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ライラックとガベル第18話「ライラックとガベル」
人生は幸と不幸の繰り返しだ。すこしいいことがあったかと思うと、次には決まって悪いことがある。
例えばライラックが首都総合病院の個室にあるふかふかのベッドで目覚めたとしても、その枕元にいるのはバイオレンスサイボーグであることなどは、まさにその体現と言える。
「ここはふつうガベルがいるもんじゃないのか?」
数日の昏睡状態から起きたライラックの第一声はそれだった。だがベッドの枕元に__枕元と呼
ライラックとガベル第17話「よい夢を」
この夢を見るのは本当に久しぶりだ。
最後に見たのは一年ほど前だったろうか? それでも初めてこの夢を見た日のことはよく覚えている。
なにせあの日は背中に蔦を一面彫りつけられた日の夜で、ライラックは熱にうなされた。
熱に耐えられず目を覚ますと、まるで雨に降られたかのようにパジャマもシーツも濡れて湿っていた。肌に張り付くすべてが不愉快で起き上がり、暗い部屋の中で手当たり次第に触れる布を剥ぎ
ライラックとガベル第16話「 die damn,it」
夢見心地だった。
ただその夢は、熱帯夜に魘されてみるような、陰気で扇情的な夢だ。
吸い込むのも嫌になるほどの熱気で息をするのが苦しい。透明でありながら微温湯のようで、どこか脂ぎっている。
着飾った男女が喉や腹をかきむしってアラスターの残した余熱に悶えている。言葉にならない慟哭と嗚咽が這いずる法廷の中、自分の脚で歩いているのは二人だけだ。
ガベルは彼らを踏みつけこそしなかったが、その背を
ライラックとガベル第15話「泥中に沈む」
「アラスター!」
ライラックの声に、アラスターは露骨に眉を顰めた。
「お前はいつまでたっても腰抜けだな、ライラック」
アラスターが一瞥と共にライラックへ言い棄てる。「あのときも、ガベルの首根っこを掴むどころかうろうろ後ろを追いかけて。告白でもするのかと思って待ってやったってのに、その腰抜けっぷりで道化をやるにしても芸がない」
ライラックはアラスターのしていることの真意や、これから何が
ライラックとガベル 第14話「悪魔の取引」
ロスロンドには毎年嵐が来る。
ある決まった時期の、しかし夜のうちだけ激しい風雨がロスロンドを覆いつくす。夜が明ければ驚くほど静かで、木々や大地は雨に濡れて艶めき、その美しさは息をのむほどなのに、日が落ちるとそれらは一層濃い暗がりを連れてやってくる。
このとき法廷に入り込んだのは、まさしくそれだった。
扉は金属質の鍵と、何人もの人間で守られていた。だがその扉は開いた。
静かに扉を押
ライラックとガベル 第13話「先達の忠告」
茶番でもセットが豪華ならば見応えがあるものだ。
元オージア最高裁判所の地下は、少なくとも公的な文書においては職員用通路と資料保管庫のためのスペースとなっている。
そしてそれは事実であるが、そのちっぽけな事実ではとてもこの巨大な穴倉を埋め尽くすことはできないだろう。
地上階にあるどの裁判場よりも厳かで暗く冷えた議場が地下にある。まるで一世紀前の貴族が怪しげな客を招き、権力について語り合うか
ライラックとガベル第12話「残り火に全部くべてくれ」
乾いた葦が伸びっぱなしの川縁に座って煙草をふかしていると、ジンが立ち去ってさほどしないうちにガベルがやってきて、何を言うでもなく隣へ座った。
「煙草、いるか?」
「もうやめたよ」ガベルは差し出された煙草の箱を押し返した。「知っているだろ」
「ライラに悪いもんな。彼女は鼻がいい」
ライラックは煙草を口元から外し、おもむろに背後を振り返った。しかしそこにはぼうぼうに生えまくった草があるだけで、アラ
ライラックとガベル 第11話「今日より美しき昨日」
「——ライラに、何をした」
「そんなに怖い顔をしないでおくれよ、ガベル」
アラスターは哀れっぽく眉を寄せ、肩を縮めた。それから節くれだった指で口の両端を持ち上げて見せる。「ほら、笑って!」
だがガベルは冷えた鉄のような目を変えなかった。答え以外は耳に入らないというその形相に対し、アラスターは悪戯が露見した子供のように口を尖らせた。
