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Flow into time 〜時の燈台へ〜 第3話

【前回の物語】
 読み始めた小説では、大学1年生の七会(ナカ)が学習塾の講師として採用された経緯が描かれていた。彼女を一目見て採用を決めたのは副塾と呼ばれる破天荒な女性で、七会はトップ講師の探夏(タカ)ともその日初めて言葉を交わした。

第3話 : ユーリのスニーカー

 アキはここで原稿から目を上げた。カスタムハウスで買ってきた新しいキャビネットは金属製でしっかりしている。思わず上に座って小一時間過ごしてしまった。自分は完全にこの小説の「中身」を読んでいたのであって、決して差出人や宛先の情報を見つけようとしていたわけではないと認めた。

「この最後のシーンって何……食卓に靴を乗せるなんて、気持ち悪い!」

 しかし、アキはおそらく主人公として設定されている七会以上に、その副塾なる人物に不思議な魅力を感じた。いきなり話を横取りした探夏と七会は二人とも大学生とあるので、探夏が4年生だったとしても、年齢差は3歳前後ということになる。物語は始まったばかりだというのに、設定の細部が気になってしまうのはなぜだろうか、と自問した。
 この小説が醸し出している妙な現実感は、実際に四半世紀が経過して縁が黄ばんできたこの紙が醸し出しているのだろうと思った。コンサル就職後にも、何かから逃げるように夜や週末に通った大学図書館の本の匂いを思い出した。紙に印刷され時を経た文章は、全く同じ情報だとしても、電子書籍が画面に映し出す内容とは根本的に違っている気がした。

 時計を見るとすでに夜8時を回っており、局の近くにあるスーパーはもう閉まっている。その日は久しぶりに昼夜両方を「ひいらぎ」で食べることにして、アキは車に乗り込んだ。「ナカとタカ」の小説は、悩んだ末結局カバンに入れてきてしまった。これで立派な犯罪者だ。

*     *     *

 郵便局から「ひいらぎ」へと続く道は県公認のトレッキングロードだとはいっても、夜に歩く人はいない。周囲は農村なので街灯があるわけでもなく、完全に車のヘッドライトだけが頼りだ。アキはロンドンから山荘に越してきてから免許を取ったので、真っ暗な中を運転するのはやはり怖かった。見えてきた「ひいらぎ」の照明が燈台の灯のように感じられる。

「ユーリさん、今日は久しぶりに二食目だよ〜」
 アキは言い訳でもするように暖簾をくぐった。
「アキちゃんどうしたの、今日は残業? こんな時間に珍しいね。何かあった?」
「ううん、新しい棚を組み立ててたら遅くなっちゃって」
「組み立て、好きだねえ〜 何食べる? 昼はカツ丼だったからね……」
「おつまみメニュー、何が残ってる?」
「まだ全部あるから、アキちゃんの好きなちくわの磯辺揚げと厚揚げ焼き、作るよ……っていうか、金曜だし今日は飲んでく? 救助部屋空いてるから」
 かつて真夏のトレッキング中に脱水症状で店に運び込まれた学生が一晩泊まっていって以来、「ひいらぎ」の納屋にはベッドが入れてあり、「救助部屋」と呼ばれていた。アキの自宅は車で15分ほど離れているので、ユーリと二人で飲む時はいつもその部屋に泊まり、朝早く自宅に戻ってシャワーを浴び、着替えてから出勤することにしていた。しかし明日は出勤する必要がない。飲まない理由はない。

「そうさせてもらおうかな。じゃあ、この間山形から届いたボトル、開けよっか」
「うん、ちょうど冷えてる。『星天航路』なんて、ロマンティックな名前だよね。日本酒だとは思えないネーミングだし、ラベルのデザインも素敵」
「でもユーリさん、厚揚げ焼きが好きなのは、私じゃなくて局長。あの人、どこの居酒屋に行っても『厚揚げ焼きできますか?』って聞くの……奥さんには、そんなもの家で作るからわざわざ外で食べないでちょうだいって言われてるらしいけど」
「きっと何か思い出があるんでしょう。食べ物は味のためだけに食べるわけじゃないから、ね」
「食べ物には味以上の何かがある、か」
 アキは勝手知ったる厨房に入り、大ぶりの猪口を二つ持ってきた。

