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地方映画史研究のための方法論(25)抵抗の技法と日常的実践③——スチュアート・ホール「エンコーディング/デコーディング」

見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト


見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト

「見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト」は2021年にスタートした。新聞記事や記録写真、当時を知る人へのインタビュー等をもとにして、鳥取市内にかつてあった映画館およびレンタル店を調査し、Claraさんによるイラストを通じた記憶の復元(イラストレーション・ドキュメンタリー)を試みている。2022年に第1弾の展覧会(鳥取市内編)、翌年に共同企画者の杵島和泉さんが加わって、第2弾の展覧会(米子・境港市内編)、米子市立図書館での巡回展「見る場所を見る2+——イラストで見る米子の映画館と鉄道の歴史」、「見る場所を見る3——アーティストによる鳥取の映画文化リサーチプロジェクト」を開催した。

地方映画史研究のための方法論

調査・研究に協力してくれる学生たちに、地方映画史を考える上で押さえておくべき理論や方法論を共有しておきたいと考え、この原稿(地方映画史研究のための方法論)を書き始めた。杵島さんと行なっている研究会・読書会でレジュメをまとめ、それに加筆修正や微調整を加えて、このnoteに掲載している。これまでの記事は以下の通り。

メディアの考古学
(01)ミシェル・フーコーの考古学的方法
(02)ジョナサン・クレーリー『観察者の系譜』
(03)エルキ・フータモのメディア考古学
(04)ジェフリー・バッチェンのヴァナキュラー写真論

観客の発見
(05)クリスチャン・メッツの精神分析的映画理論
(06)ローラ・マルヴィのフェミニスト映画理論
(07)ベル・フックスの「対抗的まなざし」

装置理論と映画館
(08)ルイ・アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」
(09)ジガ・ヴェルトフ集団『イタリアにおける闘争』
(10)ジャン=ルイ・ボードリーの装置理論
(11)ミシェル・フーコーの生権力論と自己の技法

「普通」の研究
(12)アラン・コルバン『記録を残さなかった男の歴史』
(13)ジャン・ルイ・シェフェール『映画を見に行く普通の男』

都市論と映画
(14)W・ベンヤミン『写真小史』『複製技術時代における芸術作品』
(15)W・ベンヤミン『パサージュ論』
(16)アン・フリードバーグ『ウィンドウ・ショッピング』
(17)吉見俊哉の上演論的アプローチ
(18)若林幹夫の「社会の地形/社会の地層」論

初期映画・古典的映画研究
(19)チャールズ・マッサーの「スクリーン・プラクティス」論
(20)トム・ガニング「アトラクションの映画」
(21) デヴィッド・ボードウェル「古典的ハリウッド映画」
(22)M・ハンセン「ヴァナキュラー・モダニズム」としての古典的映画

抵抗の技法と日常的実践
(23)ギー・ドゥボール『スペクタクルの社会』と状況の構築
(24)ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』

スチュアート・ホールと能動的オーディエンス論

スチュアート・ホール(1932-2014)

スチュアート・ホール

スチュアート・ホール(Stuart Hall)は1932年ジャマイカ・キングストン生まれの社会学者・文化理論家・批評家。1951年にイギリスのオックスフォード大学に留学し、ニュー・レフト(新左翼)運動に関わる。『ユニバーシティーズ・アンド・レフト・レビュー』誌の編集に携わり、1959年からは『ニュー・レフト・レビュー』誌の編集長を務めた。その後、1961年にロンドン大学チェルシー・カレッジの教員に着任し、ポピュラー・カルチャーについての研究と教育を行う。1964年にはバーミンガム大学現代文化研究センター(Centre for Contemporary Cultural Studies、CCCS)に赴任。初代センター長のリチャード・ホガートらと共に、ハイカルチャーに限らず広範なサブカルチャー(大衆文化)も対象とした研究を行い、「カルチュラル・スタディーズ Cultural studies」(文化研究)と呼ばれる、新たな研究の潮流を作り出した。

