地方映画史研究のための方法論(27)大衆文化としての映画①——テオドール・W・アドルノとマックス・ホルクハイマーによる「文化産業」論
見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト
『映画はどこにあるのか――鳥取の公共上映・自主制作・コミュニティ形成』(2024)
2024年3月は、3年間継続してきた「見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト」の活動成果をいくつか世に出すことができた。
一つは、杵島和泉さんとの共著『映画はどこにあるのか――鳥取の公共上映・自主制作・コミュニティ形成』(今井出版、2024)の刊行。 鳥取で自主上映活動を行う団体・個人へのインタビューを行うと共に、過去に鳥取市内に存在した映画館や自主上映団体の歴史を辿り、映画を「見る場所」の問題を多角的に掘り下げている。
『見る場所を見る3——鳥取・倉吉市内・郡部の映画館&レンタルビデオショップ史』(2024)
また、202312月に実施した展覧会の記録集『見る場所を見る3——鳥取・倉吉市内・郡部の映画館&レンタルビデオショップ史』も、無事、刊行することができた。イラスト・テキスト・年表で辿る、鳥取の地方映画史の旅。頒布を希望される方は、2024年4月30日24:00までに以下のフォームにご記入ください(上記期間内のみ、1人1部を無料送付、送付時期は4月下旬から5月中旬予定)。頒布申込フォーム
地方映画史研究のための方法論
「地方映画史研究のための方法論」は、「見る場所を見る——鳥取の映画文化リサーチプロジェクト」の調査・研究に協力してくれる学生に、地方映画史を考える上で押さえておくべき理論や方法論を共有するために始めたもので、2023年度は計26本の記事を公開した。杵島和泉さんと続けている研究会・読書会で作成したレジュメをに加筆修正を加えた上で、このnoteに掲載している。年度末ということで一時休止していたが、これからまた不定期で更新をしていく予定。過去の記事は以下の通り。
メディアの考古学
(01)ミシェル・フーコーの考古学的方法
(02)ジョナサン・クレーリー『観察者の系譜』
(03)エルキ・フータモのメディア考古学
(04)ジェフリー・バッチェンのヴァナキュラー写真論
観客の発見
(05)クリスチャン・メッツの精神分析的映画理論
(06)ローラ・マルヴィのフェミニスト映画理論
(07)ベル・フックスの「対抗的まなざし」
装置理論と映画館
(08)ルイ・アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」
(09)ジガ・ヴェルトフ集団『イタリアにおける闘争』
(10)ジャン=ルイ・ボードリーの装置理論
(11)ミシェル・フーコーの生権力論と自己の技法
「普通」の研究
(12)アラン・コルバン『記録を残さなかった男の歴史』
(13)ジャン・ルイ・シェフェール『映画を見に行く普通の男』
都市論と映画
(14)W・ベンヤミン『写真小史』『複製技術時代における芸術作品』
(15)W・ベンヤミン『パサージュ論』
(16)アン・フリードバーグ『ウィンドウ・ショッピング』
(17)吉見俊哉の上演論的アプローチ
(18)若林幹夫の「社会の地形/社会の地層」論
初期映画・古典的映画研究
(19)チャールズ・マッサーの「スクリーン・プラクティス」論
(20)トム・ガニング「アトラクションの映画」
(21) デヴィッド・ボードウェル「古典的ハリウッド映画」
(22)M・ハンセン「ヴァナキュラー・モダニズム」としての古典的映画
抵抗の技法と日常的実践
(23)ギー・ドゥボール『スペクタクルの社会』と状況の構築
(24)ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』
(25)スチュアート・ホール「エンコーディング/デコーディング」
(26)エラ・ショハット、ロバート・スタムによる多文化的な観客性の理論
テオドール・W・アドルノ、マックス・ホルクハイマー『啓蒙の弁証法』(1947)
テオドール・W・アドルノ(1903-1969)