 ユーリの夫のオサムは、「ひいらぎ」の厨房で日々定食を作りながらも、常に何かしら新しい要素を店に付け加えた。隣県にあるこだわりの酒屋から仕入れる日本酒は、当初「酒なんて酔えればいい」的な地元客には見向きもされなかったが、今ではすっかり「地酒の美味しい定食屋」の看板となった。飲酒運転を防ぐために、「ハンドルキーパーにはノンアルビール無料」を始めたら、地元の警察までがこっそり飲み会に使ってくれるようになったくらいだ。結局オサムは優秀なビジネスマンだった。「星天航路」は、アキがコンサル時代にロンドンの日本食イベントで飲んだことがあり、その縁でオサムが酒蔵との取引を開始したのだった。現地では、ワイングラス1杯が日本での一升瓶一本分の値段だった。

「ユーリさん、変なこと聞いていい?」
 一升瓶はすでに半分ほど空いている。
「アキちゃんがそういう時って、聞いてコメントして欲しいって意味でしょ」
「さすがユーリさん、嬉しい!」
「もう半分飲んじゃってるから、あと半分の時間で解決できるといいけど」
「……もし私が、今履いてる靴を脱いで、食卓の上に乗せたら、どう思う?」
「 何それ? 頭の中のネジでも飛んだ?」
「ううん、今読んでる小説でそんなシーンがあって。高級焼肉店で、『ヒールの踵があたって痛いの』って、経営者妻のマダムがヒールを脱いで白いテーブルクロスの上に乗せるの。そしてみんな黙ってるの」
「その人と旦那さんだけの場面で?」
「それが、会社の従業員も参加してる食事会」
「…… 特別な意味があるね、きっとそれ。アキちゃん、今ここでやってみる? テーブルクロスはないけど、店主の私が許可する!」
「えっ、そんな汚いことできないよ」
 アキは即座に断った。

「でも考えてみれば、この店、月に一度くらいは地元客が飲み過ぎてテーブルや座敷で吐くんだよね。この田舎で何をそんなにストレス溜めてるんだか知らないけど。そこの畳も、だから実はあんまりキレイじゃないんだ。嘔吐物に比べれば、アキちゃんの靴の方がキレイなくらいだよ」
「そんなことがあるんだ、大変だね。オサムさんは知ってるの?」
「うん、その部分を飲み込むことが、田舎で店を安定させる必要条件だ、って言ってる。彼も一緒に片付けてくれるんだ……この店の何がそんなに好きなのか、未だに分からないんだけどね……」
 アキはオサムのことを思った。日本を代表する大手リゾート企業のマネージャー職にあり、将来を有望視されながら、ユーリと出会った後、まるで子どもがおもちゃに飽きて放り出すかのように会社を辞め、「ひいらぎ」を継いだ。人生の全てをユーリに捧げているようだったが、ひょっとしてユーリ以外の理由もあるのかもしれない、と思わざるを得なかった。町民の間では、「オサムさんとアキちゃんがひっつけば、国際派高給カップルだったのにね」という心ない話題があり、ユーリの耳にも届いていることを知っていた。

「アキちゃん、局長の厚揚げ焼きは、初恋の人の味なんだって……」
「っていうことは、奥さんの前の人?」
「そう、隣町の人。奥さんもそのことを知ってるみたい。だから家では作ってもらえないんだよ。局長、たまに一人で飲みに来るから、私が作るの。知ってた?」
「そうだったんだ……そんな時は、救助部屋に泊まるの?」
「ううん、奥さんが迎えに来る。婿養子だから、その辺は甘えていいと本人も安心してるみたい」
「そうなんだ……局長もいろいろありそうだよね、きっと中学校の先生辞めた頃から。ユーリさんなら何か知ってそうだけど」

