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ACT.96『雨中進軍?』

現状を踏まえて〜気楽な幕鑑賞〜

 雨の影響は、相当大きいのだという事は富士に近づく中でなんとなく予想がついてきた。
 しかし、そうした中で富士方面を富士宮までの交通は確保されているらしい。取り敢えず、身延線に乗車していこう。
 到着した時、富士で折り返して甲府に向かう予定であった列車は『富士宮行き』となり、とにかくまずは『進める段階』まで列車を走らせようといった感覚を受けた。
 こちらもそこに倣って進軍していくしかない。
 いざ、鉄路で富士を沿って甲斐路へ。88キロ、身延線の旅路は足元の不安定な中に始まった。

 身延線の方向幕回し…というのは、最近の折返し作業の中ではかなり長い部類にカウントされるのではないだろうか。
 ワンマン運転の大変さ、段取りの多さを感じさせられる。
 既に乗客が自席に着席し、発車まで思い思いの時間を過ごしている中。自分はカメラではなく持っている端末で方向幕の回転を撮影した。
 冒頭の画像、浜松に続いてコチラは熱海。313系電車が行き先表示で出せる中ではかなり関東寄りではないだろうか。

 他にも、通常は『ワンマン』の言葉横に絶対並ぶ事のないであろう東海道本線の『島田』も中には挿入されている。
 ワンマン列車では絶対にこうした場所には行かないが、時たま増結の助っ人として東海道本線に現れる同車。
 そうした中で、『隠しコマンド』のようにして登場するこの表示は、この車両が現在も現役で本線を活躍しまだまだ衰える事のない気を吐く活躍をしている事を考えさせられる。

 中にはこうした『飯田線』に対しての対応幕も挿入されている。豊川・飯田などのコマが挿入されている中、飯田線の終点である『豊橋』の表記がここ富士で見られるというのは、車両の運用範囲とワンマン運転に於ける汎用性の高さを示しているように考えさせられる。
 実は313系の幕コマ回しはかなり長い。
 そうした中では、関西育ちで大阪を都市圏にして育った自分には「え?何処?」という表示も存在している。そもそもそんな表示は普段から使用しているのだろうか、というものも。

 山北。
 御殿場線の駅コマである。
 御殿場線はご存知の方も多いように、沼津から関東方面の神奈川県は国府津まで路線が伸びている路線だ。
 かつては小田急直通での特急列車『あさぎり』の相互直通乗り入れで、沼津と松田からの直通線に入り小田急線は新宿まで乗り入れた事は、鉄道ファンの記憶に新しいだろう。

 現在はそうした小田急からの新宿からの乗り入れ列車は相互乗り入れの沼津ではなく、写真の行き先である『御殿場』までの片乗り入れとなってしまった。
 沼津まで乗り入れた時代というのは『JR東海』・『小田急』ともに贅を尽くし。そして互いが鉄道のサービスで競い合った隆盛の時代として感じるものだ。
 …という話は完全に良いとして、この車両にも御殿場線でのワンマン運転に共通使用できるようにして『御殿場』の行き先が挿入されている。
 更に幕を巡ってみよう。

 下曽我などの幕コマも挿入されている中、自分が数少なくイッパツで理解できた御殿場線の行き先幕である。
 前回連載でも示したように、この『駿河小山』という表示は鉄道唱歌の中で
『出ては潜るトンネルの 前後は山北小山駅』
として歌詞に登場し、歌を何度か聞いているうちに
『御殿場線の駅』
として一瞬で理解できたのだ。
 ちなみに、一瞬だけ注釈として挿入するが現在の東海道本線は、昭和31年の東海道線全線電化…丹那トンネルの開通まで御殿場線を東海道本線扱いして複線化し、東京と神戸の鉄道ルートを確保していた。
 鉄道唱歌ネタ…として、これもまた触れておきたいと思ったので一節。また次回、御殿場線乗車の際には詳細を記していこう。
 そして最後に蛇足ではあるが、皆さんも可能なら方向幕の回転を発車前に眺めてみてはどうだろうか。
 その電車の活躍範囲もその事ながら、その電車が、その車両がどうした範囲での仕事を前提に想定されているのかを感じることが出来る。