テオドール・ルートヴィヒ・アドルノ=ヴィーゼングルント(Theodor Ludwig Adorno-Wiesengrund、1903-1969)は、ドイツ・フランクフルト生まれの哲学者・社会学者・文化評論家。マックス・ホルクハイマーやユルゲン・ハーバーマスらと共に、フランクフルト学派を代表する思想家として知られ、また音楽評論家や作曲家として顔も持つ。1934年、ナチス政権から逃れるためにイギリス、そしてアメリカへと渡り、第二次世界大戦後の1949年に帰国。ホルクハイマーと共にフランクフルト大学の社会研究所に所属し、研究活動を続けた。マルクス経済学と精神分析を組み合わせて社会や人間のありようを分析する「批判理論」の実践として、ホルクハイマーとの共著『啓蒙の弁証法』を1947年に刊行。その他の著作に、『ミニマ・モラリア』(1950)、『音楽社会学序説』(1961)、『否定弁証法』(1966)、『美の理論』(1970)などがある。
マックス・ホルクハイマー(1895-1973)
マックス・ホルクハイマー(Max Horkheimer、1895-1973)はドイツ・シュトゥットガルト生まれ。フランクフルト学派を代表する哲学者・社会学者の一人である。フランクフルト大学の社会研究所の創設に携わり、所長を務めていたが、1934年にナチス政権から逃れてスイス、アメリカへと亡命。ニューヨークのコロンビア大学で教鞭を執った後、1949年に帰国して、再びフランクフルト大学・社会研究所の所長および学長を務めた。主な著作に「伝統的理論と批判理論」(1937)、『理性の腐食』(1947)など。
『啓蒙の弁証法 哲学的断想』(1947)
今回取り上げる『啓蒙の弁証法』は、アドルノ=ホルクハイマーがナチス政権から逃れて亡命した先のアメリカで1939〜1944年にかけて執筆され、1944年に『哲学的断想』として仮綴本を刊行。そこに改訂や追補を加えて、1947年にアムステルダムで初版が刊行された。本稿では、2007年に岩波文庫から刊行された『啓蒙の弁証法——哲学的断想』(徳永恂 訳)を参照し、また『『啓蒙の弁証法』を読む』上野成利・高幣秀知・細身和之 編、岩波書店、2023年)および竹峰義和「テオドール・W・アドルノ——同一化と抵抗の弁証法」(『メディア論の冒険者たち』所収、伊藤守 編、2023年)なども適宜参考にしながら、アドルノ=ホルクハイマーが提起した「文化産業」論の概要をまとめていきたい。
さしあたり、『啓蒙の弁証法』全体に通底する問題意識を確認しておこう。「啓蒙」とは、人類が野蛮の状態から脱して文明化へと向かうプログラムである。文明化とは、アニミズム(自然崇拝)や呪術、「神話」といった非合理なものを否定して合理化へと向かうプロセス、また別の言い方をすれば、「自然」という人間の意のままにならないものを支配し、その脅威を取り除いていくプロセスと言うことができる。
『啓蒙の弁証法』訳者の徳永恂は、これを「外なる自然」と「内なる自然」双方を支配するプロセスとして説明している。要するに、科学や技術によって「外なる自然」という他者=「客体」を支配すると共に、道徳や教育によって「内なる自然」を支配し、理性を持った近代的な「主体」を確立することが「啓蒙」の目指すところであった。
ところが20世紀、高度な文明化を遂げたはずの人類は、ヒトラーのナチス政権のようなファシズム勢力の台頭という新たな野蛮状態を生み出してしまった。またアドルノ=ホルクハイマーが亡命先で見たアメリカ社会も、決して理想的な社会ではなく、むしろファシズムと共通する構造があるように思われた。なぜこのようなことが起こるのか。
アドルノ=ホルクハイマーはその原因を、「啓蒙」のプログラムそのものに内在する問題として解き明かそうとする。自然であれ人間であれ、あらゆるものは本来、それぞれが代替不可能な独自の「質」(非同一性)を持っているはずだ。しかし合理化の追求は、そうした「質」の違いを捨象して、類似したもの同士でグループを作り、同じグループに属するものを同一であると見做す(抽象的な同一性)。そして、すべてを計算可能な「数」あるいは「量」として捉え、自由に使える素材や道具のように扱うのである。