 ユーリは考え込むアキから目をそらし、しばらく下を向いて何かを決心したような表情になると、履いていたスニーカーを脱ぎ、皿の上に残っている料理の上に、ためらいなくその靴を乗せた。アキの大好物のちくわの磯辺揚げは、ユーリの黒のコンバースの下敷きだ。
「アキちゃん、話戻してごめんだけど、どんな気持ち? そのちくわ、汚いけど食べなよ。そしたらその登場人物の気持ち、分かるんじゃない?」
「……ユーリさん、どうしたのいきなり? 私何か、気に障ることでも言った? オサムさんのこと、聞き過ぎたかな……」
「違うよ、アキちゃん。その小説って一体何なの? 誰の何ていう本?」
 ユーリは詰め寄った。
「えっ……」
 アキはとっさに、まずいと思った。何と言っても、その小説は今、カバンの中に入っている。作者の名前は不明で、もちろん出版されてもいない。還付不能郵便物を持ち出してきたとは、口が裂けても言えない。

「アキちゃん、その小説のそのシーンの話、局長からも聞いたんだ」
 アキは咄嗟にカバンを見た。この小説の最初の読者は、自分ではなかった。

*     *     *

アキはユーリのスニーカーを料理の上から降ろし、靴裏についた天かすをきれいに払って靴を床に戻した。大好物のちくわの磯辺揚げには靴底の砂がついてしまっていたが、ユーリの方は見ずにそのまま食べた。彼女はすでにこの小説のことを知っている。局長も知っているということは、この小説をすでに読んだのだろうか。

「ユーリさん、気分害しちゃったよね、ごめんね。局長がその小説の話ししたのって、いつ?」
「そんな、本当に食べることないのに……」
「大丈夫、ユーリさんのものだから、汚くないよ」
「何それ、その辺を歩き回った靴だよ……それで、ナカさんとタカさんは、もう一緒に発掘現場に出かけた? まだそこまでは読んでない?」
「ユーリさん……」
「誤解しないで。私はその小説を読んだことはない。局長からところどころ聞いただけ。局長はかなり前から知っているみたいな口ぶりだった。でもアキちゃん、普段あんまり小説なんて読まないじゃない。買うのはいつもインテリア関係の写真集で、活字を目で追うのが苦手で、それでロンドンを離れたんじゃなかったの?」
「そうなんだけど、最近ばったりその本に出会っちゃってね……」
 どうしても自分のカバンの方を見てしまう視線を、無理やりテーブルの上に戻した。本の話題になれば、著者名とタイトルを伝えるのが普通だ。それをしない段階で、この小説は触れてはいけない存在だということを自らプレゼンしているようなものだ、とアキは唇を噛んだ。

「まだ半分残ってる、星天航路。『とりあえず飲んで、天使の休息』にしない?」
 ユーリの提案に救われた。「ひいらぎ」の座敷には昔ながらのレーザーカラオケがあり、週末には町の青年会の会合でいまだに大活躍だ。ユーリは料理を運びながら客が昔のヒット曲を歌うのを聴いているうちに歌詞を覚えてしまい、時にこうやって引用する。今彼女が口ずさんだ曲、ひょっとすると七会と探夏の時代の歌かもしれない、アキはふと思った。

(第4話に続く) 


【前後の物語】
第1話:カスタムハウス

https://note.com/sasakitory/n/n8eeff7be3fa7
 郵便局員アキが見つけたものとは?
第2話:副塾長のハイヒール
https://note.com/sasakitory/n/n989324f8cb34
 物語はいよいよ1995年に〜七会と探夏が出会う日
第3話:いまここです!
第4話:タブリエ
https://note.com/sasakitory/n/n63098b31494b
 七会と探夏の1995年の夏の第1日
第5話:『道の曲がり角』
https://note.com/sasakitory/n/nbaf518e0f7f1
 謎の小説にタイトルがついた!
第6話:ソロとハーモニー

https://note.com/sasakitory/n/nb0b8307742cc
 七会と探夏の根本的な違いとは?
第7話:6月24日(月)公開予定〜お楽しみに!


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