不安定な前進

 身延線を乗車し、いよいよ甲斐方面への富士山の麓を行く鉄道の旅路が始まる。
 身延線は、連載内で記しているように甲府地区と東海道を鉄道で結節する為の交通手段として開業し、現在でも通勤・通学などで多くの乗客がこの路線を利用している。
 一通り方向幕の回転を『富士宮』までフルコマ撮影すると、車内に戻る。しばらくして、駅の構内放送が乗車している富士宮行きの発車案内を告げた。
 そのまま東海道本線をパスし、分かれるような分岐を進んでいくと列車は富士山に向かうようにして甲府までの鉄路を進んでいく。
 しかし、雨量規制に関する最新の案内が出ていないのが気掛かりだ。
 ゆったりと走る電車の走行音に耳を傾けつつ、京都からカバン内に忍ばせた文庫本のページを捲って暇を潰した。
 甲府まで行かない列車にしても車内はボックスが埋まる程度には乗車があり、自分はボックス座席の隅に設けられた小さなロングシートに着席した。
「ま、最悪は熱海からの八王子経由も視野かなぁ…」
雨は上がっているものの、身延線関係に関しては視界不良の中、旅は甲斐路を目指して進んでいく。
 列車は富士を東海道本線と分岐し、柚木・堅堀と進んでいくと今回の青春18きっぷ身延線最初の目的地、『入山瀬』に到着した。
 富士を出て最初2駅は無人駅であり、乗降は前扉からしか出来なかったのが入山瀬では駅員配置として全扉が開扉する。
 座席付近の扉から降車し、駅を眺めた。
 列車は扉を閉め、乗降促進のメロディを鳴らして走り去る。
 乗客たちは皆同じ方向へ、係員の居る改札に向かって進んでいった。
 跨線橋を隔てて駅舎は線路の脇にある。

 入山瀬の駅に降車。
 しかし、有人駅…とはいえ下車した時間帯は昼間だった事から昼休憩だったのか窓口は塞がれ、
『13時頃に再び開く』
旨が記されていた。
 この写真はそんな入山瀬の窓口の写真である。
 既に表示がJR化されてから間もない時代を感じるが、定期券の下の方に妙な塞ぎがある。
 光に照らすとその文字の輪郭が鮮明になるのだが、その中には『オレンジカード』の文字が入っている。
 かつて、JRが平成20年代まで販売したプリペイドカードだ。
 しかし、プリペイドカードと言っても大阪都市圏で普及し、関西私鉄の御用達手段であった『スルッとKANSAI』グループのカードのように。東京圏、関東私鉄の御用達手段であった『パスネット』のようにして改札に
『直接投入して』
の利用ではなく、
『一旦券売機に挿入して切符を購入』
せねばならない二度手間なプリペイドカードであった。
 まさかこうして富士山の麓征くローカル線の膝でこうした古の表記に立ち会えるとは。国鉄の分割民営化からはゆうに30年近くを経過しているので、そろそろこうした表示も遺産の仲間入りを果たしそうである。
 そうした表示を目に収め、目的に移動した。しかし目的とはいっても駅には本当に近い。歩いて10分かかるか(5分か?)否かの場所である。

北国からの使者

 入山瀬駅の駅舎からほんの少しの場所。すぐ近くを身延線が行き来する場所の公園に、蒸気機関車が保存されている。
 蒸気機関車、D51-943。
 1,115両という大量生産された蒸気機関車にして、最後は昭和50年に北海道は追分機関区でその活躍に終止符を打ち、我が国の蒸気鉄道の文明に大きく名を遺す蒸気機関車だ。
 『デゴイチ』のアダ名は、鉄道ファンならずとも多くの人に親しまれた説明不要の名称である。
 さて。この蒸気機関車。
 実は身延線とは一切関係のない場所でその活躍をしていたのだ。
 その証拠が残っている。

