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母が生まれて初めてピアノ発表会に出た

「絶対、行かないからね」

「……うん、わかった」

母は少ししょんぼりしていたように感じたが、それは仕方のないことだと思った。

うっかり、ピアノの発表会に行くと言ってしまえば、体調が悪かろうが、急な用事ができようが行かざるを得ない。それなのに、ドタキャンをしたとなれば、母の失望はいかばかりのものか。

逆に、事前にピアノ発表会に行くと言ってしまえば、却って緊張させてしまうのではなかろうか。

(うん。やっぱり、ピアノ発表会には行かないと答えて正解だと思う)

スーツを着て出掛けた母を尻目に、部屋着でベッドに横たわった。

そこから、ムクッと起きあがり、レースカーテンのすき間からアパートの駐車場を見る。

(うん。母が出掛けた。プランA実行)

シャワーを軽く浴びると、ちょっときれい目な格好をして、身支度をした。

(うん。ここまで順調)

あらかじめ調べておいたバスに乗り込み、市民ホール会館へ向かう。

市民ホールは小さな子どもとその親であふれ返っていて、緊張感と楽しみが五分五分の雰囲気をかもし出していた。

ピアノが上手い子の部は夜だから、昼間の時間はほんわかしたムードと、我が子の晴れ舞台を是非とも見たい親で、それはそれで異様な雰囲気を漂わせていた。

(母が出るまで、あと1時間か。計画通り)

市民ホールの客席に入る。すでに、小さな子が簡単な曲を弾いていた。

舞台をちゃんと観ている親は意外に少なくて4割くらい。残りの6割はママ友とトークに花を咲かせていた。中には、舞台に背を向けてママ友トークに夢中な人までいる。

(さすがに、それは酷い。ピアノを一生懸命に弾いている子どもにも礼儀あり。自分の子どもが弾いてるときに、他人の親たちがそんな態度を見せていたら、あなたはどう思う?)

憤りを感じつつも、1階席の後ろの方の座った。

発表会は、弾いてる子どもたちの緊張感と反比例するように淡々と過ぎていった。

(案外、みんな簡単な曲を弾いているんだな)

ピアノがほとんど習ったことがなかったので、逆に、子どもの頃から習っている子どもの演奏を聴いて、テレビで報道されている天才ピアニストと無意識に比較してしまい拍子抜けしてしまったり、簡単なメロディーなのに、同じピアノを使っているとは思えないくらい綺麗な音色を出す子どもに感心したりした。

(もう少し、もう少し)

母から事前にピアノの発表会のプログラムを見せてもらっていたので、母が出る順番はあらかじめ知っていた。

心臓の音はどんどん高鳴っていく。

(やだ、なに緊張してる?!)

あと3人、あと2人、あと1人。

小学校低学年の簡単なピアノ曲が続いた後、スーツを着た母が緊張した面持ちで舞台袖から出てきた。

今までママ友と雑談していたママの一人が口をパクパクさせて、舞台に背を向けているママになにかを伝えようとしてる。

舞台に背を向けたママが「あなた、なにやってんのよ?!」と笑いながら、振り返って舞台を見て、目を見開いてそのまま釘付けになっている。

わたしは両手を結んで、普段意識していない神様にお祈りをし始めた。

(どうか、どうか。ミスしませんように)

同じ曲を数百回も練習してたのをイヤというほど知っている。

心臓がドキドキし過ぎてうるさいくらいだ。

(ああ、世の中の親は我が子に対して、いつもこんな気持ちになっているんだ。発表会、スポーツ競技、入試、……)

「あっ」

(やだ、ミスした。でも、この1回だけであってくれ!)

「あっ!」

(またミスした)

「あっ!」

(またまたミスした!  もう、やだ。穴があったら、入りたい)

母は、結局、弾き終わるまで20回はミスタッチをした。それは、水を打ったように静まり返った会場で、皮肉にも良く響いた。

(なんで、なんで?!  今まで、雑談に花を咲かせていたママたちが黙っているの?!  むしろ、なにか話していてよ!)

母が弾き終わると、母は立ち上がり客席に一礼し、そそくさと舞台袖に向かった。

そのときである。

バチバチバチバチ……

会場中から割れんばかりの拍手が沸き起こったのである。

涙目になっているママもいた。

簡単なメロディーを弾いたちびっ子や、天才的な難曲を弾いた中高生よりも、その日いちばんの喝采を母は浴びた。

その日、すべての発表会を終えたロビーでも、1週間以上経った日常のピアノ教室でも、ママたちの話題は、母のピアノの発表会のことで持ち切りだったということを、ピアノの先生から聞いた。

「あのピアノの発表会後、大人の生徒さんが増えました」

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