ホールは『ザ・ポピュラー・アーツ The Popular Arts』(パディー・ワネルとの共著、1964年)、『儀礼による抵抗──戦後イギリスにおける若者サブカルチャー Resistance Through Rituals: Youth Subcultures in Post-War Britain』(T・ジェファースンとの共編著、1976)、『危機を取り締まる Policing the Crisis: Mugging, the State and Law and Order』(C・クリッチャー、T・ジェファースン、J・クラーク、B・ロバーツとの共著、1978年)、『イデオロギーについて On Ideology』(B・ラムリー、G・マクレナンとの共著、1978年)など、数多くの論文・論集を発表しているが、自身の理論や思想をまとめた単著を生前に発表することはなかった。そのため、ホールについて学ぼうとする者は、多くの場合、彼の死後に刊行されたアンソロジーを入口にすることになる。

邦訳としては、『現代思想1998年3月臨時増刊号でホールの特集が組まれた他、『親密なるよそ者』(吉田裕 訳、人文書院)、『アンカット・ファンク——人種とフェミニズムをめぐる対話』(ベル・フックスとの共著、吉田裕 訳、人文書院、2023年)などの書籍が刊行されている。

能動的オーディエンス論

今回紹介する論考「エンコーディング/デコーディング Encoding, Decoding」は1974年に「テレビ言説におけるエンコーディングとデコーディング Encoding and Decoding in the Television Discourse」として発表され、1980年に「エンコーディング/デコーディング Encoding/Decoding」と改題された(ここでは、『The Cultural Studies Reader Second Edition』(Routledge、1993)所収の同論文「Encoding, Decoding」を参照している)。

ホールは同論考を、当時北米を中心に盛んに行われていた「マス・コミュニケーション研究」の批判から始めている。曰く、従来の研究では、コミュニケーションのプロセスを、循環する回路やループといった情報工学的なモデル(シャノン=ウィーバー的なモデル)で表してきた。ホールはこのモデルの特徴として、(1)コミュニケーションを「送り手 – メッセージ – 受け手」という線状的なプロセスとして捉えていること、(2)メッセージの交換の契機を重視していること、(3)コミュニケーションのプロセスにおける諸関係の複雑な構造を軽視し、プロセス全体を単純化して理解しまっていることの3点を挙げて批判する。

さらにホールは、これに代わるモデルとして、マルクスによる商品生産の理論を応用し、「生産 – 流通 – 使用・消費 – 再生産」いうモデルを提唱する。このモデルでは、メッセージの「送り手」が「生産者」となり、「受け手」が「消費者」となる。また線状性を特徴とする従来のモデルでは「送ること」が始点、「受け取ること」が終点となるのに対して、新しいモデルでは、「受け取ること」(消費すること)が新たな意味やメッセージの生産もしくは再生産にもつながるという、循環的なプロセスとして記述されていることに特徴がある。

コミュニケーションのプロセスにおける「生産」や「流通」などの各契機は、それぞれ関連性を持ちつつも独自の形式や成立条件を備えたものとしてあり、特定の契機だけが伝達するメッセージや意味を完全に決定したり保証したりすることはない。プロセスに関わるすべての契機が、メッセージや意味の決定に関わり、また、連動する他の過程に影響を与える。

同論考の重要性は、上記のように、コミュニケーションのプロセスを循環的なものとして描き出すことで、従来は受動的な存在として扱われていたテレビの視聴者オーディエンス audience)を、自ら能動的にメッセージを解読し、新たな意味を生み出す主体として捉え直したことにある。こうした「能動的オーディエンス論」(アクティブオーディエンス論)はその後の視聴者オーディエンス研究や観客研究に多大な影響を与え、「エンコーディング/デコーディング」は繰り返し参照される古典的な論文となった。

エンコーディング/デコーディング

エンコーディング/デコーディング

コミュニケーションのプロセスを研究するためには、やりとりされるメッセージの「内容」を分析するだけではなく、そのプロセスにおけるメッセージの言説的「形式」が特権的な地位を占めていることを認識しなければならない。またそこでは、特に「エンコーディング」と「デコーディング」の契機を検討することが──コミュニケーションのプロセス全体の中では相対的に「自律性」を持つにすぎないにしても──重要であるとホールは言う。