 軽く、説明の方を見てみよう。
 蒸気機関車の歴史に、車両のスペック。そして蒸気機関車の年輪のような説明が込められており、眺めているだけでも学習になりそうだ。
 その中、『走ったところ』というのを見てみると北海道は『函館本線』とある。
「身延線の沿線なのに…?」
となるかもしれないが、以前。北海道生え抜きの蒸気機関車を管理している場所でこうした話を聞いた事がある。管理団体の方から説明があったのだ。
「蒸気機関車の引退の頃、SLブームとして全国で蒸気機関車を保存して全国の公園や博物館に誘致する動きがあったんですよ。でもね、ブームの時は北海道で役目を終えた蒸気機関車が多かった。その名残で、北海道からの蒸気機関車がこの場所に居るんです。」
この説明を聞いた時に
「あぁ、それなら合点がいく」
と感じた。SLブームとして我が国に蒸気機関車引退の流行が沸騰した頃…というのは確かに昭和の40年後半であり、主要な都市からは蒸気機関車の引退が進行していた時期であった。
 そうした背景で、この入山瀬のD51形もこの場にいるのだろうか?少しばかり気になった次第でもある。

 そして、もう1つ函館本線を中心にして北の雪国を駆け抜けた証拠はこの辺りに残っている。
 切り詰められた煙よけ(デフレクター)。
 切り詰めの理由には、
『除雪作業を簡略化する為』との理由があり、雪の溜まりやすいヶ所の除雪に大きく貢献した。切り詰めた場所に雪が溜まると、すぐにスコップなどでかき出せたのである。
 そして雪の中をホワイトアウトしても前方の視界を確保する為、前照灯横に据えられた副灯。
 これらの装備は、雪の中で活躍するに欠かせなかった。

 そして、雪の中を大胆に線路上の雪を跳ね飛ばし前に進む道を確保する大きなスノープロウ。
 いざ前に立つと、この『雪と戦い抜いた』装備の分厚さに驚くのである。
 しかし、それでいてもD51形としてのプロポーション・スマートさはしっかりと確保している。そのギャップにはしっかりと驚くのだ。

 そんな北国暮らしにて一生を終えた蒸気機関車の活躍を労ってなのだろうか、車体側面…キャブの方には『釧路』の表記も存在している。
 さて、そんなD51-943の歩みであるが所属に関しては一貫して先ほども記したように静岡県には擦りもせず生涯一貫の北海道暮らしであった。
 昭和19年に長万部に配属されて活躍を開始。耐寒工事を終えて北国で本格的に活躍を開始する。
 昭和20年には追分機関区に。そこから一時的な休車などを経ていくが、昭和21年には岩見沢機関区に転属する。
 翌年、昭和22年には北海道…ならず蒸気機関車の名門機関区として名高きその名を刻んだ小樽築港機関区に所属した。
 昭和28年付近にはキャブを密閉化し、現在の形態に少しだけ近くなる。
 その後はボイラーの新缶交換や旋回窓の装着など、少しづつ重装備に歩んで行った。
 所属に関して動きがあったのが昭和48年。小樽築港を離れて北見に転属した。2年後、昭和50年。北見から滝川の機関区に移動した。
 そして、昭和51年に廃車となった。
 翌年、昭和52年に静岡鉄道管理局との富士市にて無償貸与が締結され、静岡県にやってきた。
 こうした流れでこの機関車は富士山の麓、富士市は入山瀬にて静かに余生を暮らしているのである。

 無理矢理にして撮影したが、甲府方面に向かって入山瀬の駅を発射する313系電車との共演写真。
 白飛びしてしまった状態で、313系電車のトレードマークである橙の帯しか識別できる場所がないがその点に関しては御了承を頂きたい…何しろ場所としての撮影環境問題も含まれているので
 現在は活躍した北海道を遠く離れ、身延線を横目にして静かな往時を偲んでいるのだった。

