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Flow into time 〜時の燈台へ〜 第9話

【前回の物語】
 七会と探夏が食事に行く約束をした3日目朝、七会は精神病を疑われた過去の出来事や、その後一時的に歩けなくなったことを話す。探夏の知識で、七会はその症状が昔からあったことを知る。二人は将来ジン・トニックで乾杯する約束をする。

第9話 : サイコロではなく愛

 アキはその日、めずらしく「ひいらぎ」ではなく自宅で土曜日を過ごしていた。熱を出して木曜日から寝込んでいたのだ。残念ながら、金曜夜の『道の曲がり角』調査会はお休みとなった。七会と探夏は「南仏キッチンタブリエ」でどんな話をしたのだろうか? 七会が「まだ三日間、時間があります」と言ったその初日は、どうなったのだろうか? 二人の距離は近づいたのだろうか? 原稿はもちろんアキの手元にあるものの、四人で読み進めると決めたからには、抜け駆けはできない。今日は大人しく熱が下がるのを待つしかなさそうだ。アキは何かに熱中すると、機械がオーバーヒートするのと同じように、こうやって熱を出す。文字が読めなくなった時と同じく、自分の体の声を聞くべきなことを、彼女は分かっていた。

 不意に、アキの携帯電話が鳴った。ロンドンにいるはずのマコトからだった。着信は彼の日本の番号を表示しているので、日本にいるはずだ。夏と年末、年に二度は日本に戻ってきていたので、一番安いプランにして番号を維持しているらしい。アキは額に乗せていたアイスパックをおろして、横を向いて電話に出た。

「マコト? どうしたの? 帰ってきたの?」
「久しぶり、アキ。うん、今さっき着いて、携帯の SIM カード入れ替えたとこ。事前に知らせなくてごめん。今回は、二週間ほどいるつもり」
「実家に直行?」
 マコトの実家は関西だった。
「その前に三日ほどあるから、行っていい? 泊めてもらえると、なお助かる」
「もちろんいいんだけど、今風邪引いて熱出してて……」
「そうなの? じゃあ看病しにいくよ」
「やめて。3日間パジャマ替えてない姿、見られたくない! うつすとまずいし。病院行けないでしょ、海外旅行保険かけてきた?」
 海外に長期滞在していると、日本人でも帰国時には健康保険が効かない。
「かけてない。まあアキの気持ちも分かるから、じゃあ明日の夜に行くよ。それまでに熱、下がりそう?」
「インフルやコロナじゃなくて、いつものオーバーヒートだから、明日までには下げるよ」
「また何かオーバーヒートさせるようなことをしたんだね」
「明日話すね」
「無理して部屋掃除しようとか、思っちゃダメだよ。アキの好きなもの、見繕って買っていくよ」
「分かった。じゃあ着く時間が分かったら教えてね」
 元小説家志望のマコトに『道の曲がり角』の話ができるのが嬉しかった。彼なら、調査本部四人が思いもよらないような点に気づくかもしれない。

