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青春的な熱い人間関係を体験したことのない人が青春漫画で流す涙は空虚(何をコンテンツ消費してもそれはその人の人生ではない)

コンテンツ消費はその人の人生にはなってくれない。

コンテンツ消費をしている時間の中で何かを思って、その思ったことの続きとなるものを、その後の人生で生きたときに、その消費されたコンテンツは自分の人生にとっての何かになるのだろう。

ただそのコンテンツ楽しんで、そのコンテンツがそう作られているとおりに、感じさせてもらったものを受け取って楽しんでいるだけなら、それは自分がどう生きているのかには関係ない。

ほとんどの漫画や小説の消費は、ほとんどのポルノコンテンツの消費と同じで、どういうポルノスターを一時期好んでいたとか、どういうジャンルのポルノを好んでいたとかというのは、その人の家族関係にも友達にも恋愛にも関係なかったりするし、それはマンガや小説も同じである場合が多い。

どの漫画が好きで、どのキャラのどういうところが好きかという話を友達とすることがあったとして、それは好きなポルノ女優は誰でどういうところがいいかという話を男同士でしている一部の人たちの会話とどれくらい違いがあるのかということなのだ。

自分が思たことや、自分の感じ方にとってそれがどういうものに感じられたのかとか、そう感じたことに自分でどう思ったとか、そういうものがないのなら、コンテンツ消費をした時間を自分の人生として生きた感触は残らない。

ポルノ中毒者がポルノを見た時間をただ没頭して気持ちよくなっているだけで、その時間の中には、ポルノ愛好家としての自分の好み以外、自分が抜け落ちた時間を過ごしているのと同じなのだろう。

当然人生とはそういうものではないのだ。

俺の父親は家事もしなくはないし、家族サービスに多くの時間を使う人だったけれど、暇な時間は延々とテレビを見続けている人だった。

父親の場合、それなりに自分で自分のことを、なによりもまずテレビ視聴者であるというように認識していたのかもしれない。

かといって、テレビ視聴者として生きている部分の大きい父親の、テレビ視聴者である部分というのは、父親の人格のどういう部分だったのだろうと思っても、そんなものなかったんじゃないかと思う。

つまり、他人から見ても、自分からしても、テレビ視聴者として生きているからといって、それはその人がだいたいいつも何をしているのかということでしかなくて、その人がどういう人であるのかということには関係がないのだ。

そのひとがテレビ視聴者として生きているということは、そのひとが自分の中心に中身のない単なる空洞を抱えていて、その空虚の中に時間を流し込むことで、自分の人生とは切り離された、自分の人生と切り離されているからこそ気を楽にしていられる時間を過ごすことに依存した人生を送っているということを意味しているのだ。

俺の弟にしてもそうだったのだろう。

テレビと、漫画と、ゲームと、インターネットで見られる諸々のコンテンツを消費し続けるというのが、弟の人生の中の楽しかった時間の大半なのだろうし、弟の場合は、一般的に青春時代とか言われるような若者時代ですら、ほとんどコンテンツ消費者としてして生きていたというのが実感なのだろうと思う。

そして、弟がああいう人間であることと、弟がどういう人間であるのかということはやっぱりほとんど関係がなくて、弟がどういう人間であるのかというのは、中学高校時代の人間関係と、何もしないまま過ぎた大学時代と、苦痛に満ちた社会人時代の初期と、その後の自分なりにゆっくり立て直してきた仕事生活というのが、弟のものの感じ方や物言いを形成する材料となる体験のほとんど全てなんじゃないかと思う。

どれだけ昔からいろんなゲームをして、どれだけドラクエ10に時間を費やしていても、その時間は、弟がどんな人生を生きたどんな人間であるのかということには関係がなかったのだと思う。

そんなふうに、俺は身近な人間にコンテンツ消費に埋もれながら生きる人がいる環境で育ったし、俺自身、中学高校と、部活動をせずに、いくらゲームをしていても飽きなかったし疲れなかったから、ずっとゲームをしていた時期があったけれど、大学生になってからは、テレビもほぼ見なくて、ゲームも同居していた友達としていた時期が少しあったりというくらいで、漫画も小説もほとんど読まずに、サークル活動でみんなとわいわいやったり、ほとんど毎日のように俺のところで寝泊まりする彼女と夜遅くまでずっとお喋りしたりする生活になった。