決戦への思いと

 後方に回り込んでみた。
 蒸気機関車の要である石炭を満載し、そして水も確保する大事な場所…炭水車側から撮影した。
 こちら側の方から撮影しても、このD51-943を大事に覆う屋根の迫力は充分伝わってくる。
 しかし、この側から見ると何の変哲もない(というのは非常に失礼か)D51形蒸気機関車で、唯一気にしてしまうヶ所があるとすれば後方を確認する際に点灯させる『テンダーライト』が装備されていない事だろうか。
 この部品の欠損が少し残念に感じる場所である。
 が、自分の中ではそうした蒸気機関車に関して全国で何台か観測しているのでそこまで大きな疑問は抱かなかった。

 そして、蒸気機関車を操縦する運転台となる『キャブ』にも、この蒸気機関車が『北国』で活躍した証拠が残っている。
 キャブの後方を見ていただきたい。
 キャブ後方に扉が装着されている。
 この扉の装着こそ、耐寒耐雪を強化した装備の1つであり、北海道で多く観測された『密閉式キャブ』と呼称されるものだ。
 この『密閉式』を採用する事によって、北海道の蒸気機関車はキャブ内の温度が低下する事を防ぎ室温の安定化を図った。
 そhして、見えにくいのだがキャブの窓の先に伸びる軒先の屋根のような装備がある。
 この装備は、通称『氷柱切り』と呼ばれており、雪で視界が見えなくなる事を防いでいた。
 この特徴を備えた蒸気機関車として、D51-943は寒冷地での活躍を現在に伝承している。

 D51形という蒸気機関車は、1,115台と日本の蒸気機関車の中では過去最多の製造を誇り、その中には様々な形態が存在した。
 中でも初期の砂箱・蒸気ドームなどを一体化したD51形の量産への舵を大きく切った流線形の要素を取り入れた通称『なめくじドーム』の形状は有名だろう。D51形の中でも初期の形態がこの中に入り、これから先の1,000台近く製造される事になる仲間の最初の兄弟としてこの世に生まれたのである。
 そんな中。
 1,000台目を目前とした943号機は、D51形の中でも大きく時代を意識した蒸気機関車となった。
 D51形蒸気機関車は、戦時下の中でも我が国に適合するその性能が高く評価され、量産はひっきりなしに続く。
 そうした中で、この943号機は『準戦時形』という仲間に分類される。
 来る物資不足、金属不足を見越して材料に『木材』などを使用した他、通常は蒸気機関車を構成していく上で『丸く角度を付けなくてはならない』部分を角張った形状にしたり。多くの技術節約の施策が残された。
 この後、我が国は更なる決戦に駒を進めていく事になり、D51形もその中で更なる『戦時仕様』になっていくのだが、それに関しては少し先の話である…

 最後。
 この美しい943号機を語る上で欠かせない?と思う国鉄の要素を撮影したのでご紹介しよう。
 国鉄の時代から、電化されている場所での作業を警告する際の『感電防止』を掲げた注意表記である。
 この表示が付いている蒸気機関車は、時代の雄々しい波に乗ってこの世まで駆け抜けた感じがして非常に頼もしい。
 思わず当時の色味、SLブームへの思いを回想してシャッターを下ろしたのであった。

生涯を変えた相方

 入山瀬の公園には、D51形蒸気機関車以外にも保存されている車両がある。
 その車両がこの車両だ。
 蒸気機関車と共に全国を旅し、かつてはこの車両に乗り込んで旅を進めていった旅客の伴奏者…
 旧型客車である。
 この場所に保存されているのは旧型客車の中でも全国で比較的車両が多く残っている形式、『オハ35形』である。
 この入山瀬の場所に保存されている『オハ35-441』は、そうした旅客たちの旅路を回想させ。鉄道が移動手段の源流だった頃の昭和…を残し語り継ぐ存在ではなく、現在は役目を変えて新しい仕事に勤しんでいる。
 写真の中。通常の旧型客車と異なる部分を発見した。

