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ライラックとガベル第18話「ライラックとガベル」

 人生は幸と不幸の繰り返しだ。すこしいいことがあったかと思うと、次には決まって悪いことがある。
 例えばライラックが首都総合病院の個室にあるふかふかのベッドで目覚めたとしても、その枕元にいるのはバイオレンスサイボーグであることなどは、まさにその体現と言える。

「ここはふつうガベルがいるもんじゃないのか?」

 数日の昏睡状態から起きたライラックの第一声はそれだった。だがベッドの枕元に__枕元と呼ぶべきか、ホテルのエントランスを一部切り取ってきたようなテーブルと専用のソファに座っていたジンもまた、ちらっと一瞥を寄越しただけだ。

「起きたか」
「起きたよ」ライラックは現実に打ちひしがれた。「ああ……起きてるよ……」
「死に損なった気分はどうだ」
「最高だ」
「結構なことだな」

 ジンはゆとりのあるテーブルセットの配置でさえ満足にくつろげなかったのか、組んで足をほどくなりさっさと立ち上がった。

「……相棒が生死の境を彷徨っている時に、お前は美容院に行ってたのか?」

 立ち上がり、ベッドそばにジンが立つ。その髪は随分短くなっていた。
 切ったとはいえそれでも長い部類に入るのだろうが、いかんせん腰までも及んでいたあの二次元的な銀髪は、今や一つに結わえて鎖骨に毛先がかかるぐらいだ。
 もう一つ指摘するならば、この日のジンの衣服はいつものスーツではなかった。
 黒いコートにグレーのシャツ、黒いスラックスと色調は黒で統一されていたが、仕事着か、あるいは寝るときの半裸しかしらないライラックからすれば、非常にありふれた、驚くほど三次元的な恰好だ。
 テーブルの足元に置かれたボストンバックも含めて。

「ロックウィルに激震が走るぞ」
「関係ない。興味も無い」
「そうかい」
「死に損なった気分はどうだ」

 ジンは再び同じことを聞いた。ライラックもまた即座に同じ答えを返そうとした。
 だが、結局ライラックの口から出たのは別の言葉だった。

「____最悪だ」
「だろうな」
「お前のトークセンスも相変わらず最悪だしな」

 ジンがかすかに眉を浮かべる。前髪は変わらず長いままで、右目はほとんど隠れているがそれでも以前よりずっと表情が見えやすい。
 見えやすいし、見せやすくしているのだとライラックは察していた。

「別に……俺が起きるのを待っていなくたって良かったんだぜ……いざ離れるとなったら、俺が恋しくなったか?」
「ああ」

 外しかけた呼吸補助の酸素マスクが強かにライラックの顔を打つ。丁度外そうとゴムを引き延ばしていたのだ、それも極限まで。
 ライラックは暫く口元を手で押さえ、そして今度はゆっくりと丁寧にマスクを外した。包帯を分厚く巻かれた両手は全体的に感覚が鈍いが、幸い指はすべて揃っている。
 病室の窓からは曇天の外が見えた。病室の時計は昼すぎを指しているが、雲が分厚く張っているせいで夜明け前のように薄暗い。
 灰色の窓ガラスに映る自分は、ほぼ全身に包帯を巻いていた。不幸中の幸いは顔に大きな傷がないことと、髪の毛が無事だったことぐらいか。
 とはいえライラックはうんざりした。塞ぎそうになる気分を立て直すように大袈裟なつくり笑顔で振り返る。

「……入院すべきなのは俺じゃなくてお前の方じゃないか? ジン、言ってみろどこを打ったんだ?」
「顔を」ジンは言った。「肘で二度も殴られたぞ。ガベル・ソーンを屋内から連れ出す際にな」

 その痕跡はもはや消え失せていたが、ジンは冗談は言っても嘘は言わないことをライラックは知っている。ならば事実なのだろう。
 
「そうか……それはよかった」
「良いことか?」
「それからどうした? 家に帰して……それとも、アラスターのところへやったか?」

 ジンはそれには答えず、ただライラックの顔を見つめた。

「おい、ジン……」
「お前は死にかけても変わらんな」
「何がだ」
「口を開けばあの男のことばかり言う」

 ライラックは開きかけた口もそのままにして、何も言えなかった。ジンの物言いはあくまで淡白で、嘲るような意図はまったくないだろう。
 だが、ジンの度重なる警告を無視して我を通し、しかし最後には通し切れず折れて、挙句死に損なった体では返す言葉がない。
 ジンにその意図がなくとも、誰よりライラック自身が思い知っていた。自分の生き汚さや臆病さ、優柔不断。
 生死の境にまで触れて尚、ライラックはまだ自分の行いに是非を下せていない。