 マコトは翌日の夕方五時前にタクシーでやってきた。アキが住んでいるのは郵便局や「ひいらぎ」に比べればまだ町に近いエリアだったが、それでも路線バスは一時間に二本ほどしか走っておらず、基本的に交通手段は車かタクシーだ。海外から戻ってきて、日本に二週間滞在するには小さいキャリーケースと、土産物と思われる紙袋を持っていた。近くのスーパーのレジ袋も下げている。
「マコト、おかえり〜荷物はそれだけ?」
 年末以来半年以上ぶりに会うマコトは、心なしか少し痩せた気がした。ちゃんと食べているのだろうか?
「ううん、実家の荷物は別のスーツケースで持ってきて、空港から送ったよ。これは、ここにいる間用の荷物」
「なるほど、そういうことね。夕食は……外に食べに出るのがまだちょっと辛いから、お寿司の出前でも頼もうか? せっかく帰ってきたのに、何か気の利いたものを用意できてなくてごめんね」
「気にしないで。っていうか、アキの好きなもの、いくつか買ってきたよ」
 マコトは近くのスーパーで買ってきたものをレジ袋から出してテーブルの上に並べ始める。ちくわの磯辺揚げ、厚揚げ、チューブの生姜、ネギトロ巻き、スーパーの中に入っているパン屋のカツサンド、ハイネケンの6本パック。
「すごい、私の好きなもの全部! でもこの厚揚げは何? チューブの生姜まで」
「あれ? アキ、厚揚げ焼き好きなんじゃなかったの、生姜たっぷりの? それくらいなら僕が作ろうと思って」
「マコトまでユーリさんと同じ勘違いしてる……厚揚げ焼きが好きなのは局長ね。でもいつも間違えられて食べてるうちに、私もなんだか好きになってきた気もする。それにしても、このハイネケンは何?」
「前に、ビールは緑色のが好きだって言ってただろう? 緑のビールっていったらハイネケンかな、と思って」
「残念ながらハズレ……私の好きなのはオランダのハイネケンじゃなくて、お隣のデンマークのカールスバーグ! 味はだいぶ違うんだよ」
「ごめんごめん、まあ3日間いるから、まずこれ飲んじゃったらカールスバーグ買ってくるよ。やっぱりアキは変わらずビール党なんだね〜」
「それが、最近は日本酒にはまっちゃって。覚えてる? 大使館が協賛した日本食イベントに、山形県の酒蔵が来てたでしょ? あそこのお酒を『ひいらぎ』が出すようになって、それですっかり日本酒党」
「ユーリさんも飲むの?」
「私に鍛えられた感じ。この間、一晩で一升瓶二人で飲んじゃった」
「それはすごいね。ここにいる間に少しそこのお酒、飲んでみたい。ロンドンはあの値段だからね」
「たしかに。じゃあ金曜日の定例会を明日の夜に動かせないか、連絡してみるよ。私が熱を出したもので、先週金曜日に集まるはずだったのが、中止になっちゃったんだ」
「定例会? それがアキの今回のオーバーヒートの原因だね、きっと」
「そういうこと……じゃあ今日はハイネケン6本と私の好物一式で、ゆっくり話すよ。準備してるから、先お風呂どうぞ〜あなたのバスタオル、出しておいた」
「ありがとう」
 マコトはそう言って、半年ぶりの湯船を楽しみに浴室へ消えていった。

 アキはマコトに、まだ名前が付く前の『道の曲がり角』を局の古いキャビネットの中で見つけた時のこと、その小説のことをなぜか局長が知っていて、彼女が山荘に来る前のタイミングですでにユーリにそのストーリーについて話していたこと、アキがユーリに小説のことを話した時、ユーリが異常な反応を示したこと、その後リンとナミが加わって四人で「『道の曲がり角』調査本部」を結成したことを話した。アキはそこでお風呂に入り、その間にマコトは、七会と探夏が「南仏キッチンタブリエ」へ行く前の段階まで細部まで原稿を読んだ。元小説家志望の彼の目には、何か違うものが見えるのだろうか?

「洗濯カゴの上にかけてあった、青いエプロンみたいなのは何? あと、ジャズを聴くようになったの?」
 マコトはアキの部屋の雰囲気が前回来た時と変わっていることに気づいたのだった。以前はなかったジャズのCDとCDプレーヤーもあった。
「エプロンみたいなのは、小説で出てきたタブリエ。七会が実在の人物として、出身高校の系列はもう分かってるんだ。その学校のタブリエに一番似たデザインのを買ったの。ジャズは探夏さんの趣味ね」
「なるほど、じゃあお風呂に入っていた紫色の入浴剤は、『むらさきいろのお風呂』の再現というわけだね」
「さすが、もう頭に入ってるのね」

「この小説は、おそらくほぼ実話に基づいてると思うよ、根拠はまだそれほどないけど。完全な創作をあえて日記形式にすることは、かなり稀だし、実は難しいと思う」
「私もそれは感じてた。地名が「福井県」以外含まれていないことも気になる点。逆に、どうして「福井県」だけは書いたんだろう。福井県以外にも日本は全国に遺跡があるのに」
「そこに著者のメッセージがあるんだと思う。『ここから、この物語の謎を解いて下さい』っていうメッセージ」
「この小説は、最初から誰かに謎解きをさせるために書かれたってこと? 文学賞に出そうとした作品ではなかったってこと?」
「文学賞に出そうと思って書き始めた作品を、差出人なしで出したりはしないよ。小説を書くっていうのは相当な労力だからね。この物語は小説家になりたい人が作品として書いたものではないと思う」
「作品の形をした、謎解きのための日記だったってこと?」
「それは最後まで読んでみないと分からないけど、その可能性もあるね。でもアキ、これからも毎週、この小説の謎解きを続けるの? もうオーバーヒートするくらい入れ込んでるってことは、もうアキの半分は1995年に生きてる感じだね」
 アキはちくわの磯辺揚げとカツサンドをほとんど一人で食べてしまい、マコトは厚揚げ焼きをおかずにネギトロ巻きを食べた。ハイネケンのシックスパックは、結局すぐになくなった。明日の夜アキが仕事から帰ってくる時には、カールスバーグを買っておこう、と思った。

