見出し画像

Flow into time 〜時の燈台へ〜 第8話

【前回の物語】
 アキは1995年の世界を追体験する準備を始めた。七会が高校時代に着ていたのと同じタイプのタブリエや探夏が話していたジャズのCD、むらさきいろの入浴剤や青い傘を買った。探夏が好きな青色は、きっと Bleu de France だと思った。

第8話 : むらさきいろの海

第3日:土へ行く

 その日も大通りを右折して県道に入り、二人の時間が始まった。その交差点まではなんだか日常生活の空間な気がしていて、二人ともあまり話さずに過ごした。
「今日は食事ご一緒するので、その前に話しておきたいことがあって……」
「何でも聞くよ、七会さんのペースで話して」
 七会は黙って頷いて話し始めた。
「私、お酒にとても興味があるんです。特にカクテル……ジン・トニックとか。ジン・トニックって、使うジンの種類やジンとトニックウォーターの割合、ライムの切り方とかでも驚くほど味が変わるそうです。それに、日本ではコリンズグラスに入れますけど、ヨーロッパでは足のついたジントニック・グラスがあるようです」
「また、マニアックなところに興味を持ったね。じゃあ今度、僕がよく行くバーへ一緒に行ってみようか」
「それが、私、お酒は飲んじゃいけないんです」
「……飲めない、ではなく、飲んじゃいけない、なんだね」
「ちゃんと気づいてくれたんですね」
「飲めない人が、ジン・トニックの作り方やグラスに興味を持つのはまれなんじゃないかな。体質的にアルコールを受け付けないんだね?」
「いえ、多分、お酒には強い方だと思います」
「……体質的には飲めるけど、飲んじゃいけない理由がある。それが話したかった内容だね」
「分かってくれてありがとう……」
 七会がこの話をするのは、探夏が初めてだった。

「探夏さんが言った通り、やっぱり同じ場所で同じ話になりますけど、『むらさきいろの海』の話、覚えていますか?」
 車は坂の下の小学校を過ぎて右折し、農村エリアに入っていた。
「小学生の時、家の浴槽がむらさきいろで、浴槽のお湯がきれいな色に見えた。でもお母さんにコップを持ってきてもらってすくって持ち上げたら、むらさきいろじゃなくて透明だった」
「それでも、どうしてもそのむらさきいろが欲しかったんです。欲しいというのは、きれいなむらさきいろになっている水をコップに入れて見たいとか、そういう物質的な感じじゃなくて、なんというか、むらさきいろと一体化したかった、みたいな。小さい頃の感情だから、今はうまく言葉にできないです……」
「もう十分言葉にしてくれたよ。それで、何か出来事があったんだね」
「小さい子が何かに興味を持った時って、どうするか知ってますか?世界中どこでも同じだって読んだことがあります」
「子どもが何かに興味を持った時? 買って欲しいと親にねだるのかな?」
「それはもう少し大きくなってからの話です。どうにか首が座って、一人でハイハイしたり少し歩けるようになった頃なら?」
「……なんだろう、世界中同じっていうと、人間の本能に関係してくるのかな?」
「いい線いってます。小さい子は、興味があるものはなんでも口に入れるんです」
「なるほど、そうだ。だから子ども向けのおもちゃの部品は、口に入らないくらい大きくするか、あるいは飲み込んでも窒息しない程度に小さくしておくかするんだった」
「さすがです」
 何でも単刀直入に話す七会が、今回の話題は慎重に前置きをしていることが分かる。探夏は決して急かさないように気をつけながら話を進めた。
「私もどうしても欲しかった『むらさきいろの海』を口に入れたんです。小さかったから、それしか方法が思いつかなかったんだと思います」
「口へ入れたっていうと?」
「気持ち悪くなるまで、お風呂のお湯を飲んだんです」
「なるほど……でもお湯を飲んだくらいで死にやしないよ」
「でも母は私を病院に連れて行って、先生も看護婦さんも、私を精神病患者みたいに扱いました」
「それは、辛い思い出だったね。子どもが好きなものを口に入れるのは、普通のことなのに」
 その時、農協の角を左に曲がった。彼女はこのまま、発掘作業ができるだろうか? 今日は休んで、部屋でゆっくりしている方がいいのではないだろうか、探夏はそう思ったが、そうは言わずに続きを聞いた。必要であれば、発掘現場の手前のどこか別の場所に車を止めて、そこで話してもいい。