前提として、コミュニケーションは必ず記号システムの内部で行われる。そのため、何かしらのメッセージや意味を伝達するためには、それを「エンコーディング encoding」──任意の対象を一定の規則に従って「コード code」(記号)に変換すること──を行って、言説のシステムに参入させなければならない。またコードを受け取った者は、それに対して「デコーディングdecoding」──エンコーディングとは逆方向の変換を行い、元の対象を復元しようとすること──を行わなければならない。

テレビ番組におけるエンコーディング

今まさに目の前で起きている歴史的出来事を報道しようとしても、それをありのままの形態で伝達することはできない。出来事が視聴者に伝達されるためには、テレビという言説の視聴覚形式の内部を通らなければならず、その言説システムの形式的規則に従わなくてはならないからだ。別の言い方をすれば、出来事は「伝達される出来事」となる前に一つの「物語」へと変換される。

例えばテレビ番組を制作する際、そこで生産されるメッセージは、報道の制度的構造によって規定される。すなわち、テレビ放送の仕組みやテレビ局が持つ機材などの技術的インフラのような「物質的構造」に加えて、取材のアポや撮影場所の許可申請、記者発表会への参加など、これまでに培われた慣習的な手続きといったテレビ番組の「生産構造」に従ってメッセージが生産される。

またテレビ番組の制作は、テレビ局という閉じたシステムの中で行われるわけではない。彼/彼女らはそれぞれの社会的・文化的・政治的背景のもとで、これまでに流通してきた言説や定義、視聴者に関する想定──視聴者が番組にどのような反応を示すか、どのような番組を期待するかなど──といった「知識の枠組み」を踏まえながら、具体的に取り上げるべき出来事やトピック、議題などを決定していく。

以上のように、エンコーディングは言説システムに参入するための「入口」であるが、そこで生産されるメッセージは、社会的な出来事や技術的インフラ、テレビの生産構造、知識の枠組みなど、言説システムの外部にある様々な生産条件のもとで、重層的に決定される。そこでは、メッセージの「受け手」である視聴者からの反応や意見、今後の番組への期待などもフィードバックされ、テレビ番組の制作プロセス自体に組み込まれていくだろう。冒頭で述べたように、コミュニケーションは線状性のものではなく、循環的なプロセスとして理解せねばならないのである。

テレビ番組におけるデコーディング

以上のようにしてコード化されたメッセージが実際に何らかの意味を成すためには、視聴者による解読がなされなければならない。デコードされることによって、テレビ番組のメッセージは初めて社会的な有効性や政治的な効果を獲得し得るのである。

だが、エンコードされたコードとデコードされたコードは同一のものではなく、必ず何かしらの歪曲が生じる。例えば、映像に映し出された犬は現実の犬と同様に吠えるかもしれないが、決して視聴者に噛み付くことはないだろう。

テレビは常に特定の社会・文化的な諸力を反映せざるを得ない言語である。そのため、マスメディアを通したコミュニケーションには、受け手と送り手との間にメッセージの理解をめぐるズレや誤解が不可避的に生じる。テレビ番組がどれだけ明白に見えるメッセージを発したとしても、それを受け取る視聴者個々人は、各自の社会的位置づけに応じて異なった解釈や意味づけをするだろう。こうしたコミュニケーション上の「理解」と「誤解」の度合いは、メッセージの生産者と消費者の関係、両者の立場の対称性・非対称性の程度に依存するとホールは指摘している。

エンコーディング/デコーディングのモデル
(『メディア論の冒険者たち』p.108)

テレビ記号の多義的価値と優勢な意味

類似記号としてのテレビ映像

従来のマス・コミュニケーション研究では、以上のようなコミュニケーションのプロセスにおけるデコーディングの契機──すなわち自らメッセージを解読する主体としての視聴者の役割──が軽視あるいは無視されてきた。ホールはその原因として、テレビという言説が「類似記号」を用いていることが関係しているのではないかと指摘する。