*     *     *

 アキの部屋には、ロンドン時代も今もソファーはない。マコトが泊まる時はシングルベッドで二人だ。以前から、アキが左側、マコトが右側と決まっていた。二人並んで寝ると肩があたってどちらかがベッドから落ちそうになるので、マコトが左腕でアキを腕枕して、アキはマコトの「左デコルテ」を枕代わりにして寝るのが決まりになっていた。この体勢で話すと、お互いの声がお互いの左耳によく聞こえた。顔を見つめ合わない分、本音が言えるよね……と昔からその体勢で話すのが二人とも好きだった。

「アキ、またこうやってここにいてくれて、嬉しい」
「私も嬉しい、この場所が一番安心する」
 これもまた決まりで、マコトはアキの額に最初にキスをする。マコトの左デコルテにアキの横顔がのっているので、普通に左を向くと、唇が額にあたる。マコトはアキの顔を少し持ち上げて、半年ぶりにアキの唇に長いキスをした。
「嬉しい……忘れてた、この感じ。私、完全に1995年に住んでたのかも……ごめんね、心配かけたかな?」
「心配はしてないよ。でも、もう前みたいに、僕の手の届かないところへは行かないで欲しい。アキが文字を読めなくなった時、僕は何もできなかった。あんなに一緒にいて、駅でラザニアを食べてレモネードを飲んで、アキがピアノを弾いて……でも僕はアキに何もできなかった」
 アキはマコトから少し離れ、マコトの首に左腕を回して長めのキスをした後、こう切り出した。
「マコト、私のこと、好き?」
「もちろん。そんなこと、疑ってたの?」
「疑っているわけではないけど、お願いがある」
「アキのお願いなら何でも聞くよ」
「本当に? じゃあ、内容を話す前に、どんな内容でも私の願いを聞くと約束してくれる?」
「金額が書いてない小切手にサインしろっていうやつだね。もちろん、アキのことを心から信頼しているから、内容に関わらず答えはイエスだよ」
「本当に? いいの? 私がナイフであなたを刺したいって言っても、いいの?」
「アキがどうしてもそうしたい、そうするしかないって思うなら、しようがないと思うよ。アキが殺人犯にならない範囲でなら、だけど。」
 アキはもう一度マコトに長いキスをすると、話し始めた。

「私は、1995年に生きたいのか、今を山荘で生きたいのか、正直分からない。ぼろぼろになってロンドンから山荘に来て、ここは天国だった。だから、ここでちゃんと、地に足をつけて2024年を生きたい気もする。でも、1995年の小説の世界は、私が本来生きるべき、何かを探求する環境という気が、あの小説を一行一行読む度に強くなる。私は決められない」
「そこで、何かを僕に頼みたいんだね」
「うん」
 長い沈黙があった。

「私のことを、抱いて」
 アキは思い切って言った。しかし、アキとマコトが初めて交わったのはロンドン時代で、もう一年以上前の話だった。
「もちろん、アキのこと抱きたい。でも、それは今までと変わらないことじゃ……」
「違うの。今までみたいに、念入りに避妊するんじゃなくて、そのまま私を抱いて。私があなたの子どもを授かったら、私はロンドンへ戻る。1995年にはお別れする」
「……そんな、アキの身体をサイコロみたいに扱うことはできないよ……」
「サイコロ? 違うよ。自分で決められないから自分の身体と運に決めてもらおうっていうわけじゃない。私はあなたのことを愛している。だから、そのまま受け止めたい……知ってる? 私はロンドンで、『多様性マネジメント』が専門だったけれど、多様性という意味では、今でも避妊そのものがタブーな文化圏って、結構あるんだよ」
「避妊そのものが、神の領域に踏み込む行為だっていう発想だね」
「そう。本来、男女が愛し合ってセックスして、その結果がどうあれすべて受け入れるっていうのは、人間の素朴なあり方だと思う。楽しみのためのセックスと、生殖のためのセックスを分ける考え方を批判するつもりはないけれど、だからといって昔からある発想を否定されたくはない」
「よく分かるよ、アキ」
 マコトはアキの喉元あたりに視線を下げて言った。
「でも、なの?」
「えっ……」
「でも、はなしだよ、マコト。あなた、約束したじゃない。私がナイフで刺したいって言ってもそれを受け入れるって。じゃああなたが私のことを本当に愛しているなら、そのまま私を抱いて。すべての愛で、その後の結果を全部受け入れる覚悟で抱いて。妊娠しても、私は遺伝子検査はしない。どんな障害を持った子どもが生まれても、すべて受け入れてロンドンへ戻って、あなたとその子と一生一緒に生きていく。そういう覚悟は、今の時代には理解できない人もいるかもだけど、ずっと昔から人間社会にあったものでもある」
 マコトには、アキの前にも恋人がいた。その恋人たちはセックスの後、いつもマコトのコンドームを入念にチェックし、精液が漏れていないかを確認した。英国では一般的だった低容量ピルを提案したが、女性側での避妊には合意が得られなかった。アキと付き合うようになってからも、マコトはいつも、何か悪いことをしているような気がして、アキを抱いた後にはいつも、「アキ、ごめんね」と言った。今日は、それを言ってはいけない。