「それから、先生がいろいろ質問をして、正直に答えたら、『この子には治療が必要です』って勝手に決められて、そのころから私はこんな、必要のない薬を飲まされるようになったんです」
 七会は昼にも飲んでいるという薬をリュックから出して、探夏に見せた。とにかく種類が多いのが気になった。向精神薬のことはよく分からないが、一度飲み始めると時に精神依存、身体依存が生じることもあり、やめるまでに時間がかかるらしいことは、自由選択の授業で聞いて知っていた。
「でも七会さんはもう大人だから、必要ないと自分で分かってるなら、工夫して止めることはできないの? お酒を飲んじゃいけないってのは、その薬とお酒が合わさると効果が強くなったりするからだね?」
「それができれば苦労はしません……当初は必要ない薬だったかもしれないけど、飲み始めて十年以上経って体が慣れてしまったっていうか、その成分が体内にあるのが普通になってしまって、薬をやめると眠れないし、手が震えるんです。だから授業でノートを取ることも、発掘作業で刷毛を動かすこともできなくなる……」
「僕は専門家じゃないけど、できることが一つある。大学に入学した最初の年は、僕も七会さんと同じ大学寮にいた。そこで、隣の部屋に住んでいた人が昨年医学部を卒業して、精神科医になったんだ。最新の知見だと何か方法があるかもしれない。医学は日進月歩だからね」
「私はそのこと、考えるだけで憂鬱で、逆にまた『むらさきいろの海』へ戻りたくなってしまう。だから、私はそのことは忘れて、日常生活を送るために黙ってお薬を飲みます。だから、探夏さんに一人で調べてもらってもいいですか?」
「もちろん、それが七会さんの助けになるんだったら、何でもする」
 その日はじめて、七会が微笑んだ。
「今日の帰りは、何か甘いものが飲みたい……お願いしていいですか?」
「もちろん、じゃあ甘いものを二種類買っておく」
「ありがとう、じゃあ今日も行ってきます。『タブリエ』での食事、本当に楽しみにしています!」
 七会はワンピースの裾を揺らしながら発掘現場へと歩いて行った。

*     *     *

「むらさきいろの海」って、ファンタジー的な内容につながるのかと思ってたけど、七会さんの昔からの事情があったんだね……」
 今日の朗読担当はユーリだった。実際には、女子四人の中で一番最初に小説『道の曲がり角』について知っていたのはユーリだ。
「何かを強く好きになったり気に入ったりした時、その一部じゃなくて全体を感じたいって思うことってあるよね。私も、好きな舞台って主演の俳優さんだけがいいのでも、脚本だけでも音楽だけでもないの。やっぱり全体が好き。その全体に対する七会さんの愛情表現は、お湯を飲むことだったんだね。舞台に惚れ込んだ時って、私どうするだろう……」
 リンが遠くを見つめた。「ひいらぎ」の座敷の窓からは遠くに山が見えた。
「でも、こういう話って誰にでもするものじゃないから、七会と探夏の距離は、これで一気に縮まったんだと思う。まずは、『タブリエ』での二人の会話に注目かな?」
 ナミの意識は、すでに二人の食事中の様子だ。

第3日:街へ帰る

 探夏はまた近くのスーパーを歩き回って、七会リクエストの「甘いもの」を探した。彼女が言っていたのは、おそらくコーラやファンタなどの「甘いソフトドリンク」ではないだろう。かと言って、甘い缶コーヒーでもないはずだ。いろいろ考えた挙句、探夏は最近流行り始めた「ティーソーダ」と、高価格路線で売れ始めていた「あじわいカルピス」を買った。七会は、どちらかを気に入ってくれるだろうか? 七会が自分から「甘いものを用意しておいてほしい」と言ってくれたのが、何より嬉しかった。

「今日も暑かったです……」
 七会が探夏の車に乗ってくる様子も、随分と自然になった。
「大丈夫?これで頭冷やして」
 探夏が冷凍庫で冷やしておいたタオルを差し出す。七会はいつものようにそのタオルを折りたたんで額にのせ、上を向く。やっぱり、熱を出した子どものようだ。
「甘いもの、ありますか?」
 七会が聞く。
「あるよ。ティーソーダと味わいカルピス、どっちがいい?」
「……」
 いつもすぐに決める七会が迷っている。でもすぐに、
「一緒に両方飲みましょう」
 と提案した。
「オーケー、じゃあここに両方、立てておくね」
 探夏が車のドリンクホルダーにティーソーダと味わいカルピスを立てる。よく考えてみれば、なにも手元に飲み物を持っておく必要はない。七会は最初にティーソーダを、探夏は最初にカルピスを飲んだ。
「この紅茶、甘すぎる!」
 七会はそういって、もっと甘いはずのカルピスに口をつけ、なぜか満足気な顔になる。
「どうせ甘いなら、こっちの方がいい」
 探夏は七会の気に召さなかったティーソーダを引き取り、ちょうどそこで県道に入った。

