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中二病は病気ではなく祝福である…が…劇薬には違いない

中二病を黒歴史だと思っているなら、その歴史を人生の最後まで塗り替えられない。中二病はせっかくり患したならば最後まで悪化して、世界の秘密まで到達するのが正解だ。むしろそんなチャンスは人間に生まれた時にしかやってこない。形あるものから形ないところまで悪化させるのがポイントだ。

形ないものを理解できるのであれば、形あるものの理解など容易いのだ。理解しなくても生きてはいけるが線分の上しか歩けない。前に人がいる間はおしゃべりしていられるが線分が途切れれば何もできなくなる。そのときになれば嫌でも理解する必要に迫られ、理解するはずだから心配は要らないのだが…。(必要は具現化の母)

無から有は生じない。だから有が無になることもない。無になろうとする過程で、有であった時の情報が消化される。有としての存在が情報としての存在になる。もともと宇宙が情報だ。だからそういう形で宇宙に還る。当然、有としての記憶が高次情報からの解釈にさらされ、人生を悔いることもできる。

そっちの方がよっぽど黒歴史だろう。それも線分の最後まで続いてしまっている。だからこそ高次の情報に基づいた解釈を求めて、中二病を無意識に発症させるのは選ばれし者への祝福なのだ。器用になることも求められているので、理解が得られる形で病気を宿命へ転換し、必要を要請することで高次の情報に到達すれば白歴史そのものになる。

忘却が心配で、星の歴史を長く見守りたいのであれば、その星が展開する世界の目指すところを把握して、それと同調することで、その目的を的確にサポートできる存在になればいい。その性質が唯一無二になれば、『金枝篇』よろしく、同じ機能を持つ者(王)が現れないうちは安泰だろう。そしてどうせなら他の星系(が意志するところ)も観察すればなおよい。


高次情報の一端

有から無に転換するときの振り返りが夢となって世界を創ることもある。それが転生だ。世界はそういう意味でも、情報なのだ。

言葉とは世界を分節するものである。固有名詞が理解できるというのはそれだけ世界から切り離されている。分離が進んだ世界なのであって、言葉の複雑さは争いによる忙しさに比例するのだ。

当然のようにドラマも複雑になり得るわけで、見方によっては素晴らしいが、そのドラマを観る方ではなく演じる方になるなら、忘却の強い方が優れていることになってしまうかもしれない。役者が舞台にリアリティを感じているからこそ、演じ方に迫力が出て観る者も楽しませるのだから。

ただ、舞台装置や観客構成の必然と神秘性にも気がついているクレバーな役者もいるので、もちろん一概には言えない。演じていることを自覚しつつ、その様子を全体的に観ているならば、舞台や観客を意のままに動かすことだって可能だろう。その場合はどこまでを舞台と感じるかが器量なのかもしれない。

分離が進むほど全体の把握は困難になるので、そういうクレバーさは稀有になっていく。役者としての経験を知恵として積み上げて、どこまでも自分の内側に掘り進んで、やがて世界の外で夢を見ている根源まで到達できるのは、なかなか、なのだ。


こういうファンタジー設定は理解できた方が面白い。本当の意味で生きることができるのだから。

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