 正面に回り込んで撮影する。
 車両のど真ん中に時計が吊るされているのがわかるだろうか。
時計の時間は完全に正確というわけではなく、かなりの時間をオーバーしていたこの時計が吊るされている状態で、この車両が現在は何か違う施設として稼働している事がわかる。一体その仕事とは何なのか、中に入ってみよう。

 反対側の車両に回り込むと、車両の前にはタラップのように階段が敷かれ扉が設置されていた。どうやらこの階段を登って、旧型客車の中に入る事が可能のようである。
 車両の貫通扉横には簡易的な住宅でよく見かけるポストも設置されており、鉄道車両ではなく、現在は『建造物』としてこの地で生涯を過ごしているのだと感じさせられる一瞬であった。
 横には普通のように旧型客車然としている姿が残されている。

 オハ35-441に設置されている銘板。
 先ほど映り込んでいたポスト…とは逆にし、こうした物々を確認してしまうとこの車両が
『鉄道車両として全国を走り回った証』
として見てしまう。
 日本車輌での製造…のようで、どうやらこの車両は静岡に近い東海の出身であろうか。
 そして長野工場の銘板も確認される。
 その上に、日本国有鉄道…の銘板。
 やはりこの表記は素晴らしい。客車が生き抜いた『国鉄』を感じるものだ。
 それでは、階段を上がって脚に傾斜を感じつつ、車両の内部に入っていこう。

 少しだけこのヶ所に驚いてしまったので撮影してしまった。
 車両を塞ぐ扉…貫通路の部分は埋められ簡易的な引き戸が装着されており、『地面に固定されて今後は車両ではなく建造物として仕事をする覚悟』のようなものを感じた。
 そして。個人的に驚いたのは『アルソック』の安全表示。警備会社までしっかり紐付けされているとは、その用意周到さに驚くものである。
 なお、車両の下を見るとそこは完全に旧型客車時代の木の木目床になっており、落差の激しさ…元の役目の鉄道車両としての半生を窺い知る。
 ちなみに横には便所・手洗い場も通常通りにあり、客車としてこの建物がかつて現役だったことを静かに語っているようであった。

 客車の車両内に入ると、ギッシリ詰め込まれた書籍の数に驚いた。
 どうやらこの施設は『図書館』として運営されているようである。
 しっかりと客車内の入り口には司書の方も駐在し、書籍の貸し出しも可能になっている。
「いつでもカードを作ってくだされば、貸出も可能ですよ」
と本日の司書さん。
 多くのお話を聞く事ができた。
 この施設…客車を改装した小さな図書館は、市の施設として現在まで使い受け継がれているのだそう。
「列車の中でゆったりコーヒーなんか飲めたら良いんだけど、こんなのつまんないわよね…」
「いやいや、面白いですよ。こんな鉄道の余生もあるのかって感動しましたし…」
むしろ列車カフェなどとして使用されている鉄道車両のコンテンツが流行する中で、地面にしっかりと線路を張って『図書館』として使用されている余生の方が珍しくて面白いと思う。