チャールズ・サンダース・パース記号論では、記号は類似記号icon)と指標記号index)、象徴記号symbol)に3分類される。類似記号は、例えば具象絵画のように対象と何らかの類似性によって結びついた記号であり、指標記号は、銃痕や足跡のように対象と物理的に結びついた記号である。そして象徴記号は、言語や数、国旗など、対象との類似性を持たず恣意的に結びつけられた記号であるとされる。

美術批評(例えばロザリンド・クラウスの写真論)や映画研究(アンドレ・バザンやロラン・バルトを踏まえた映像のリアリズムに関する議論など)では、伝統的に、写真や映画などのカメラ映像を──被写体が反射した光がフィルムに直接記録されたものと捉えることで──指標記号に分類することが行われてきたが、パースはテレビ映像について、それとは異なる説を唱えたということになる。

ここで重要な論点は、類似記号はそれが意味しようとする対象と外見的に類似しているため、あたかも対象や概念そのものであるかのような感覚を覚えるが、当然のことながらそれは錯覚でしかないということだ。テレビ映像において、三次元の世界は二次元の平面に変換されている。先述したように、画面上の犬は吠えることはできても、視聴者を噛むことはできない。類似記号としてのテレビ映像がどれだけ「自然」に見えたとしても、それはあくまで「慣習」的な言説の効果として「自然」だと感じられているにすぎない。コードは自らの姿を隠蔽することで、人びとの思考や信念に無意識的に作用する、イデオロギー的な効果を発揮するのである。

明示的意味と暗示的意味

ロラン・バルトは『神話作用』(1957)などの著作で、ある記号から連想される意味を「明示的意味」(デノテーション denotation)と「暗示的意味」(コノテーション connotation)とに区別している。

明示的意味は、その記号が何を意味するかについての一般的な同意が得られた意味であり、「文字通りの意味」とも言われる。それに対して暗示的意味は、例えば「セーター」が「暖かい衣服」という意味を含意していたり、それを活かして「冬の訪れ」や「寒い日」などを意味することも可能であるというように、その語から連想されるより高次の意味を指す。暗示的意味は、社会的・文化的な文脈や慣習、階級やイデオロギーによって特徴づけられたり、変化したりするものである。

ホールは明示的意味と暗示的意味の区別に、記号を分析する上での一定の価値を認めつつも、実際にはそのような区別は成り立たないと考える。なぜなら、どれだけ「文字通りの意味」に見えたとしても、あらゆる記号の意味は一義的に確定することはできず、必ず暗示的意味を含むからだ。

テレビ的記号の多義的価値

以上のように指摘することで、ホールは、メッセージの生産者と消費者の間で生じる「意味をめぐる闘争」を強調して語ろうとしている。曰く、程度の差こそあれ、あらゆる社会や文化は「支配的な意味」あるいは「優勢な意味」を人びとに押し付けることで、支配的な文化秩序を構成しようとする。例えばテレビ番組の制作者は、生産したメッセージが意図通りの意味として伝わらないことを、視聴者の「誤解」と捉え、正しい意味を読み取るように矯正しようとするだろう。だが視聴者は、そこで単に「誤解」をしているわけではなく──そういう場合もあるだろうが──体系的に歪曲したコミュニケーションを行なっている。消費者(視聴者)は、生産者によってあらかじめ用構築された意味を、そのままのかたちで受け入れるのではなく、様々な暗示的意味へと変容させることで、「意味をめぐる闘争」を行っているのだ。

ホールはテレビ番組の映像には、単一の意味ではなく、多方向に拡散して互いに拮抗し合うような「多義的価値」があると述べる。視聴者は、消費者であると同時に生産者でもある者として、テレビ映像から受動的に「優勢な意味」や「支配的な意味」を読み取るだけでなく、それとは異なる意味や新たな意味を生み出してもいるのである。