「ライラック、」

 ライラックが黙り込んで病室が静まり返ってようやく、ジンが口を開いた。

「あの男は無事だ」

 ライラックは何も言わなかった。頷くなどの仕草もしない。
 ジンがベッドに立てかけられていた簡素なパイプ椅子を開き、そこに腰かけた。

「アラスターについては____今やお前に伝えることはない。彼が死んでいようと生きていようと、最早お前たちには無関係のことだ」

 ライラックが首をもたげる。ジンは静かに頷いた。

「お前が知るべきことは、自分が生きていること、ガベル・ソーンが生きていること、そして、アラスターと私とは、もう二度と会うことはないということだけだ」
「……終わったのか?」
「終わった」
 ジンは刻むように言った。短く。はっきりと。
「と、アラスターからはそう聞いている」
「ならガベルは」
「少なくともロスロンドにはいない」ジンは簡潔に告げた。「だがミラリスの自宅にも戻っていないようだ。元よりあの夜の火災現場に居合わせたことで、色々と調査も受けているだろう」
「調査?」
「お前を救助した救助隊、首都行政局の森林管理課、そして数名の市民、動物愛護団体____あの夜、あの男が手を回して呼び寄せていたらしい。その真意までは知らないが、単に野次馬が欲しかったわけではあるまい。あの男にも何かしら考えがあってのことだろう」

 ライラックはひとまず安堵していた。元よりガベルは一貫して何も犯罪に手を染めていないのだ。嫌疑を駆けられようとそれは疑いの域を出ず、調べたところで明らかになるのは彼の潔白だ。
 それでもなお、自分が眠っていた間に誰が何をしたか、何が起きていたかを今すぐに把握したかった。
 アラスターの言う”終わった”とはどういう意味か。信者たちはまだガベルを探しているのか。他の候補者たちはどうか。巣穴たるあの地下を燃やしたところで、逃げおおせたものもいるだろう。
 そういう意味では、少々遺憾でも警察や行政の調査を受けている限り、公的な目がガベルに張り付いていれば裏社会は手を出しづらい。
 よしんば表側に紛れ込んでいるものがいても、表側の人間として接触しようとすれば逐一身元証明が求められ、書類で痕跡が残る。それは彼らが一番に嫌うことだ。
 
「調査って、まさかガベルに自殺教唆だ不法侵入だと、そんなつまらない疑いなんてかけられてないだろうな?」
「現場にいた以上は嫌疑をかけられもしようが、警察とてそこまで間抜けではない。そもそも容疑者で言えばお前がいる」
「だが今も自宅に帰ってないとなると……」ライラックは額を抑えた。「誰に拘束されているんだ? それとも、自分から身を隠している?」
「悪いが、今の私にはそれらを調べる理由が無い」

 ライラックははっとして、それからジンの背後にあるテーブルの足元に置かれたボストンバッグの存在を思い出した。
 ジンの目的はアラスターだ。そのアラスターが今回の件に関わっているために、彼としては早急にオージアでの一件を済ませようとしていた。
 そのアラスターが「終わった」と結論付けたならば、ジンがこの国でやるべきことはもうない。寧ろようやく、今からジンにとっての本題に取り掛かることができるのだ。

「そうだった」ライラックは言った。「それで__ああ、そうだ、俺が恋しくて出立できないんだったか?」

 わざわざ時間をおいて、一度目をなかったことにして問いかけ直した。
 だというのにジンは黙って、氷のような瞳で一心にライラックの顔を見ている。ライラックは素直に反応に困った。
 奇妙な沈黙が部屋を覆いつくしかけたそのとき、ふいにジンが口を開いた。

「ヴェルヴァンディ」
「ん?」
「ヴェルヴァンディ・フューゲルだ」
「誰が?」
「私が」

 ライラックはいよいよ途方に暮れた。
 何故このシルヴェストス人は今になって突然、自分の名を暴露したのだろう?
 彼にはジン・ウェンスタッドという名があり、今やオージア市民としての諸権利まで保証されている。アラスターの手筈とはいえ、異国の地に馴染むには彼自身の努力もあっただろう。言語、文化、生活、人間関係……
 そうした努力を怠らず、アラスターに連れられて____つまり正規の手段を使えない状況で祖国を離れた彼が、何故唐突に本名を明かしたのか。