俺自身、自分が昔どういうゲームをしていたのかは、俺がどういう人間であるのかということにまったく関係がないように思うし、漫画はいまだにインターネット上で毎日いくつかの漫画を読んでいたりするけれど、いがらしみきおとか、自分にとって特別な存在以外だと、どういう漫画を読んできたのかということは、漫画読みとしての自分の好みや感覚にしかその経験はフィードバックされていなくて、現実を生きている自分のものの感じ方には影響がなかったように思う。

(そういう意味では、一番読んでいて面白かった漫画がハンターハンターであるということは、自分の人生への関係なさ的に虚しい部分があるし、やっぱり自分の一番好きな漫画家はいがらしみきおで、一番好きな作品はぼのぼのということにしておくべきなんだろうなと思ったりもする。)

(逆に、弟が読みそうな実家に漫画を送って、しばらくして帰省したとき、日本橋ヨヲコの初期からG戦場までを読んで弟がひどく感動したと言っていて、こいつは他人とそんな種類の青春的な熱のある体験をまったくしてきていないだろうに、何をそんなに感動したのだろうと、少し恐ろしくなった。)

自分がそのジャンルにおいてどんな好みを持った消費者であるということは、そういうコンテンツを消費しているときの自分と、そういうコンテンツについて同好の士と自己追認的に語り合っているときの自分にとってしか、現実性を持っていない。

現実の自分の肉体を他人の前に晒しながら、現実の人間関係の中で、現実の自分を生きている人生というものから切り離されるようにして、現実の自分の感じ方ではなく、コンテンツ消費するときの自分の感じ方で時間を過ごしているのだから、それがどれだけ現実の時間を膨大に消費する活動だからといって、現実とは噛み合っていない空虚なサイクルとなるとなるのは自然なことだろう。

どういうコンテンツを消費してきたのかということが、自分の人生にはなってくれないというのは、そういうことなのだ。

自分がどういう消費者として何を楽しんできたのかということでしか自分の人生を振り返れなかったとしたら、そういう人こそ、自分の人生を生きられなかった空っぽな人なのだろう。

出会いや気付きの中で何かを思って、そんなふうに思ったことの続きをそのあとに生きていくことになるような、そういう思いが自分の人格の中身なのだし、そういう思いが自分の中に蓄積していって、混ざり合って発酵していって、どうにかしなくてはいけなくなって、どうにかしていくことの繰り返しが人生なのだろう。

何を感じて、何を思ったからといって、その思いをどうにかするわけでもなく、現実から切り離された消費者としての自分の好み中で、感じさせてもらった気分を響かせて終わるのであれば、それは自分の現実の感情を生きていない時間なのだ。

そんなふうにして、何かをただ消費しているということは、自分の人生になってくれない時間を過ごすことなのだなと、俺だって、日々実感するようになってきた。

年を取るほどに他人と喋っている時間が減って、その代わりにインターネットコンテンツに触れている時間が増えて、ほとんど生きていないみたいなものだなと感じる。

かといって、現実の他人との関わりの中で、何かしらの手応えのある感情の行き来がないのだから、何を起点にして何かを悔いたり、もっとどうしたらいいのだろうと思うこともできなくて、自分にはもう自分の現実に対して思うべきことがないような気がして、だからこそ、楽しもうとすれば楽しめるというだけで、自分が生活しているときの感情とは関係のないコンテンツを延々と眺めてしまうのだろう。

俺の人生だって、父親や弟の人生がそうであるような、自分の人生と関係のないものに依存することで、気を楽にしてばかりの人生に近付いていっているのだ。

何かしら思っていることはあるはずなのに、どうしてもっとまともに自分の感情を生きてあげられないんだろうかと思う。

俺はずっと、テレビを見続けている父親の姿や、テレビの録画を1.5倍速で流しながらゲームをしている弟の姿を横目で見ながら、この人たちは何が楽しくて何年も何十年もそうしているのだろうとうっすら悲しいような、虚しい気持ちになっていたのになと思う。


(続き)


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