「内なる自然」を支配するということは、理性的な「主体」であるはずの人間をも抽象的な「数」として捉え、合理的に処理したり、操作したりできる「客体」へと貶めることである。優生思想という擬似科学に基づき、合理的な方法でユダヤ人を虐殺したナチス政権は、まさにこうした背景のもとに現れたのではないか。そこでは、数学や科学が新しい神のように信奉され、「啓蒙」はすでに乗り越えたはずの「神話」へと退化する(アドルノ=ホルクハイマーは「神話」にはそもそも「啓蒙」の側面があったのだと論じている)。合理性や有用性の名の下に、非合理で野蛮な暴力が行使され、人間は再び「運命」や「宿命」といった概念に翻弄される。新たな野蛮状態は、「啓蒙」の失敗ではなく、むしろそのプロジェクトの必然的な帰結なのである。
「文化産業——大衆欺瞞としての啓蒙」
文化産業
アドルノ=ホルクハイマーが、「啓蒙」の堕落形態の実例として『啓蒙の弁証法』4章で取り上げるのが「文化産業 kulturindustrie」である。これは著者両名による造語で、映画やラジオなど複製技術の進歩によって「文化」が大量生産される「商品」となり、文化と産業、芸術と娯楽といった区別が溶解していく現象を説明するための言葉である。
当初、アドルノは文化産業ではなく「大衆文化」という語を用いていた。だが大衆文化には、大衆自身が自発的・能動的に作り出す文化であるとか、民衆芸術の現在形であるといった含意があることを嫌い、新たに「文化産業」という語を設定することにしたのだという(テオドール・アドルノ「文化産業についてのレジュメ」『模範像なしに——美学小論集』竹峰義和 訳、みすず書房、2017年)。文化産業は、どれだけ芸術や文化を装っていても、あくまで「商品」である。それは大衆が自発的に作り出す文化ではなく、資本による大衆操作の手段でしかあり得ないのだ。
規格製品の大量生産による文化の類似・画一化
『啓蒙の弁証法』執筆当時の社会学者らは、後期資本主義社会(二度の世界大戦以降の資本主義)において「文化」は混沌とした状態に陥っていると論じたが、アドルノ=ホルクハイマーは、むしろ今日の文化は「類似性」によって特徴づけられるのであり、またその消費者である大衆の嗜好や生活様式も「画一化」していると指摘する。あらゆる大衆文化は資本の力の下に屈従しており、それゆえ、どの商品も似たり寄ったりで、宣伝広告の美的様式も大差がない。周囲を見渡せば、企業ビルが林立する摩天楼や真新しい簡易住宅群が、特徴のない均質な風景を作り出している。
映画・ラジオ・テレビ・雑誌などのマスメディアもまた、それぞれ経済的に絡み合い、連関した1つのシステムを構成している。ワーナー・ブラザーズであろうがメトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)であろうが、どの会社も、出てくるアイデアや企画は似たり寄ったりで、いつも同じような映画ばかりを製作している。予算規模に応じた出演者や舞台装置の豪華さぐらいしか違いはなく、作品の内容や意義はほぼ同一だ。映画に限らず、各種メディアは一様に類似性・画一性へと駆り立てられており、特にテレビはラジオと映画の綜合として、美的な貧困化を極点にまで押し進めようとしている。
文化産業の従事者たちは、膨大な数の消費者や視聴者の需要に応えるためには、規格化した製品を大量複製・大量生産することが必要なのだと、「技術」的な観点から自らの行いを正当化する。消費者は自らが要求したものを特に抵抗なく受け入れ、経営者もその需要に応えるべく、なお一層の規格化と大量生産を進める。そんなサイクルを通じて、文化産業のシステムはますます緊密に統一されていくだろう。
実のところ、社会の中で「技術」が力を持つということは、経済的強者の支配力の強さと同義なのだが、そこに注意が向けられることは稀である。「今日では、技術的合理性とは支配そのものの合理性なのだ」(p.253)。
紋切り型の商品・スター・大衆
大衆は自発的な欲求に基づいて行動しているようでありながら、実はその欲求は、文化産業によって支配・操作されたものである。何かしら自発性を発揮できたとしても、それはあくまで経済や資本のメカニズムに組み込まれている限りにおいて可能なだけであり、そこから外れることは一切許されていない。各種メディアは、こうした傾向をさらに押し進めている。例えば電話の場合なら、通話者はまだ主体的な役割を演じることができたが、ラジオの場合は、人びとは自発性や主体性を奪われた一律的な聴衆と化し、放送局から一方的に提供される番組を受動的に聴くことしかできなくなるのである。