「これはいい毛布だが、しかしもう古いだろう。だからライラに
ライラックとガベル第10話「フレデリクの息子」
「フレデリクにそっくりだ」
声が声になる前に、まだそれが湿り気を帯びた熱でしかないうちに鼓膜へ吹き込む。
ガベルの視線が初めて意思を伴った。ライラックは襟のひとつでも掴み上げられるつもりだった(ライラックも着替えを済ませていたが、別に構わなかった)
だがガベルは視線を向けただけだった。太く、鋭い、セピア色の騎士道物語で振り回されていそうな、ひたすらに硬く鋭いそれを。
決して人に向けていいも
ライラックとガベル第9話「ホーム・スイート・ホーム」
ロスロンドを訪れるたび思う。
ここは時間が止まっている、と。
いや、より正確に言うなら、ロスロンドは世界中のこれまでの歴史から最も穏やかで変哲のない一日を取り出して、その一日を延々と焼き増しして繰り返しているようだ。
一年もその通りだ。地面に生い茂る芝の色が青から段々とくすみ、木々の葉が落ち、雪が降って、全てが白紙になってまた去年と同じ季節が寸分違わず書き起こされる。
はじめと終わり
ライラックとガベル 第8話「ある季節の終わり」
ライラック・ゼアロは敬虔な花売りの両親の間に生まれた。
美しい母と美しい父からそれぞれ髪の色と目の形をそっくり引き継ぎ、自分だけの薄紫色の目の色を持って生まれてきた。
息子にライラックの名前をつけた両親もまたそれぞれに花の名前を自分の名前としていた。母はアイリス、父はオレガノ。
「君のご両親が君にライラックの名前をつけた理由がわかった気がする」
と、ガベルがそう言ったのも無理はない。誰もが
ライラックとガベル 第7話「資産管理」
「——まあ、流石に目を覚ました時には混乱した様子だったが、存外すぐに立て直したよ」
車はロックウィル法律事務所を出立してから一度も信号に捕まることなく進んでいた。茹だるような熱と日差しも、歩道を行き交うしかめ面の市民の内心も、窓を閉じて冷房を効かせた車内には関係ない。
ライラックはハンドルを軽く握ったまま、フロントガラスに微笑みを反射させた。
「好みの男の寝顔っていうのはいいものだな。でも目が
ライラックとガベル 第6話「小説より奇なり」
テレビの方から立て続けに野太い悲鳴や怒号が上がった。だがライラックもガベルも視線こそテレビに向けていたが、擦り切れるほど見たお馴染みのその映画のストーリーなど、今夜は何一つ気に留めていなかった。
「ライラもその家では俺と同じような立場だった——と、少なくとも当時の俺は勝手にシンパシーを感じて彼女の後を追っかけたものだよ。実際彼女も、俺が家の中より外で牛の相手をしていることが多いから、すぐに打ち解
ライラックとガベル 第5話
脱衣所にある洗面台には青い柄の歯ブラシが立てかけられていた。
底が荒い網目のようになった水切りスタンドにセットされた青い歯ブラシの隣に、ライラックは自分が使い終えた新品の青い歯ブラシを差し込む。
特に仕切りもないスタンドの中で歯ブラシは転がり、そして交差するような形で落ち着いた。特徴もない同じ色の二本の歯ブラシはそれだけで最早どちらがどちらのものか分からない。
浴室からリビングへ戻ると、ガ
ライラックとガベル 第4話「大切なもの」
一つの茎に複数の花をつけるリシアンサスはロックグラスへ斜めに差し込まれ、キッチンカウンターの中央に飾られた。日が暮れてくると頭上のダウンライトが点灯し、リシアンサスはステージ上の歌姫のように照らされた。
仕事を変えて自宅にいる時間が伸びたせいか、ガベルは最近料理を始めたようだ。元々簡素な食事であれば自分で作っていた上、時間があればあれこれと調味料を測って投入する時間があるし、具材も加えられる。
ライラックとガベル 第三話
ライラックは正午から午後一時までの休憩時間のうち、最後の15分を精神統一に費やしている。プロのアスリートが必要とする必勝のルーティーンさながら、ライラックは必ず一日に一度、一日の真ん中にこの15分を設ける。
しかしライラック・ゼアロはアスリートでもなければプロでも無い。そして物事には常に例外がある。
この日のライラックは12時45分になっても両目を開けていた。数ヶ月もの間無人のまま放置されて