「あのね探夏さん、今日食事に行く前に、もう一つ話しておく必要のあることがあるんです。聞いてくれますか?」
 七会が切り出した。
「もちろん、今日はタブリエのディナーコースを予約したよ。美味しくいただくためにも、何か気になることがあるなら、先に話してもらう方がいいと思う」
「ありがとう」
「探夏さん、『ヒステリー性失歩症』って知ってますか?」
 七会が間髪入れずに切り出した。
「聞いたことないな、でも失歩症っていうからには、歩けなくなる病気なんだろうね。それがどうしたの?」
「私、朝に話した『むらさきいろの海』のことがあった直後、ヒステリー性失歩症になって、歩けなくなったんです。病院の中も、車椅子で移動してました」
「筋肉や神経には異常はなかったんだよね」
「そうです。精神的な理由で、ある日突然歩けなくなる病気です」
「大学の臨床心理学の先生が似た症状について話していたことを思い出したよ。キリストの話だった」
「イエス・キリスト?」
「そう。一部に、イエス・キリストは、特別な力で人を救ったこともあるという記述があって、それは宗教的というよりも医学的だったらしい」
「キリストは医者だったの?」
「今の定義で言えば、の話だよ。キリストが治療したのは、七会さんが言った『ヒステリー性失歩症』に近い症状だったはずだよ。患者たちと対話をすることで、急に歩けなくなった人たちを歩けるようにしたという記述があるらしい。今で言うならば、カウンセリング、あるいは精神療法だよ」
「じゃあ、私のあの時の状態って、私だけじゃなくて、ずっと昔からあった症状だったってこと?」
「そうだと思う。七会さんだけじゃない、多くの人が苦しんでいた症状だよ」
「でも、『ヒステリー性失歩症』だなんて、失礼な病名だと思う。将来的にもう少しましな名前になればいいのに、って今でも思ってる」

 ここでいつもの交差点を左に曲がり、市街地へと入った。
「今日は、一度家に帰って、お風呂に入ってからでいいんだよね」
「はい、そうさせてもらえると嬉しいです。タブリエの予約は何時ですか?」
「7時半だから、時間は十分あるよ。僕も七会さんを寮で下ろしたら一度家に帰って、シャワーを浴びてくるよ」
「タブリエのディナーコース、楽しみです。あと……私、今朝話した感じなので、お酒は飲めないんですけど、ごめんなさい」
「どっちにせよ車で行くんだから、飲めないことには変わりないよ。いつか七会さんの薬がなくなったら、その時はゆっくり飲みに行こう。最高のジン・トニックを作ってもらおう」
「はい、きっとそうできるよう、まずは探夏さんがいろいろ調べてください」
「その約束だったね」

 探夏は七会を学生寮の駐車場で降ろして自宅へ向かった。毎日炎天下で刷毛を動かして発掘に夢中になっているのは、彼女の言葉で言うなら「むらさきいろの海」から始まった自分の昔の陰の部分を忘れたいからなのか? でもそれが陰だと決めたのは誰で、仮に陰だとしてもなぜ陰はよくなくて、陽はいいのか? なぜ夏にビアガーデンでビールを浴びるように飲むのはよくて、お風呂の水を飲んでしまっただけで、必要のない薬を飲まされ続けなければならないのか? 探夏はそんなことを考えながら自宅へと車を走らせた。タブリエではこの話は出さずに、楽しい時間を過ごそう、と決めた。

(第9話に続く)


【前後の物語】
第1話:カスタムハウス

https://note.com/sasakitory/n/n8eeff7be3fa7
 郵便局員アキが見つけたものとは?
第2話:副塾長のハイヒール
https://note.com/sasakitory/n/n989324f8cb34
 物語はいよいよ1995年に〜七会と探夏が出会う日
第3話:ユーリのスニーカー
https://note.com/sasakitory/n/n72c9ca85f90a 
 ユーリから告げられた秘密とは?
第4話:タブリエ
https://note.com/sasakitory/n/n63098b31494b
 七会と探夏の1995年の夏の第1日
第5話:『道の曲がり角』
https://note.com/sasakitory/n/nbaf518e0f7f1
 謎の小説にタイトルがついた!
第6話:ソロとハーモニー

https://note.com/sasakitory/n/nb0b8307742cc
 七会と探夏の根本的な違いとは?
第7話:Bleu de France
https://note.com/sasakitory/n/n7012d2f47e6f
 アキが二つの時間に生きる準備を整える 
第8話:いまここです!
第9話:6月28日(金)公開予定〜お楽しみに!


この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

サポートってどういうものなのだろう?もしいただけたら、金額の多少に関わらず、うーんと使い道を考えて、そのお金をどう使ったかを note 記事にします☕️