「もしかして、お前には名前が十個ぐらいあって……冗談だよ、お前がいつもみたいに冗談を言わないから俺が代わりに言ってやっただけだ。かえって難しいもんだな、つまらない冗談を言うのは」
「今後、私と関わったことでお前に不利益がかかることがあれば適当な時期にこの名前を思い出すといい。おおよその責任は免れるだろう」
「それはいい、連帯保証人の欄に書かせてもらうよ」

 そう言ってから、ライラックは指の間まで包帯が巻かれた両手をぎこちなく広げた。

「誰に聞かれても、口が裂けても言わない。だから安心して行け」
「だからこそ、こうして時間を無駄にさせられているのだがな」
「冗談の次は説教か? お前は俺の先生か何かか?」
「確かにかつては教職に就いていた」
「……なあ、お前はなんだって別れ際にそんな面白そうな話をするんだ?」

 ジンはパイプ椅子からおもむろに立ち上がると踵を返し、背後のテーブルセットに寄せて置いていたボストンバッグを手に取った。
 そのバッグは確かに旅行用の鞄に見えるが、さほど中身は詰められていないようだ。特にもう二度とこの国に戻らないにしては、荷は少ないとさえいえた。
 ジンは鞄を拾うためにライラックへ背を向けていた。そして彼はもはやこちらを振り向くつもりはないようだった。もう体は病室の出入り口を向いていて、ジンの向かうべき方向もその通りだ。

 だからライラックも窓の外へ視線をやって、特に感慨もないように「アラスターによろしく」とだけ言った。
「ああ」ジンの応答も簡素だった。「さらばだ」

 数歩の靴音と、ドアがスライドする音が二回。一往復。
 沈黙。
 点滴の滴る。
 空気がマスクから漏れる。
 衣擦れの音。
 車輪が転がって、近づいて、また遠ざかっていく。
 また静まり返る。
 靴音。
 靴音。

 病室の扉がノックされた。非常に軽快で小気味良い音だ。「どうぞ」ライラックは柔らかなマットレスと枕に身体を深く預けて言った。

 ドアを滑らせ、入ってきたのはきっちりしたスーツ姿の男二人だった。先に入った一人目は一度見れば忘れがたい顔で、二人目は眼鏡をかけた黒髪の男。どちらも堅苦しいほど襟の詰めようだったが、先陣を切って足を踏み入れた男はとくに華やかな顔立ちだった。
 伊達に歴代最年少で首長になっただけはある、と一見して納得させられる風貌だった。
 そのうえオージア国内でも屈指の投票率と支持率を誇る首都ミラリスのトップなのだから、”グレート・ギデヲン(素晴らしきギデヲン)”という馬鹿げた異名を鼻で笑うこともできない。

「こんにちは」
 ギデヲン首長は若すぎるほどの風貌からは驚くような深みのある声でライラックへ近づいた。「初めまして、とは言わせないでくれたまえ。私の市民は皆、私の父であり母であり、そして兄弟姉妹なのだから」
「どうも」
 差し出されたその手をライラックが捕まえるまでも無く、首長のほうからライラックの手を握った。
 軽く、一度だけそっと力を込めて手は解けた。
 この間にもう一人のスーツを着た男はてきぱきとソファセットを移動させ、ベッドへ向けるようにして位置を調整した。
 そして首長は手品師のように両手を広げると、「座ってもよろしいかな?」と言った。

「駄目だと言ったら諦めるのですか?」
「その場合はベッドを少し借りようかな」ギデヲン首長はあくまで許可を得るまで座らないつもりのようだ。「私としてはどちらでも構わない。近い方が内緒話はしやすいだろうがね」
「どうぞそちらのソファに座ってください」
「ありがとう」
「秘書の方もどうぞ。どうせ私は使いませんから」

 首長と秘書がそれぞれソファに座るのを見計らって、ライラックは自分がこの事態にさほど緊張していないことを不思議に思った。先ほどまでの顔なじみとの会話の方がはらはらしたぐらいだ。

「首長が見舞いに来てくれるなんて、それだけでミラリスに居住地を移した甲斐がある」
「こちらこそ。再選直後で任期の有り余っているときに君とお近づきになれるとは感激だ」
「そう私を煽てずとも、私の一票は元から貴方のものですよ」

