひとだと思っているとか、そういう気持ちに没頭するように一生懸命喋っている状態になることはめったになくなった。
 それでも、映画や音楽や小説に無心にさせられて、本当にそうだなという気持ちで自分の中がいっぱいになる時間なら、今でもちょくちょく過ごせている。多くのひとがそうだったりするのだろう。現実では難しくても、無心になって作品を体験することで、今自分の気持ちがこんなふうに感じているものは本当なんだと思えて、それによって、自分の中にどうでもいいという以外の感情があるのをはっきり確かめられて、自分が自分であることに少しほっとしたりしているのだ。
 目の前で起こっていることや、目の前で話されていることに、本当にそうだなと心を動かされることは、そんなに簡単なことじゃない。そして、自分に起こった本当だなと強く思えた体験は自分を変質させはするけれど、すぐに流れ去ってしまうから、なかなか誰かに伝えたりすることもできない。本当にそうだなと思いながらいろんなことを話すというのは、いい仲間がいればできることだけれど、自分の中の本当のことを伝えるとなったときには、映画とか小説の中でそれに触れたと思えたりするときのような、時間が止まっているような感覚になってくるような伝え方をする必要があるのだろう。誰の中にも、自分が本当だと思える気持ちがあるのだろうけれど、自分の中にある本当以外の本当は、そんなふうにしか触れる機会がないものなのだ。そして、そういうものを書き残しておけたらなと思って、俺はこれを書いているんだ。
 だからこんなにもあれこれくどくどと書いているんだよ。さらっと読めるものは大雑把すぎて何を言ったことにもならないし、読み手がすでにわかっているつもりになっていることしか読み取ってもらえない。
 君がひとりのひとと五時間くらい没頭して話したことがあったり、クラブで朝まで音楽に気持ちよくなり続けて過ごしたことがあったり、張り詰めた映画を二時間とかそれ以上息を詰まらせたままで観たことがあったり、気持ちが苦しくなりながら、自分が読んでいるものに実際に迷わされ、決断を迫られているような気分になりながら後半の数百ページを読んだりしたことがあったりするのかはわからないけれど、ひとと喋るのでも、音楽を聴くのでも、映画を見るのでも、本を読むのでも同じで、長時間空っぽになって相手の気持ちを受け取り続けていることでしか感じられないものがある。
 そうできるものになればいいと思って、俺はこの手紙のようなものを書いているんだ。書いている内容ではなく、俺がどういうひとなのかということを君は感じられているだろう。いろんなことについて、俺がどんなふうに思っているのかということをゆっくりめに書いてきたし、似たようなことも違う角度から語り直したりを繰り返しているから、もう途中から君は、俺が何を語っても、それが初めて触れるような何かの語られ方だったとしても、読み進めると同時に、確かにこのひとはこう思うんだろうなという気分になっているんじゃないかと思う。自分が俺のことをわかっていることを確かめ続けているような気分で、俺の物言いに引っかかったりすることもなくなって、俺への賛否や好き嫌いの感情も消えて、文字からでもリアルタイムに俺の感情を追体験できているような状態になっているのかもしれない。そんな身体感覚で息子である君への思いを受け取ってほしいから、俺はこんなふうにこの手紙のようなものを書いているんだ。
 たくさんの情報が自分の中に流れ込んできているけれど、その全てが自動的にしっくりとくるものに受け取れるような状態になれているときがある。きっと、そういう状態になれているときこそ、そのものをちゃんと感じられているのだと思う。
 セックスにしても音楽にしてもそうだけれど、感じることに没頭して、伝わってくる感触に身を任せて、自分から自然に出てくる反応を形にすることだけに集中しているような時間を大事に思うべきなんだ。そういうときの自分の心身は特別な状態に感じるだろうけれど、そういうときこそ君は自然で、君は自分が思っていることが本当にそう思っていると感じられるのだと思う。心が動いていて、その心と自分とが噛み合っている状態というのは、そんなふうにしてやってきてくれるものなんだ。
 まるごと受け取るしかなくて、まるごととして何か思うことしかできないようなものが、本当のことなのだろう。切り取ってわかった気になっている時点で、ひとの話しをまともに聞けてはいないんだ。やり取りしているのは言葉ではなく、感情であり人格なのだとしたら、当然そういうことになるだろう。そして、まるごとであるためには、空っぽにならないといけないということなんだ。