「どちらからいらしたの?」
「京都ですね。」
「あらぁ、京都?遠いところからいらっしゃったわねぇ…」
「そうですか?いえいえ。身延線が雨量規制だったから大変でしたよ。」
「そうねぇ、雨が今日はすごかったものね…。学生さん?」
「いえいえ、福祉関係の者です。」
「福祉?大変でしょう、人間が座っていないと出来ない職業だものねぇ…」
あの、違うんです。僕は享受している側なんです。ごめんなさい。笑
 全国で蒸気機関車などを回っている…と話すと、様々な話をしてくれた。本当に面白い女性の司書さんであった。
「僕のようにして、この施設や公園を訪問される鉄道の好きな方は多いんですか?」
「何人か居るわね、何年か前に、この図書館の為だけに車で来た、って言ってた岐阜の方がいたような…」
「居るんですね、鉄道ファンの方にも多く認知されているとは…」
「その方ね、富士山は見ましたかって聞いたらまだ見てないって。もしかしたらその為に来たのかと…」
「ほ、本当にそんな事があるんですね…」
知る人ぞ知る施設になっているようだ。旧型客車の知名度、恐るべし。
「写真、撮影して良いですか?」
「大丈夫ですよ、幾らでも…」
なので、室内の写真はこうした話の上、許可を得ての撮影である。決して無断では撮影していない。
 司書の方もカウンターでじっくりと麗かな春の日差しを浴び、読書をゆったりと楽しんでいた。入山瀬にて余生を暮らすオハ35-441は公園憩いの場としてしっかり地域に根差したようだ。

 図書館としてこの施設はかなり長い期間の営業をしているようで、書籍の中には相当年季の入ったものもあった。
 その中で発見した、10冊の写真絵本。
 鉄道写真界の巨匠、南正時氏の写真で構成された岩崎書店の『鉄道だいすき』だ。
「おぉ、久しぶりに見つけた!!こんな場所で再会するとは…」
この写真絵本、自分にとっては並々ならぬ感謝がある。
 何しろ、この書籍がなければ自分は鉄道ファンになっていなかったし鉄道オタクになれなかったのだ。この書籍を図書館。そして小学校の図書室で何度も貸し借りをして自宅までの通学路で読み耽った。
 この書籍が、自分の『鉄オタDNA』に刻まれていると言っても過言ではない。南先生の鉄道写真には、何度も魂を刺激された。
 久しぶりに1冊を取って中身を開く。
「ははは…随分車両の変化も激しかったなぁ…」
今はこの世に居ない車両もあれば、現代の少年少女たちには分からないであろうコンテンツも掲載されている。
「えぇ、コイツが最新鋭だったのか…?」
そんな車両たちも紹介されていた。しかも新品の艶々、落成を終えた後の姿で撮影されている車両もあり南先生の活動年月の長さにも痺れる。
 南正時先生は現在でも活動されており、福井県で生まれ育った方だ。最新の北陸新幹線・敦賀延伸の際も元気に取材をされており、氏の見てきた時代の長さを思う。
 自分にとっては、土台であり巨匠。
 あの時代に養成される道のりがなければ、自分のこの姿もないと思うとどうにも感慨深い。
 10冊の書籍に出会った時、昔懐かしい友人が
「元気にしてたか?」
と声を掛けてくるような気持ちにさせられた。記憶とは恐ろしいものである。
 恩人のような存在を収めて背景に聳えるD51形機関車の動輪は、少年の自分から現代の自分に向かっての階段が見えているように思えたのであった。

 客車の奥まで進むと、ボックスシートがそのまま残されていた。
 しっかりと読書スペースを客車を尊重し確保している事に、図書館としての車両の新たな活用を見た。
 沢山の書籍を前にして着座するボックスシートは少し慣れない感覚にさせられたが、客車時代の内装を全て取り払う事なく、しっかりと時代への敬意を残すかのようにして残置している車内はステキなモノだった。
 自分が車両の内装を撮影している時。まだ春休みの期間だったのか、少年たちが大人に連れられ上がり込んできた。
「すいません、ちょっとこの子たち見ててもらって良いですか。」
父親のような存在の子連れ男性が司書と話をする。
「いい子にしてなきゃダメよ、」
「はぁーい。」
少年たちのやりとりを、少し笑顔を含んで見守る。
 客車内に取り残された少年たちは、一目散に漫画の棚に向かって駆け出し、思い思いの書籍を取って読み出した。
 先ほど掲載した鉄道向けの児童書以外にも、客車内にはマンガ・小説・雑誌…など多くの多岐に渡る多いジャンルの書籍が配架されている。
 児童施設、として公園の中に佇むだけではなく、地域の貢献者として本の憩いを届けているようだ。