 首長が笑った。声も上げずに口元を歪め、そして一度かたわらの秘書へ視線を投げた。秘書は一貫して黙り込んだまま、リムフレームの眼鏡ごしの眼光はライラックを見ている。

「つまり君は本気で私に信頼を置き、私の首長としての手腕を認めてくれていると?」
「ええ」
「嬉しいね」首長は足を組んだ。ゆっくりと「つまり君はようやく、トチ狂ったカルト集団の洗脳から目覚めたわけだ」

 ライラックは何も言わなかった。首長も黙っていた。秘書だけがいつでも立ち上がり、ライラックを取り押さえるまでにかかる歩数を頭で数えていた。
 やがてライラックの額にかかっていた前髪がほつれ、丁度眉間の真ん中に垂れた。

「当然____私に協力してくれるのだろう? ライラック・ゼアロ君? 君が心より信頼する、この私の為に」

 ライラックはわずかに顎を浮かせた。目の位置が高くなり、伏し目がちに細くした眼差しでギデヲンを見つめた。
 悩まし気に眉を顰める。涙を堪えるようにもう一段目を細めると、見つめ合うギデヲンの瞼もつられて痙攣した。
 すると、視界の端で秘書がコツコツと靴底で床を叩いた。典型的な貧乏ゆすりのそれだった。
「んっ?」
 はたと気づいたようにギデヲンは瞬きをした。そして自分の口が半開きになっていることに気づくと、顎を手で押し上げて口を閉じた。「すまないスドウ、うっかり彼に見惚れていた」

 コツコツ、ともう一度秘書が靴底で床を叩いた。ライラックがそちらを見ると、黒髪をきっちり後ろへ撫でつけたその男は右手の甲をライラックへ向け、そして人差し指と中指で自分の両目を指してから、次にライラックの両目を指した。
 ”次はない”。
 ライラックは鼻で笑った。リムフレームごしの視線に明らかな嫌悪が宿るのが率直に愉快だった。

「なんで俺があんたに協力しなきゃならないんだ?」ざっくばらんな口調でライラックは言った。「悪いが選挙には興味ないんだ。ミラリスにもな、正直どうでもいい」
「君のボスが君と同じようにただセクシーなめんどくさがり屋でいてくれたらどれだけよかったろうな。悪いがこっちだって好きで君たちに関わろうというわけじゃないんだ」

 逆だよ、と首長は言った。

「手を切りたいんだ。前首長、今の法務次官、議会の椅子でお昼寝する係の議員共、無駄な役職を尻穴からひりだすしか能のない老いぼれども____君のボスの崇拝者たちだ。今までは信教の自由に則り目を瞑るほかなかったが、このたびついに君たちはボロを出した。これを逃す手はない」

 首長がソファのひじ掛けに頬杖をついた。白樺のように透き通った肌に一段と白い骨が内側から浮き上がる。すべての指先、爪の一枚をとってもよく手入れされている。

「我がミラリスにあるオージア最高裁判所、その礎となるロスロンドの元最高裁判所。歴史的建造物、この国が誇る指定重要文化財への不法侵入、私的利用、挙句の果てには放火ときた」

 ライラックが白けた顔をしていることに首長が気づかないはずもないだろう。ロスロンドの元最高裁判所が近年ただの廃墟でしかなかったことは、地元の住民ですらとっとと解体して田畑にでもしてしまえばいいのにと思っていたぐらいのことは、暗黙の共通認識だ。
 最先端の技術を詰め込み、見目も美しい量子天秤を備え付けた現最高裁判所が完成してからは猶のこと、その礎というだけであの廃墟を愛するものはもはやいるまい。

「ライラック・ゼアロ君、君はいくつもの嫌疑がかけられている。そのうちいくつかは既に罪として確定している。素人目で見積もっても、あらゆる情状酌量を加味しても懲役刑は免れえないだろう」
「つまり俺はもうあくせく働かなくても、雨風をしのげる素敵なおうちと食事が用意されてるってことか? 嬉しいね」
「塀の中にいれば安全だと思っているか?」首長は穏やかに微笑んだ。「政治と法律と、そしてイカれた集団とはおさらばだとでも思っているとは可愛らしいことだ。塀の中には、塀の外にいた君の見たことも無い狂人がいるだけさ」
「まるで自分は聖人だとでも言わんばかりだな」
「悪いね、まさにその通りなんだ」

 首長は「ははっ」と自分で自分の言動に笑った。「自らを清廉潔白と信じることも出来ないような軟弱ものに、政治は務まらんよ」
 ライラックの顔から嘲笑が消えた。それ以外の表情もすべて。