そして文化産業は——例えば流行歌のメロディーや映画スターが見せる振る舞いなどのように——何度でも再生産が可能で、任意の場所に適応できる既製品(レディメイド)の紋切り型を作り出し、それを大衆に押し付けることで、やはり型通りの人間を自動的に再生産していく。
映画スターの口髭やフランス語なまりなど、「個性的」と呼ばれるものはすべて、シリーズとして製造された「擬似個性」である。見かけは自由に見えても、あくまで社会的に制約されたパターンの範囲内での特殊性にすぎない。
文化産業は、大衆に向けてスターと同一化するよう促す。雑誌の表紙モデルを型紙として大量生産されるスターのイメージと、一般人の顔つきを見比べれば分かるように、人びとは代替可能なものに自分を投影する。スターは皆、任意の誰かと取り替えがきく類例性の一つでしかなく、その人が選ばれたのはあくまで偶然の結果に過ぎない。
スターが愛好される風潮によって、個性(パーソナリティ)を持つべく努力することを尊ぶ成功信仰は廃れ、代わりにパターン化された「擬似個性」を模倣することや、コンテストの入賞を狙うことが優勢になる。既存のパターンを模倣・合成して作り出された今日風の顔つきを前にすると、かつては「人生」という概念があったことさえ忘れてしまいそうになる。
リベラリズムの欺瞞と機械的生産/再生産のリズム
文化産業には、「市場の自由」を掲げてあらゆるものを市場に取り込み、能力がある者には自由に力を発揮させようとする「リベラリズム」的傾向がある。そこでは、既存のシステムに反抗する者さえも、文化産業からの差異というかたちでシステムの内部に組み込まれ、所属することが許される。異議を唱えることは、新たなアイデアを企業に提案する者のトレードマークとなる。
アメリカの文化産業の野蛮さを、同国がヨーロッパよりも文化的に遅れていることの結果であると語る者もいるが、アドルノ=ホルクハイマーはその説に反論する。むしろヨーロッパのほうが市場のメカニズムに組み込まれるのが遅れたために、自律的な「精神」や「芸術」といったものが、かろうじてまだ生き残っているのではないか。例えばドイツでは、大学や劇場、オーケストラや博物館などが様々な保護政策の下に置かれていたために、芸術がある程度は市場の法則から独立して在ることができたのだ。
アドルノ=ホルクハイマーは、文化産業のリベラリズム的傾向の裏にある欺瞞にも厳しい批判の目を向ける。かつての芸術家たちは、君主の忠実な下僕として振る舞いながらも、密かにその権力を揺るがせようとしたが、今日の芸術家たちは、一方で政府の高官をファーストネームで気軽に呼んだりしつつ、他方で雇用主の判断には粛々と従って芸術活動を行う。自由な活動が保証されていると言っても、それはあくまで、支配者に歯向かったその場で殺されたり、財産を没収されたりはしないというだけのことだ。資本主義のイデオロギーに従わない者は、企業から締め出されて、経済的にも精神的にも無力な状態に置かれる。市場の生存競争を勝ち抜けなかった者も、無能な欠陥者とみなされ、飢え死にを強いられる(末期の患者を殺してしまえば感染症は防げると考えるような、ナチス的手口である)。そこで大衆は、自分たちを奴隷化するイデオロギーにしがみつき、「成功神話」にすがって生きる以外に道が残されていない。
ところで、市場で生き残るためには新奇なアイデアや意外性が求められるが、そこでは、本当の意味での新しさが求められているわけではないことに注意しよう。文化産業は、常に同じものを再生産し続けることを求める。落ち目になったスターを人気投票から追い出したり、玄人芸や熟練の技を排除したりすることで、常に若く新しいものを古いものと入れ替え、全体の調和を更新していく。そこで重視されるのがテンポと躍動だ。機械的生産と再生産のリズムだけが、変化のない規格が運動し続けることを保証するのである。
厳粛な芸術と軽い芸術の併合
「娯楽」もしくは「軽い芸術」(大衆芸術/ロウアート)は古くから存在したが、文化産業がそれを時代の花形へと押し上げた。文化産業は素朴な「軽い芸術」を高尚なものに格上げすると共に、「厳粛な芸術」(高級芸術・ハイアート)を消費の領域に移行させて大衆にとって身近なものにすることで、両者を文化産業の全体性のうちに併合しようとする。
