雨男20話 あんたは雨の神様か!
【恋愛小説】『雨男 ~嘆きの谷と、祝福の~』第Ⅴ章 私雨-4
エビチリ、黒酢豚、蟹入りのフカヒレスープが、湯気をあげている。
テーブルの向こうでは、赤木が北京ダックを薄餅に包んで、大口をあけているところだ。
ここは横浜、中華街。
〝ジモト民のおすすめ店〟に連れて行け、という赤木の要望で、虹子が前に一度だけ来たことのある店に案内した。中華街は観光客が多く、ジモト民といえども、日常的に来ているわけではなかったから、とぼしい知識と経験を総動員して、なんとか1軒、心あたりを見つけたのだった。
オーダー式の食べ放題の店である。
前菜を2~3種類食べてから、勢いにのってメインを頼んだ。豪華なメインを、予算を気にせずオーダーできるのは、食べ放題ならではである。
虹子はエビチリのエビを箸でつまんだ。ぷりぷりしていて、大ぶりある。
「次もサングリア? それとも紹興酒いきますかッ」
赤木は上機嫌だった。自分がおごるからと言って飲み放題をつけ、しかしどれだけ飲むつもりなのか、急ピッチでグラスをあけている。
つられて虹子もピッチが上がる。店内のテーブルは、カップルばかりだ。
「なんか、カップルクーポンみたいなのが、ネットに出てるみたいッスね。オレらも使っちゃおう」
「う、うん」
赤木のノリに、つい巻き込まれてしまう。それでもいっか、と、思い始めている。もういいや、何がどうなっても。そんな気分になってくる。
小籠包にあんかけおこげ、イカの中華炒めに細麺やきそば、エトセトラ……たらふく食べて、締めにココナッツ団子と杏仁豆腐、仙草ゼリーまでたいらげた。
「私、夏にはミイラだよ。どうせ引いちゃうよ。社内の噂で、聞いてるんでしょう?」
勢いまかせに言い放ってしまったのは、杏仁豆腐のときだったか、それとも仙草ゼリーのときだったか。
「だいじょうぶ」
赤木は自信たっぷりに、虹子の目をのぞきこんだ。
嘘っぽい。でも、信じたくなる。今度こそ、この男こそは違うのではないか、と。我ながら莫迦だと呆れるほどの妄想だ、そう知りながら、しかしその妄想は、どうしようもなく甘美なのだった。
***
「おいニジコ、しっかりしろ。鍵は?」
気がついたら、赤木に腕をつかまれて、虹子の部屋の玄関ドアの前にいた。赤木が虹子のバッグを手に持って、口を開け、なかをまさぐっている。
「いいよ、ここで」
あわててバッグを取り返すも、腰に手を回されて、抱き寄せられた。
何か言う隙もなく、赤木が唇を重ねてくる。
「いいだろ? いいな? いいんだ、俺が決めた」
やばい。そう思ったときは遅すぎて、再びバッグを奪われる。
「ねえ、ちょっと……」
悲鳴をあげるとか、怒鳴って追い返すとか、そこまでする勇気はなかった。だって、会社の同僚だし、そのなかでも気が合うほうで、道馬を追い払ってくれたりして頼りになって……虹子は揺れた。だけど、じゃあ部屋にあげてもいいのだろうか?
そこまで信用しても? どうせまた、泣かされるだけなんじゃないの?
そのとき、金属の回る音がした。そして、なかからドアが開けられた。
なんで? と思う間もなく、
「おかえり。なにしてんの」
半開きのドアから、驟が顔をのぞかせた。ゴム手袋をしたままで、片手にトイレブラシを持っている。
「な!」虹子と赤木が、同時に言葉にならない声を発した。
「どうも」
平気な顔でそんなことを言いながら、驟は鋭く赤木をにらみ、手からバッグをもぎ取った。トイレブラシを刀のように赤木に向けて、虹子にバッグを渡し、受け取った虹子をすばやく玄関に押し入れる。
「御苦労さまでした」
憎まれ口までたたいて、驟は容赦なくドアを閉めた。
2、3秒、赤木は立ち尽くしていたようだったが、やがて靴音が聞こえ、ゆっくりと遠ざかっていった。
「あいつはダメだよ」
もそもそと口の中でしゃべり、驟はトイレに入っていく。掃除の続きをするのだろう。トイレは玄関のすぐ横にある。
「虹子さんの迷惑を全然、考えてないじゃないか。自分のことだけ優先するタイプ。ああいうのに引っかかっちゃダメだよ」
便器に向かって叫んでいるのか、驟は声を張り上げた。続いて、勢いよく水の流れる音がする。
虹子はパンプスを脱ぎ、とりあえずキッチンへ行って、冷蔵庫からミネラルウォーターを出し、ペトボトルに口をつけて立ったまま飲んだ。それからリビングの、テーブルの横にへたりこむ。
驟はゴム手袋をはずし、洗面所で手を洗ってから、リビングにやって来た。
さっとキッチンに入ってグラスを出し、虹子の前のテーブルに置く。ペットボトルを抱えている虹子に、グラスに移して飲めということらしい。
「なんで? どこ行ってたの」
立ったままの驟を、虹子は見上げた。少し日焼けしたように見えた。
「ちょっと九州。水不足の地域を回ってきた」
「あんたは雨の神様か!」
テレビの横には、茶封筒が置いてある。
驟は、おどけるように、両肩をすくめた。
「虹子さんも、ちょっとは自分で、かび掃除しようよ。あんな状態で住んでたら、変なビョーキにもなるって」
顔をくしゃっとほころばせる。湯葉の笑顔だ。
「なによ! えらそうに」
虹子は弾けた発条(ばね)のように立ち上がり、殴りかかるみたいにして驟に抱きついた。驟はよろけながらも抱きとめて、虹子の背と腰に腕を回し、しっかりと力をこめた。
ホントは騙してたんでしょう?
一度は本気で10万円、持ち逃げしたんでしょう?
ちらっとでも迷ったでしょう?
帰ってこないつもりだったでしょう?
虹子は心のなかで言い募った。けれどもひとつとして声にはならず、それらはすべて涙になって、あふれて流れて消えていった。
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