 俺がどういうもののことを本当のことだと思っているのかというのはわかっただろう。自分のことしか感じていないひとたちを悪く言うのを繰り返しているのも、そういうひとたちは空っぽになって感じようとしていないからなんだ。そして、集団の中で自分の地位をよいものにするためにあれこれしていることの中に、自分にとっての本当のことはないと繰り返してきたのもそういうことなんだ。
 人間はとことん集団内のあれこれでしか生きていない存在ではあるんだし、それが普通のことなんだし、何もおかしなことはないんだよ。まわりを見て、みんなと同じようにするのが人間だし、人間じゃなくても生き物とはそういうものなんだろうし、自然と同調するようになっているからみんなで生きてこられたのだろうし、同調するというのは、同調することで人間は人間として生きていられるといえるような行為なのだろう。
 けれど、同調が本能だとして、ただ自動的な同調にひきずられながら、損得と快不快で行動しているのだとしたら、心とは何なのだろうということだろう。ずっと切れ目なく同調していられるなら、心は必要ないのだ。犬や猿程度の心があればよくて、犬や猿程度の自分らしさしか必要なくなってしまう。
 君は生きている実感として、自分のことを自分だと思っているのだろうし、自分らしさに喜んで、自分らしさに苦しんでいるのだと思う。それは君が同調しているときの自分とは別のものを自分だと思っているということで、どうしたところで、君がどういうひとなのかというのは、君がどんなふうにみんなと同調できるひとなのかということにはならないんだ。
 むしろ、みんなと同調しきれないものが君自身だろう。同調しようにも同調しきれないものがあることで、状況が流れていっても自分の心に留まってしまうものがあって、それが自分の気持ちとして認識されるものなのだ。
 すんなりみんなに同調できているときの君は、君が自分を感じていないときの君で、みんなと同調しているときの自分を誰かが好きになってくれても、それだけでは自分のことを本当に好きになってくれたとは思えないのだと思う。君が興味をひかれて、君にとって特別な存在に思えるようになった相手だって、そのひとがみんなと同調しきれないものを抱えているから、そういう顔をしていて、だから君はそのひとにひかれているんだ。
 集団にすっぽり収まりつつ、ストレスを溜め込みながらへらへらして、けれど、インターネットに書いてあった世の中をバカにする言葉を思い出して、ほんとそんな感じで最悪だなと思ったら、もうそれ以上に何を思うわけでもなく、すぐにいい感じに暇をつぶせるものはないかとそわそわ視線を泳がせているようなひとからどういう魅力を感じればいいのかということだろう。ストレスとその解消が人生であるようなひとはとてもたくさんいるけれど、どれだけそういうひとたちが多いからといって、みんなその他大勢というだけなのだし、そういうひとたちのことはどうでもよく思っていればいいんだ。
 確かに、時間は流れていくし、いつだって目の前には同調するべきものがあるんだから、何かを思ったからって、そこで立ち止まっていても仕方がないのだろう。いつでもみんなと同じことをすればいいのだから、何か思ったからと言ってそれを考えようとするのは、考えてもしょうがないことを考えているだけなのだろう。
 それはそれで本当のことだし、それが生き物の本当のところでもあるのだろう。けれど、みんながそこにすっぽりと収まって生きているわけではないのだ。群から離れているにしろ、群れの中で暮らしているにしても、群れやそれを超越したシステムの力に何かを思ったり、群れの中でどう振る舞うかということだけではなく、どうして世界はこうなのかとか、どうしてみんなそうなのだろうと思ってしまうひとがいる。そういうことを思いながら、同じように何か思うひととそれについて話せたことに心からほっとしたりしながら、ただ猿の群れの中の一匹としてではなく、自分なりに世界に何かを思っている自分として、そう思っているなり自分の生き方にしがみついていようとするひとたちがいるのだ。