アドルノ=ホルクハイマーは文化産業の「娯楽」もしくは「軽い芸術」を厳しく批判するが、それらが初めから芸術の堕落した形態だったわけではないとも言う。「厳粛な芸術」は純粋な表現を求めるあまり、下層階級を排除した虚偽の普遍性を主張し、日々の生活で精一杯な人びとから拒絶されてしまう。それに対して、サーカスや蝋人形館、女郎屋といった「軽い芸術」が備える社会からの逸脱性は、徹底して無意味さを追求することで、「純化された娯楽」(p.293)を人びとに提供する。ここに至り、純粋な芸術を求める「厳粛な芸術」と純粋な娯楽を求める「軽い芸術」は、その純粋さにおいて一致する。「娯楽は、完全に鎖から解き放たれるなら、たんに芸術への対立者であるばかりではなく、一致する両極でもありうるだろう」(p.292)。このように「厳粛な芸術」と「軽い芸術」が分裂・対立しながらも互いの不完全さを補い合うこと——それを両者は「文化の否定性」(p.279)の表現と呼ぶ——によって、初めて虚偽の普遍性を脱し、真の普遍性へと至ることができるのだ。
ところが文化産業は、パリのミュージックホールでヴェートーベンを演奏したり、ジャズ・ミュージシャンとオーケストラを共演させたりして、本来は相容れないはずの「厳粛な芸術」と「軽い芸術」を同じ目的に下に従わせ、文化産業の全体性を作り出す。それは、先述した両極の補完関係とは似て異なるものだ。文化産業は「厳粛な芸術」を市場に従わせることで、純粋な芸術としての意味を損なわせると同時に、「軽い芸術」にもっともらしい意味や教訓を盛り込むことで、純粋な娯楽としての無意味さを損なわせる。結果、両者の差異も内実も失われ、真の普遍性へ至る道も閉ざされてしまうのである。
労働の延長としての娯楽
アドルノ=ホルクハイマーは、「娯楽とは、後期資本主義下における労働の延長である」(p.282)と言う。労働者は日々の仕事の苦しみに耐え、灰色の日常から抜け出すためにこそ「娯楽」を求めるが、その「娯楽」自体もまた規格化され、大量生産された商品である。文化産業は、常に偽物の押し売りのようなことを行う。労働者=消費者の欲求に応え、物語や宣伝を通じて快楽を提供するという「約束」が守られることは決してない。胸を強調した服装や裸の上半身などを見せ、エロティックで思わせぶりな煽り文句を付けても、本当に一線を超えるようなことはない。文化産業はポルノ的でありながら、同時に気取ったつれない態度をとりもするのである(芸術作品が禁欲的でありながら破廉恥でもあるのとは対照的である)。
「約束」が守られない以上、文化産業が提供する娯楽の楽しみはすぐさま「倦怠」へと陥り、それが喧伝する「人生の意味」や「理想」といったイデオロギーも空虚なものとなるだろう。だがイデオロギーが空虚であることは、それが弱体化したことと同義ではないし、支配が弱まったわけでもない。文化産業は、消費者の欲求を充足させるのではなく、むしろ与えられたものだけで満足するように要求する。「所詮、人生とはこの程度のものなのだ」「労働や生活は苦しいものだが、だからこそ素晴らしいのだ」といった欺瞞を語ることで、人びとを永遠に受動的な消費者の位置に縛りつける。その人が自分でものを考える余地を与えず、文化産業を「否定」したり「抵抗」したりする契機そのものを奪い去ってしまおうとするのである。
幸福の陽気な断念
文化産業が大衆を操作し、支配体制に隷属させるための具体的な方法について確認しておこう。コミック・ソングの歌詞や風刺漫画、犯罪映画やトリック映画に見られる、その場の思いつきのような展開、ナンセンスなギャグといったものは、一見、無意味さを追求した純粋な娯楽のように思えるかもしれない。だが、そこには資本主義のイデオロギーにとって都合の良い意味や教訓が盛り込まれている。
例えば風刺漫画やアニメーション映画に登場するドナルド・ダッグは、現実の不幸な人びとと同様に、徹底的に痛めつけられる。それはキャラクターの苦しむ姿を見ることを通じて、観客自身が痛めつけられることに慣れるようにするためだ。
こうして文化産業は、人びとに「陽気な断念」(p.290)を提供する。本来、「笑い」は何かしら解放的な意味合いがあったはずだが、文化産業の娯楽によって引き起こされる「卑屈な笑み」(p.289)は、むしろ実際の幸福の瞬間を知ることを断念した、自嘲的な笑いである。人びとは逃れることのできない権力に屈従することで、その恐怖を和らげるために笑うのだ。
事実崇拝と悲劇