ただしホールは、ここで言う「多義性」を、自由で民主的な選択を含意する「多元性」と混同してはならないと注意を促している。視聴者は、テレビ番組の映像からどのような意味でも自由に生み出せるわけではない。あくまで「相対的自律性」の範囲で、暗示的意味を見出すことしかできないのだ。

優勢な意味・支配的意味

またここで、ホールがあえて「決定的」などの言葉を用いず、「優勢」や「支配的」という語を選択していることに注意しよう。すなわち、優勢な意味・支配的意味もまた、決して単一の意味(明示的意味)や固定された意味として把握・理解できるものではないということだ。

先述したように、あらゆる社会や文化は優勢な意味・支配的意味を視聴者に伝達することで「支配的な文化秩序」を構成すべく、「意味をめぐる闘争」の場において恒常的な闘争・折衝を行なっている。人びとの常識や自明性に働きかけることで「好ましい意味」や正統な読解の仕方を指定し、自分たちの生きる世界を把握・理解するための枠組み──この枠組みは「意味の地図」とも呼ばれる──を与えようとする。

だが「意味をめぐる闘争」の場に参入しているということは、別の言い方をするなら、優勢な意味・支配的意味は視聴者(消費者)に向けて一方的に押し付けられるものではなく、両者は双方向な関係を持っているということでもあるだろう。メッセージの消費者から抵抗を受けることによって、優勢な意味・支配的意味の側が逆に変容を強いられることだってあり得るのだ。

視聴者がとり得る3つの立場

「支配的-ヘゲモニー的」立場

ホールはテレビ番組の視聴者がデコーディングを行う際にとりうる立場として、「支配的-ヘゲモニー的」(dominant-hegemonic)立場、「折衝(交渉)的」(negotiated)立場、「対抗的」(oppositional)立場の3つがあるとの仮説を立てている。

支配的-ヘゲモニー的」立場では、視聴者は支配的秩序によって正当化されたコード(支配的コード)に従い、メッセージの生産者の意図に完全に従った解読を行う。これは「完全に透明な」コミュニケーションの理想的・典型的な例であり、支配的階級のイデオロギーに沿って世界を捉えることである。例えばアメリカで「9.11」(アメリカ同時多発テロ事件)に関する報道番組を見て、その出来事が「文明世界」に対するテロ攻撃であるという論調に同意する視聴者は、「支配的-ヘゲモニー的」立場にあると言えるだろう(ここで挙げた「9.11」の事例については、ジェームス・プロクター『スチュアート・ホール』(青土社、2006)を参照した)。

「折衝(交渉)的」立場

折衝(交渉)的」(negotiated)立場は、支配的コードに部分的に従いながら、それに抵抗したり、別の見方を採用することもあるという、矛盾した立場である。

 支配的な文化秩序の元で生産される意味やメッセージは、大局的な状況やグローバルな出来事を「大きな視点」で捉え、国益や地政学のレベルで読み解こうとする。だがそのようにして生産された意味やメッセージは、個々人の具体的・特殊な状況と相容れないものになることもあるだろう。

例えば不況のため賃金上昇を抑える政策が行われたというニュースを見て、労働者はそれを国益という観点からは致し方ないと考えるかもしれないが、その認識とはまったく無関係に、自分自身の給与引き上げや労働条件の改善を求めてストライキをする意欲を持っているというような場合が、「折衝的」立場に該当する。あるいは、「9.11」でアメリカへのテロ攻撃を批判しつつ、同時にそれを「非文明」世界からの攻撃と捉える見方や、西洋のイスラム教徒への人種差別には反対しようとすることも、「折衝的」立場であると言えるだろう。

「対抗的」立場

対抗的」(oppositional)立場では、視聴者は支配的秩序によって正当化されたコードに従わず、完全に対立した解読を行う。ホールはこの立場を、もっとも重要な政治的契機の一つであると述べている。