「ご高説をどうも。それで聖ギデヲン氏はこの愚かな俺になにを恵んでくださるんだ?」

 首長は言った。それはチャンスだと。
 外ではにわかに雨が降り出した。窓ガラスを雨粒が叩く音が鳴り始め、はじめはタツタツと粒ごとに独立して鳴っていた音は、すぐに他の粒と混ざり、音もまた混ざって遠い日の嵐のようになった。
 窓の外が暗くなると、病室の照明の白さが際立つ。その光が三者三様の思惑と骨格を浮き彫りにしていく。

「足を洗うチャンスを君に与えよう。君が立派な、心から誇れるミラリスの市民となるならば、我々は公の、真っ当な手段と正当な手続きで君の安全を保証する」

 いわゆる証人保護プログラムだ。ライラックは嫌でも理解した。
 つまりこの首長は、ライラックを証人として、長年この国の政治と癒着し、公のものを音も無く蝕んでいたものを引きずり出し、その腕を斬り落とそうとしている。
 本当なら喜び勇んで首長の手を取り、なんならその高そうな靴を舐めしゃぶるべきだろう。
 だがこの話を聞いたライラックが考えていたのは、まったく別のことだった。

「断る」ライラックは言った。「悪いが、その話には乗れない」
「正気か?」
「正気だと思っているか? 俺のことを」

 ライラックの質問に、ギデヲンは言葉で答えなかった。ライラックは追及しようとはしなかった。肯定も否定も無意味だ。そして必要ない。

「あんたのような人間には信じ難いことだろうが、俺のように、日々ただ怠けることに生きがいを感じる人間もいるってことだ」
「協力の程度によっては、君は一生塀の中を知らずに死ねるかもしれないんだぞ」
「俺はもう何もしない」ライラックはゆっくりと告げた。「悪いが、俺がしなきゃならないことは、もう全部終わったんだ」

 ギデヲンは苛立ちよりも不可解さが勝ったようだが、隣の秘書はいよいよ額に青筋を浮かべていた。
「雨が強く降ってきた、早いうちに帰った方がいい」ライラックは窓の方を向いて言った。「もう此処へ来る必要はないし、この病室だって引き払ってくれていい。本来俺がいるべき場所は留置所だろう」

 灰色の窓ガラスに映る灰色のライラックの顔を雨粒が流れていく。髪は乱れていて、点滴だけで栄養を補充していたためか、顔の輪郭はややこけていた。鼻筋や目元の彫りが深くなったのはむしろ喜ぶべきだろう。

「君に関する裁判は当分開かれないだろうよ」それは首長の声だった。「君の弁護を誰もやりたがらないんだ。弁護士連合会が頭を抱えている。どうせ負けると分かっていて、しかも自治体を相手取るんだ。名ばかりの金齧り虫にもプライドはあるようでな、そういう筋ですら辞退する始末だ」
「だが既定の期間を過ぎれば、あの量子秤が民意で俺を裁くだろう?」

 最大九十九名の市民と裁判官の民意を反映し、過去判例による補正をかけて数学的偏差式によって量子秤が裁決する。無人の法廷に立つのは被告人だけだ。
 そして過去、この無人裁判にもつれ込んで無罪になったものは一人としていない。どころか量子秤は有人裁判と比較しても、厳罰を下す傾向にある。
 民意が厳罰を臨んでいるからだ。悪い行いをした者にはいくらでも石を投げてよいと、誰もが手のひらに握った石を投げ放つ快感に心の何処かで飢えている。
 それが弁護人がつかないような罪人ともなれば、一体誰がそれを諫めるだろう。
 それに____実際はただ、牢屋へ入れられるか、もっと狭い部屋に閉じ込められるだけだ。小石ひとつ手に入らない壁の中にいることになる。それだけだ。

 しばらく場を沈黙が支配していたが、やはりそれを破るのは公の支配者だった。

「まあ____最悪君が頷かないことも、想定の内だったがね」

 首長が言った。「スドウ、悪いが法務省へ通達を出してくれ。強制保護執行の要請を、大急ぎで頼むよ。奴らの怠慢を俺たちが清算してやろうというんだ、文句は言わせるな」
 ライラックは黙って窓の外を眺めていた。秘書が立ち上がり、いらいらした様子で携帯を取り出す。首長がその背中を軽く叩いて送り出す。
 そのどれもが古びた映画の出来事のように思えた。

 だから、灰色の画面に新たな登場人物が現れたとき、ライラックの体はそれに反応しなかった。

「強制保護執行の申請先は、いかなる理由であっても省略されません。申請先は法務省ではなく所在地を管轄する捜査当局です。捜査当局の承認を受けて初めて、法務省で認可のための決裁が始まる」