空虚になった「人生の意味」や「理想」の代わりに、文化産業は「現実」や「事実」をイデオロギーの核に据える。そこでは、写真のように「現実」をありのままに複写したものこそが神聖性を持ち、カメラが映し出すものは何だって美しい。こうした「事実崇拝」は、現状を維持し続けること、再生産をし続けることに価値を与え、変革の不可能性を正当化する。一介のOLでも世界旅行の懸賞が当たるかもしれないという儚い期待には、旅行先になるはずだった国々を記録した写真を代用品として与えることで応え、パリに憧れを持つアメリカ娘には、その土地を荒涼とした風景として描くことで理想や期待を破壊し、身の丈に合った日常で満足するように強いるのである。
文化産業が現状を維持し、再生産をし続ける上で模範とするのは——「何があろうと母親たちはいつまでも子供を生み続け、車輪はいつまでも静止することはない、そういう事実」(p.304)が示しているような——「自然」の健康な循環である。映画、特にトーキー映画は、機械による現実の複製を行い、観客に映画内の出来事と「現実」の出来事とを同一視ないしは混同するよう促す。大衆は、「自然」であるように見えながらその実、紋切り型だけで組み立てられたイメージを浴び続けるうちに、それと現実との区別を見失い、やがて能動的に思考する余地が奪われていく。
あるいはチャールズ・チャップリンの『独裁者』(1940)は、反ファシズムを訴えた名作として知られるが、アドルノ=ホルクハイマーに言わせれば、同作のラストシーンに描かれた「自然」は、その思想を裏切ってしまっている。風に揺れる麦畑の風景は、社会や権力の支配に対立し、人びとに救いをもたらすものとして捉えられているのだが、それは却って現実社会の諸矛盾を隠蔽する、欺瞞的なイメージになっていると言うのだ。
また、文化産業が大衆を操作・支配するために好んで利用するのが「悲劇」である。悲劇的運命は、かつては一個人には如何ともし難い脅威に対する希望なき抵抗としての意義を持っていたが、今ではむしろ、支配的イデオロギーに同調しない者は滅ぼされるという「当然の罰」を意味している。悲劇は甘くない「現実」や「事実」を直視しているというお墨付きを与えてくれると共に、文化産業が提示する味気ない幸福を興味深いものにし、さらにその興味深さを手軽なものにしてくれるのだ。
女性向けのメロドラマの「トラブルに巻き込まれ、そこから抜け出す」という定式は、あらゆる大衆文化に当てはまる。大衆は作中の過酷な生活や打ちひしがれた登場人物たちの姿を見て、自分自身が過酷な生活を継続するための条件は、①敗北を受け入れて己に何の価値もないと認めること、そして、②自分を打ちのめす権力に余すところなく自己を同一化させることだと教え込まれる。大衆は権力にマゾヒズム的に従属するのである。
ファシズムと芸術
文化産業が提供する娯楽は基本的に安価だが、特にラジオは、映画に先駆けて、聴衆から放送料金を徴収しないことを選択したことが決定的に重要である。
ラジオはあらゆる文化製品の広告を引き受けるようになったが、その代わりに、放送自体を有料の商品として売買することを断念した。これによりラジオは、私企業でありながら、特定の利害関係や党派性を超えた公共的な放送を行っているのだという欺瞞的な形式を獲得。国民のスポークスマンを装うようになり、それがファシズムに都合よく利用されることになった。ラジオ放送を通じて、ヒトラーの演説はあらゆる場所に響き渡る。演説の内容そのものよりも、演説があたかも神の声のように遍在するという事実によって、ヒトラーはそのカリスマ性を獲得することができたのだ。
ラジオ放送では、クラシック音楽のような芸術作品も無料で聴くことができる。芸術は、かつては固有の自律性を主張していたが、もはや自らが商品であることを隠さなくなった。また今度は、商業化が徹底的に進行するにつれて、再び「芸術は売り物ではない」と主張されるようになった。クラシック音楽は芸術としての価値があるからこそ、パブリックサービスで無料放送されるのだというまやかしの宣伝が語られ、CMによる中断を挟まない配慮までなされる。