先ほどの例で言えば、賃金上昇を抑える政策に関するニュースに対して、そうした国益重視の政策は、特定の階級の利益のためにすぎないと批判的に捉えるような場合が「対抗的」立場に該当する。また「9.11」の例では、西洋のイスラム教徒が「テロに抗する戦争」を掲げるニュース番組に賛同せず、実態は「イスラムに対する戦争」ではないかと捉えるような立場がこれに当たるだろう。

対抗的」立場においては、「折衝的」立場と同様に視聴者の個別的な文脈が強調されると共に、支配的コードに即したメッセージが、実のところ全体性や一般性を備えておらず、恣意的で個別的・特殊的な意味であるにすぎないと暴露されることで、それに対立する新たな意味が生み出されるのである。

地方映画史研究への応用に向けて

映画の観客論への応用

与えられたメッセージをただ鵜呑みにするのではなく、自ら能動的に読み解き、新たな意味を生み出す主体としての視聴者像を描き出したホールの「エンコーディング/デコーディング」に関する議論は、映画観客の鑑賞経験や作品受容についての研究や分析にも応用ができるだろう。

例えば北村匡平は、リレーエッセイで成瀬巳喜男めし』(1951)を例に挙げて、ホールの「エンコーディング/デコーディング」論を説明している。曰く、労働に励む男性に寄り添って生きることが「女の幸福」であるという同作の結末について、当時の批評家や観客の多くは「支配的-ヘゲモニー的」立場に立ち、映画制作者(生産者)がコード化したメッセージをそのまま受け取った。だが中には、そのような「女の幸福」観は権力者のイデオロギーにすぎないという「対抗的」立場に立つ者も居ただろう。北村はこうした「読み」の多様性を示すことで、映画制作者が作品を通じて伝えようとする意味は、観客の読解次第で大きく変容するのだと語っている(北村匡平「第12回 利他と受容——〈意味〉を紡ぎ出す」2021年11月1日)。

成瀬巳喜男『めし』(1951)

ベル・フックス「対抗的まなざし」

ホールの「エンコーディング/デコーディング」論を映画批評や作品分析に応用した例として、もっとも重要なものの一つは、ベル・フックスの「対抗的まなざし──黒人女性の観客性」(1992)だろう。フックスは同論考において、従来の映画理論における受動的・抽象的な観客モデルを批判し、黒人女性観客という具体的な観客たちの映画体験を描き出そうとした(地方映画史研究のための方法論(7)ベル・フックスの「対抗的まなざし」を参照)。その中で、ミシェル・フーコーの権力論とスチュアート・ホールの能動的アクティブオーディエンス論を参照して「対抗的まなざし Oppositional Gaze」という概念を提唱。支配や抑圧を受けている状況下でも、支配階級や多数派層に対抗的なまなざしを向けることによって、現実を変え、自分たちの力で主体性を構築することができるとした。

また次回に取り上げるロバート・スタムエラ・ショハットの『支配と抵抗の映像文化──西洋中心主義と他者を考える』(法政大学出版局、2019)でも、ホールの能動的オーディエンス論が──とりわけ「折衝(交渉)的」な立場を重視するかたちで──参照され、多文化主義の立場に立った映画観客論が展開されている。

オーディエンス論における「視聴空間」の発見

またホールのオーディエンス論は、映画本編の鑑賞体験のみならず、その前後の体験を分析する上でも有用だろう。近藤和都は、映像文化をめぐる経験を研究するためには、一次的なメディア(映画作品自体)の分析だけで満足するのではなく、予告編や新聞広告、チラシやポスターなどの「二次的なメディア」が果たす役割にも目を向けるべきだと述べている(近藤和都『映画館と観客のメディア論──戦前期日本の「映画を読む/書く」という経験』青弓社、2020)。映画会社や興行者が1人でも多くの観客を映画館に動員すべく生産したメッセージを、人びとがどのような場所・タイミングで受け取るのか、そしていかなる意味を読み取り、それが具体的な行動につながるのか(あるいはつながらないのか)を問う際に、ホールの議論が適用できるはずだ。