 世界には、世界がこういう場所であることにいろんなことを思っていろんな気持ちになるひとたちと、世界はこういうものだという以上には何も思わないひとたちとがいるのだろう。そして、エンタメではない映画や小説というのは、何かしらを思っているひとたちのためのものなのだろう。そういうものには個人というものや、世界と個人との間のことが描かれている。群れの中でどういうことが大事だとか楽しいとか何があったというようなことは、ハウツーとか何かのネタであって、それを語ることで真面目に見たり読んだりしないといけない小説や映画は作れない。
 近代文学というのは、社会が大きく変化している時代に、そのひずみに苦しむ人々のことを描くものだということを大学生の頃とかに何かで読んだ気がする。原始的な社会では、みんなが自分と同じようなひとたちと、同じようなことを思って常に同調し合いながら、ときに利害を対立させて生きていたのが、社会が複雑化していろんなひとがいろんな暮らしをするようになって、それぞれの暮らしもどんどんと変わっていってしまうということが近代文学のテーマとなっていたということだった。どこの国でも、映画が一番盛んに見られるのは、そういう社会のひずみが国民全体で共有されたテーマとなりえている時期になるらしい。日本はもう俺が生まれた頃には、文学も映画もそういう時期は通り過ぎていた。俺が記憶にあるかぎり、映画や小説が自分の近所に住んでいるひとたちにとって身近なものだったことはないし、年々本を読んでいるひとも真面目な映画を見るひとも減っているという話しか聞いたことがない。
 特に日本ではそうなのだろうけれど、近年になって、そういう真面目に何かを表現しようとする作品はほぼ壊滅して、若者ですら基本的には誰も真面目な小説や映画には接しようとしないということが当たり前のことになった。社会にひずみがなくなったり、縮小しているというわけでもないのだろうけれど、庶民レベルでは、みんなが似たように貧しくなることで、むしろ視界の中ではひずみは見えなくなったのだろう。ある意味では、社会はまたみんな似たような存在なのだから常にまわりに同調していればそれでいいという社会に戻りつつあるということなのかもしれない。
 みんなで同じコンテンツを消費して、みんなで同じ最低価格層の各種サービスを利用して、そういう楽しみについての会話だけをして、みんな似たような生活なのだからと、お互いの日々思うことの話はしないようになっていくのだ。これから世の中どうなっていくのかという不安や希望を共有しているわけではなく、楽しみを楽しむことでつながっていることで、他人と関わるために心は必要なくなってしまった。社会システムによってもたらされる悲しみや苦しみや虚しさを共有することで、お互いの思いを認め合うことを諦めて、身内を守り合いながら、やることをやって、やれることをやって、なるべく楽しくやるというだけの世界に戻っていっているということでもあるのだろう。実際、ひとに合わせてうまいことやって、あとはなるべく楽しくやるというだけで、延々とゲームをやったり動画を見たりしているのなら、世界がこんな世界であることに何を思っても無駄なのは明らかだろう。
 実際、一部のひと向けにほそぼそと存続している真面目な作品を作っている界隈での現代的なテーマというのは、もう長いこと、社会がねじれて分断されていることに何を思えばいいのかということよりも、集団の内側から、集団に対して、同調したいのにできない苦しみを吐露したり、同調していてもいいことがないことの苦しみの吐露したりとか、そういうことが中心になっているのだろう。ダサいことと、才能がないことと、ずれていて差別されることの苦しみばかりが表現されたり、発信されているように俺には見えてしまう。そして、それがどんな苦しみだとしても、受け入れられたいのか、放っておいてほしいのか、思っていることはだいたいどっちかなのだろう。生き辛さが描こうとされている全てであるということは、世の中がどうであれ、自分は自分のいる集団で受け入れられればそれでいいし、できればみんなに認められ、持ち上げられたらうれしいと、それくらいしか思っていないということなのだろうし、ということは、もっとうまくやりたいのにという泣き言ばかりが延々と表現されているということなのだろう。だからこそ、それだったら見てもしょうがないと、真面目な小説も映画もみんな見なくなって、ハウツー本や自己啓発本や、そのインターネット動画版のようなものばかりが消費されるようになっているということなのかもしれないし、そうなのであれば、それはただただ仕方のないことなのだろうなと思う。




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