「アキの覚悟、分かったよ」
 マコトはそう言うと、アキを左デコルテからそっと降ろし、服を脱がせていつものように額から足の指の先までゆっくり時間をかけて唇で愛撫した。マコトはまるで何かの儀式のように、いつも最後にアキの左足の小指を口に含んだ。アキもその瞬間が好きだった。マコトは、『この人を、この先数十年の運命も含めてすべて受け入れる』と決心し、いつもとは違ってそのまま彼女の中に入り、アキの一番深いところで射精した。

(第10話に続く)


【前後の物語】
第1話:カスタムハウス

https://note.com/sasakitory/n/n8eeff7be3fa7
 郵便局員アキが見つけたものとは?
第2話:副塾長のハイヒール
https://note.com/sasakitory/n/n989324f8cb34
 物語はいよいよ1995年に〜七会と探夏が出会う日
第3話:ユーリのスニーカー
https://note.com/sasakitory/n/n72c9ca85f90a 
 ユーリから告げられた秘密とは?
第4話:タブリエ
https://note.com/sasakitory/n/n63098b31494b
 七会と探夏の1995年の夏の第1日
第5話:『道の曲がり角』
https://note.com/sasakitory/n/nbaf518e0f7f1
 謎の小説にタイトルがついた!
第6話:ソロとハーモニー

https://note.com/sasakitory/n/nb0b8307742cc
 七会と探夏の根本的な違いとは?
第7話:Bleu de France
https://note.com/sasakitory/n/n7012d2f47e6f
 アキが二つの時間に生きる準備を整える 
第8話:むらさきいろの海
https://note.com/sasakitory/n/ncc09fee613e2
 七会が昔から抱えていた問題とは?
第9話:サイコロではなく愛
https://note.com/sasakitory/n/n1144b10ca691
 マコトがロンドンから帰ってきた!
第10話:ロブスターと中古車
https://note.com/sasakitory/n/nf4d51f94416a
 七会と探夏の初デートの行方は?
第11話:無伴奏独奏
https://note.com/sasakitory/n/n7341fd2ddcc3
 初デートの翌日は、探夏の部屋で過ごすことに〜
第12話:七会の願いごと
https://note.com/sasakitory/n/n254b7fe00a4f
 探夏の部屋で七会がした願いごととは?
第13話:猿のジントニック
https://note.com/sasakitory/n/n13f244d4740d
 七会と探夏が湯船の中で語り合う……
第14話:永遠の4日間+1
https://note.com/sasakitory/n/n30bcbb2e1c9b
 アキとユーリが湯船の中で語り合う……
第15話:点は、つなぐため
https://note.com/sasakitory/n/n3cbc4c4f4cc0
 七会が含まれる名簿が手に入った!
第16話:七会のすべて
https://note.com/sasakitory/n/n1cd5b133e858
 変奏曲を聴き、探夏は七会の全身を受け入れる
第17話【最終話】:未来の七会へ
https://note.com/sasakitory/n/na3cc00fcda74
 
七会の所在が分かり、アキは七会へ原稿を託す✨ 


サポートってどういうものなのだろう?もしいただけたら、金額の多少に関わらず、うーんと使い道を考えて、そのお金をどう使ったかを note 記事にします☕️