映画やテレビに限定されない、多種多様なメディアの受容経験を分析する上では、光岡寿郎の「メディア研究におけるスクリーンの位相──空間、物質性、移動」が参考になる(光岡寿郎・大久保遼 編『スクリーン・スタディーズ──デジタル時代の映像/メディア経験』東京大学出版会、2019)。光岡は、イギリスを中心としたメディア研究の流れを「空間概念を対象化していく過程」(p.26)と捉えた上で、それを、ホールによる能動的な「視聴者の発見」から始まり、「視聴空間の発見」「「私的空間/公的空間」の差異の発見」へと続く三つの段階に区分している。

第二段階の「視聴空間の発見」として中心的に取り上げられるのは、メディア研究者のデヴィッド・モーリーである。モーリーは、ホールが仮説的に構築したオーディエンス論を援用した実証研究を行い、より実態に即した理論へと鍛え上げたことで知られている。例えば『ネーションワイド・オーディエンス──その構造とディコーディング』(1980)では、数人で構成されたグループに向けて、ニュース番組「ネーションワイド」に関するインタビューを実施。視聴者ごとに異なる番組の解読パターンと、各自の社会的位置の相関関係を分析し、番組に対する態度を規定する要因として「階級」が関係していることを浮かび上がらせた。

またモーリーは『ファミリー・テレビジョン──文化的権力と家庭的余暇』(1986)において、インタビュイーが自宅の寛いだ雰囲気の中で語れるように場を設定。家庭でテレビ番組を視聴する際には、その番組に対する態度を規定する要因として「ジェンダー」の果たしている役割が大きいことを指摘した。

このように1980年代のモーリーは、オーディエンス研究のためには視聴行為が行われる具体的な「空間」と「時間」を忠実に描き出す必要性があることを明らかにし、その後のメディア研究の方向性に大きな影響を与えた。

Family watching television in their home, USA c. 1958

「私的空間/公的空間」の差異の発見

1990年代にはモーリーの研究を土台として、ロジャー・シルバーストーンテレビと日常生活』(1994)、オンディーナ・レアル大衆的趣味と衒学的なレパートリー──ブラジルにおけるテレビの場と空間」(1994)など、家庭でのテレビ視聴を対象とした研究が蓄積されていく。後者では、家庭内でのテレビの配置や装飾も分析対象に加えられた。

だがこれらの研究では、パブのテレビで友人とサッカーの試合を見たり、飛行機を待つ間に搭乗口でテレビを見たりするような、家庭外の場所におけるテレビの視聴経験が見逃されてしまっていた。1980年代以降のメディア研究は、テレビの視聴空間としての家庭に特権的な位置を与え続けてきたのだ。

メディア研究者のアンナ・マッカーシーは、「モノ」としてのテレビとそれが置かれた環境に注目することで、従来の研究が無意識に前提としてきた「家庭」という視聴空間の優位性に疑問を投げかけた。『アンビアント・テレビジョン──視覚文化と公的空間』(2001)では、場末のレストラン、地元の飲み屋、デパート、病院の待合室などの公的空間に設置されたテレビの様態を記述することで、テレビというメディアの「場所に固有である(site-specific)」特性──要するに、置かれた場に依存してその性質を変える特性──特性を明らかにした。

以上のように、オーディエンス研究は抽象的な理論から演繹的に個別の事象を論じようとするのではなく、テレビが置かれた具体的な空間の分析を帰納的に積み上げることで、視聴を規定している諸力とそれらの複雑な関係性を可視化することを目指すようになった。

しかし光岡は、テレビ視聴の現状を理解するためには、まだ残された課題があるという。それは、上述した研究はいずれも、テレビ受像機の前に座る「セデンタリー(sedentary、座りがち)」な視聴者を前提としていたということだ。「現在私たちは通学、通勤の途上で立ったままスマートフォン上の映像を視聴し、その端末に何度も視線を落としながら表面を無数の電子スクリーンで覆われた都市空間を横切って日々を送っている。だとすれば、現在私たちが手にした枠組みである、「テレビ受像機」とその前に「じっと座る視聴者」という空間把握では、現状を記述していくことは難しいだろう」(p.34)。


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