 客車の突き当たりまで行った場所から、反対側を観測する。
 ボックスシートの並んだ場所から、一気に図書館然とする書籍の量には温度差を感じて驚くが、それもこの客車が『本の憩い』を届ける為に全力を尽くしているからこそ。
 第2の仕事を楽しく謳歌しているように感じたのであった。
 先ほど、『マンガの配架がある』と記したが、その中にも『MAJOR』・『ドラゴンボール』・『こちら葛飾区亀有公園前派出所』・『ONE PIECE』…これ以外にも種類はあったが、公園に遊びにくる少年層にも少し寄り添ったようなラインナップを感じた。
 自分は少しだけ『MAJOR』を読んだのだが、少しだけ読んだ場所でネタバレ阻止に読む手を止めた。ちなみに分かる方に示すと吾郎vs寿也の高校編が終わる手前くらいです
 上がり込んだ少年たちは熱心にマンガに読み耽り、自分の客車を満喫し記録するシャッターサウンドには目も暮れなかった。
 いつになろうと、マンガの生み出す集中力はアツいものがあるのだと感じる。

昭和の激動に沿って

 図書館…としての時間や、少年たちと過ごした車内でのひと時、とここまでは第二の余生に関して記した。
 ここからは、客車としての生涯について見てみるとする。
 幾ら第2の生涯が線路付きの図書館だからといって、この客車は完全に転職に馴染んだわけだはない。車両内には銘板や便所灯などが点在し、鉄路に残っていた時代を度々彷彿させる。
 客車内を隈なく探検するようにして見ると、こうした物々を発見し非常に面白い。それが保存車観察の中で病みつきになったりするのだ。
 さて、この客車…オハ35-441。この客車の自己紹介と客車に関する話に関して記そう。

 まず。オハ35形について。
 このオハ35形という客車は、戦前時代からの製造によって日本最多の両数になった客車である。その数は、客車形式最多の2,000両近くとなる。昭和。特に戦前の時には、このオハ35形こそが最大勢力を誇り、土台となったスハ32形客車と共に大活躍を残した。
 そんなオハ35形が誕生したのは、昭和14年の話である。溶接を車両構成に多く用い、折妻・丸屋根の形態を持って登場。そして1メートル幅の窓を持っていた。
 オハ35形は戦前製造が昭和17年まで実施される。
 製造は戦後まで継続され、戦後の資材難な中でも材料や製造に苦心をしながらも客車としての命を繋いだのであった。

 台車にはTR23形を採用した。後にこの台車はコロ軸受の国産化として台車の改良を実施した新台車、TR34形に交換され、戦後も仲間を増やした。
 そんな2,000両近い兄弟の中、441両目となったオハ35-441。昭和16年に製造されたこの客車は、戦前製の標準的なオハ35形一族として製造された。
 所属区、生涯に関してであるが昭和52年。最後は東海地区の亀山客貨車区にて生涯を閉じたと記されている。
 戦後の混迷の時代を駆け抜け、鉄路では老兵の立ち位置になっても活躍を継続したオハ35-441。
 余談ではあるのだが、亀山客貨車区…といえば当然ながら尾鷲方面に向かう紀勢本線・鳥羽方面に抜ける参宮線の運用にも当然寄与しているハズなので、もしかすると我が母も学生時代にこの客車を利用し通学の世話になったのかもしれない。
 そうした思い。親子2世代でこの車両を見ていると思うと気持ちがどうも感慨深くなるものだ。
 母は通学時代の列車に関して
「赤い機関車が先頭に立つ古い木の内装の列車だった」
と語っており、間違いなくそれは紀勢本線に尽くしたDF50形による客車列車で間違いない。
 まさかこうして山の中で、母を回想する遺産を目にするとは。
 少年たちの笑い声、マンガへの眼差しを背にして自分は客車を離れていくのであった。

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