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横浜の風に吹かれて⑯
横浜の風に吹かれて
この先は、公開には適さない記述があって、話が止まっています。
話は突然今です。
4月7日、都内のあるライブハウスで、好きな音楽を聴きながら、仲間たちと幸せな時間を過ごしました。
かつて、日々の生活には、たくさんの「間(ま)」があって、何も考えないで過ごす時間だったり、ゆっくりと何かを、あるいは誰かを思う時間だったり、いい時間を過ごすこともあれば、時間ができたばかりに、考え
横浜の風に吹かれて⑭
ボストンでの生活が始まった。子供たちは、まずは英語の学校に通ったのちに、現地の小学校に入学した。ボストンには、通常の日本人学校はなく、少し離れたところに補習校として、土曜日のみの、日本人学校があった。もちろん、我が家の子供たちは、現地校にしかいかなかった。ただ、ボストンと、私たちが暮らしたブルックラインには、日本人が多く、日本の子供はこの学校、という具合に決まっており、その学校に行けば、日本人の
もっとみる横浜の風に吹かれて⑨
3年生、生理学、生化学、微生物学、衛生学、薬理学などなど、基礎医学科目の授業と実験の日々。忙しくて、結局大学の近くにアパートを借りた。忙しいのは、アルバイトもそうだった。なんといっても家庭教師が時給がいいので、家庭教師ばかりしていた。
ほかにもいくつかやってみた。友人と塾をつくってみたが、生徒が3人しか集まらずに、半年でやめた。忙しいビジネスマンのために、数多く出版される経済本を要約するサービ
横浜の風に吹かれて⑧
「ヒポクラテスたち」への第一歩が始まる
一年生の間は、専門科目は「医学概論」程度で、あとは教養科目だった。二年生になると、「人体解剖学」が始まる。自分が医学を学んでいることを初めて強く感じる学問だった。
私が進学したH医科大学は、医学部だけの小さな大学だったので、2年間の教養、4年間の専門、というのとは少し違っていた。たとえば、人体解剖の授業は、2年生から始まった。楔形カリキュラムと呼んで
横浜の風に吹かれて⑤
まだまだ続く高校生活である。
他校の先輩たちに頼んだことはもう一度あった。同じ高校に通うある女子生徒から、電話があった。下校の時間に待ち伏せをされたり、家までつけられたりして怖いとのことであった。話を聞いていくと、どうやら、商業高校の一年上の生徒らしい。今だったらストーカーというのだと思う。
私は言った。
「わかった、わかった。なんとかしておく。」
私がなんとかできるわけではない。できる
横浜の風に吹かれて④
高校での3年間は、今振り返っても、非常に密度の濃い、さまざまな経験をつんだ3年間だった。これほど自由に過ごした3年間はない。この3年間があったから、その後の人生を曲がりなりにも、大きく道を外れることなく過ごせたと思う。周囲の大人たちには、今思えば、ずいぶん心配をかけたものだと思うが、当時はそんなことは全く知らなった。何年もたってから、母が、「あの頃は、ご近所みんな、下のお子さん、大丈夫?」って心
もっとみる横浜の風に吹かれて①
どこかに書いておかなかきゃ、と思うことがあり、少しずつ書いてみる還暦の秋。まずは中学3年生の時の一大事からである。
日差しを遮るものなど何もない広大なグランドを走り回っていたあの頃、怖いものなど何もなく、ただひたすら楽しく過ごすことのみを考えていた。ある時は、まだ中学生なのに生意気な、と言われ、またあるときには、もう中学生なんだからもっとちゃんとしなさい、なんて言われていた。大人たちが自分た