以上のように、芸術作品の享受は、大衆にとって近所を散歩するぐらい気軽なものになった。これを、恵まれた一握りの者だけが芸術を享受できるという「教養特権」が廃止されたのだと肯定的に捉えることもできそうだが、アドルノ=ホルクハイマーは、文化のバーゲンセールによってむしろ「教養の崩壊」が起きているのだと指摘する。そこでは、芸術に対する敬意はおろか、批判までもが消失し、クラシック音楽はラジオ放送を聴いた者に与えられる景品に成り下がった——要するに、芸術や文化は「おまけ」でしかないのだ。人びとは、私的、あるいは社会的に有用だから芸術作品を受容しているのではなく、何かしらのチャンスを逃すのではないかという不安に駆られてそれを求めているだけである。このようにしてファシズムは、大衆の心理に巧みに付け入り、自らの支配体制に隷属させようとする。
商品と広告の一体化
文化産業がなくても人びとは生きていけるはずだが、それでもなお飽くことなく商品を売り続けて、消費者の飽食と無気力を生み出す。文化産業の商品は、購入しなければならない必要性が希薄であり、またそれが約束する効用が、多くの場合でっち上げであるからこそ、経済的にも技術的にも「広告」と融合する。「広告は文化産業の生命を救う霊薬なのだ」(p.328)。
また広告は、具体的に商品の売れ行きを上げるためというよりも、支配体制から部外者(アウトサイダー)扱いされて市場から追い出されないために行うものだとも言える。だからこそ、広告は皆決まり切った様式のものばかりになり、また戦時中でも、すでに提供不可能な商品の広告が出され続けるような奇妙な事態が起きるのである。
商品と広告の一体化が進むと、いよいよ両者の区別がつかなくなってくる。雑誌は誌面上のどれが特集記事でどれが広告記事なのか見分けがつかないし、あらゆる映画は次週公開映画の予告編に過ぎない。また文化産業のモンタージュ的な性格は、あらかじめ広告に順応した作品を作り出す。映画のスチル写真は、そこに映った俳優やモデルの名前を売り出すための広告になり、流行歌はCMや映画の主題歌などに転用される。どこに行っても同じ文化製品が現れてくることは、プロパガンダのスローガンが機械的に反復されるのと同様の効果を持つのだ。
言葉の魔術化
すべてが広告になっていくのと同時に、言葉の魔術化というべき事態も進行する。「啓蒙」によって言語も非神話化され、まやかしを取り除いた、合理的な言葉が用いられるようになったはずだった。だが合理化を突き詰めて純化された言葉は、本来それが結びついていた意味の連関から切り離され、単に何かを指示するだけで、何ものも意味していない奇妙な言葉になった。そうした透明で「質のない記号」は、その言葉を用いている当人すら意味を把握できない不可解さを帯び始め、再び魔術に転化する。
例えば映画スターの名前や流行歌など、特定の言葉をひたすら繰り返し流すことで、それは伝染病のように急速かつ広範囲に広がっていく。特に「名前」は魔術と結びつきやすい。何も意味していない、トレードマーク同然の言葉が人口に膾炙し、人びとの日常的な話し言葉の中に埋め込まれていく。
そして、このような魔術化した言葉は、ファシズムの宣伝やスローガンの顕著な特徴でもあった。ヒトラー体制下のドイツのラジオ放送から流れてくる「忍びがたい」や「電撃作戦」といった言葉は、一夜にして皆の合言葉となり、アナウンサーが気取った標準語で語る言葉の抑揚は、すぐさま数百万人の発音となった。
『独裁者』(1940)において、チャップリンがヒトラーのような独裁者とユダヤ人床屋の二役を演じ、また両者の立場が入れ替わる物語を描いたことは、ある意味で文化産業の本質を突いている。そこでは、口髭をトレードマークとするスター(チャップリン)も独裁者(ヒトラー)も、共に唯一無二の個性を持つ者ではなく、誰にでも入れ替え可能な、規格化された存在であることが示されているからだ。
チャールズ・チャップリン『独裁者』(1940)
大衆は、自らの内面や情動に至るまで、文化産業が指定するモデルに見合った効率的な装置に仕立て上げられていく。そこでは最早、「人間に固有なもの」(p.338)という理念は、極端に抽象的なかたちでしか残っていない。「個性(パーソナリティー)」は本来の意味を離れ、白い歯を輝かせてパターン化した語り口を見せる「ラジオパーソナリティー」のようなものとなった。消費者たちが文化商品を模倣するよう強制されること、これこそ文化産業における広告の勝利である。外観も内面も均質で類似したものに変えてしまう文化産業には、実はファシズムと共通する構造が隠されているのである。
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