 灰色の紳士は帽子を被っていた。外で雨が降っていたからだろう。

「そして何より、罪刑の確定していない段階の被疑者に特殊法規措置の取引を持ち掛けることは決して褒められた行いではありませんね。罪を逃れるために虚偽の証言を行われる疑いがあり、これは法律の健全な運用を妨げる恐れがある」

 灰色がどれだけ分厚く覆いかぶさっても、ガベル・ソーンのブラウンの瞳だけは塗り潰すことが出来なかった。
 ガベルは帽子を脱いだ。そして丁度病室の出入り口で鉢合わせた秘書の目と鼻の先に立ったまま、後ろへ退くことも横へどけることもしなかった。

「失礼____そこを退いていただけますか」
「何をする気だ?」秘書の男が初めて口を開いた。「指定動物を私的生育していた件で裁判中だろう、まさか……」
「その件ならもう終わりました。行政区の森林管理課と教育委員会とはいずれも和解しましたのでご心配なく」
「はあ?」
「彼らを責めないでください」ガベルは淡々と言った。「彼らは最善を尽くしました。担当者の事前準備も周到で、論理も緻密でした。ただ結果が伴わなかっただけです」

「スドウ」ソファに座ったままの首長が仰け反るようにして秘書を呼んだ。「入れてやれ____想定内の事態ではあるが、よりにもよって最悪の想定が現実になったな」
「俺は電話させてもらうぞ、首長」秘書は舌打ちを隠さなかった。「かける先は人事部だがな」
「森林管理課だろうが秘書室だろうが、結局人事権は俺が握ってるってことを忘れないでくれよ」

 秘書はガベルの横をすり抜けるようにして外へ出て言った。荒めの足音はすぐに遠ざかり、そして聞こえなくなった。
 首長は溜息をついた(落胆の溜息だったが、それでもどこか俳優の芝居じみたものだった)。それから再び体に力を漲らせると、まるで草木が芽吹くように立ち上がった。

「こんにちは、”はじめまして”。ミラリスが誇る無敗の弁護士に、こうしてお目にかかれて光栄だ」
「はじめまして、ギデヲン首長」ガベルは帽子を胸元に当てて軽く一礼した。「こちらこそお会いできて光栄です。貴方とお会いするとしても、公判が始まった後になるかとばかり」
「私は散歩が趣味でね、あちこち出歩いているんだ。健康にもいい」
「結構なことです。可能であれば運動習慣が防ぐ著名な生活習慣病について議論したいところですが、何より先に申し上げなければなりません。裁判前の被疑者に、担当弁護士の与り知らぬところで接触することは止していただきたい」
「____担当? 君が?」

 ガベルはわずかに顎を引いただけだった。手櫛で軽く撫でつけたブラウンの髪はゆるやかに波打ちながら、まるで獅子のたてがみのようだ。
 首長は形のよいほっそりとした顎を手で撫でた。

「ふむ、私はあまり相場に詳しくないのだが、君ほどの弁護士を雇うに当たってはどれだけの成功報酬を工面しなければならないものだろうね」
「今回は国選弁護士として弁護を担当します。国選弁護の報酬保証制度はあなたもご存じでしょう」
「冗談だろう?」首長はついに噴き出した。「どれだけ少なく見積もっても半額以下だ! ガベル・ソーンをあんなはした金で雇えるんだったら、今まで私は一体どれだけの金を無駄にしてきたことになる?」

 ガベルはただ目礼した。それは首長の目の前を横切るための礼儀だった。
 ライトグレーの三つ揃いに身を包んだガベルは、ほんの数秒でベッドのそばに立った。それも出入り口から入って、わざわざベッドの回りを半周し、窓側のほうへ立った。

「こんにちは」
と、ガベルはまるで初めて会った子供にするように優しい声で挨拶した。「国選弁護人制度により、弁護士連合より派遣されました。貴方の弁護を担当するガベル・ソーン弁護士です」

 ガベルはライラックの開きっぱなしの目をまじまじと見つめ、そして複雑そうな顔を一瞬見せたものの、それを取り繕うには十分すぎるウインクをした。

「____五割引きで助けるって、そういう約束だったろう?」
 
 ライラックははじめて、自分が今包帯だらけの重病人であることを幸いに思った。
 きっと体が自由に動いたら、首長の前で目の前の親友に抱き着いていただろう。

【ライラックとガベル 終】

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