四季山河

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ライラックとガベル第15話「泥中に沈む」

「アラスター!」  ライラックの声に、アラスターは露骨に眉を顰めた。 「お前はいつまでたっても腰抜けだな、ライラック」  アラスターが一瞥と共にライラックへ言い棄てる。「あのときも、ガベルの首根っこを掴むどころかうろうろ後ろを追いかけて。告白でもするのかと思って待ってやったってのに、その腰抜けっぷりで道化をやるにしても芸がない」  ライラックはアラスターのしていることの真意や、これから何がどうなって、それによって何が変わるのか、全てを理解しているわけではなかった。  

    • ライラックとガベル 第14話「悪魔の取引」

       ロスロンドには毎年嵐が来る。  ある決まった時期の、しかし夜のうちだけ激しい風雨がロスロンドを覆いつくす。夜が明ければ驚くほど静かで、木々や大地は雨に濡れて艶めき、その美しさは息をのむほどなのに、日が落ちるとそれらは一層濃い暗がりを連れてやってくる。    このとき法廷に入り込んだのは、まさしくそれだった。    扉は金属質の鍵と、何人もの人間で守られていた。だがその扉は開いた。  静かに扉を押し開け、彼女はゆっくりと足を踏み入れた。  彼女は恐ろしく痩せていて、湿り気を帯

      • ライラックとガベル 第13話「先達の忠告」

         茶番でもセットが豪華ならば見応えがあるものだ。  元オージア最高裁判所の地下は、少なくとも公的な文書においては職員用通路と資料保管庫のためのスペースとなっている。  そしてそれは事実であるが、そのちっぽけな事実ではとてもこの巨大な穴倉を埋め尽くすことはできないだろう。  地上階にあるどの裁判場よりも厳かで暗く冷えた議場が地下にある。まるで一世紀前の貴族が怪しげな客を招き、権力について語り合うかのような重厚なカーペットに数々の動植物のはく製が壁を飾り、ばかに長いテーブルと、

        • ライラックとガベル第12話「残り火に全部くべてくれ」

           乾いた葦が伸びっぱなしの川縁に座って煙草をふかしていると、ジンが立ち去ってさほどしないうちにガベルがやってきて、何を言うでもなく隣へ座った。 「煙草、いるか?」 「もうやめたよ」ガベルは差し出された煙草の箱を押し返した。「知っているだろ」 「ライラに悪いもんな。彼女は鼻がいい」  ライラックは煙草を口元から外し、おもむろに背後を振り返った。しかしそこにはぼうぼうに生えまくった草があるだけで、アラスターは勿論、同僚の一人すら見つけられなかった。空は濃い灰色の雲が覆い、どこかか

        ライラックとガベル第15話「泥中に沈む」

          ライラックとガベル 第11話「今日より美しき昨日」

          「——ライラに、何をした」   「そんなに怖い顔をしないでおくれよ、ガベル」  アラスターは哀れっぽく眉を寄せ、肩を縮めた。それから節くれだった指で口の両端を持ち上げて見せる。「ほら、笑って!」  だがガベルは冷えた鉄のような目を変えなかった。答え以外は耳に入らないというその形相に対し、アラスターは悪戯が露見した子供のように口を尖らせた。 「これはいい毛布だが、しかしもう古いだろう。だからライラに新しいブランケットをプレゼントしただけさ、なんなら写真でも撮って送らせようか?」

          ライラックとガベル 第11話「今日より美しき昨日」

          ライラックとガベル第10話「フレデリクの息子」

          「フレデリクにそっくりだ」  声が声になる前に、まだそれが湿り気を帯びた熱でしかないうちに鼓膜へ吹き込む。  ガベルの視線が初めて意思を伴った。ライラックは襟のひとつでも掴み上げられるつもりだった(ライラックも着替えを済ませていたが、別に構わなかった)  だがガベルは視線を向けただけだった。太く、鋭い、セピア色の騎士道物語で振り回されていそうな、ひたすらに硬く鋭いそれを。  決して人に向けていいものではないそれを向けられて、しかしライラックの胸中に込み上げてきたのは苛立ちでも

          ライラックとガベル第10話「フレデリクの息子」

          ライラックとガベル第9話「ホーム・スイート・ホーム」

           ロスロンドを訪れるたび思う。  ここは時間が止まっている、と。    いや、より正確に言うなら、ロスロンドは世界中のこれまでの歴史から最も穏やかで変哲のない一日を取り出して、その一日を延々と焼き増しして繰り返しているようだ。  一年もその通りだ。地面に生い茂る芝の色が青から段々とくすみ、木々の葉が落ち、雪が降って、全てが白紙になってまた去年と同じ季節が寸分違わず書き起こされる。  はじめと終わりが結びついた一本の輪のように、ロスロンドは完成して完結している。真新しさも何もな

          ライラックとガベル第9話「ホーム・スイート・ホーム」

          ライラックとガベル 第8話「ある季節の終わり」

           ライラック・ゼアロは敬虔な花売りの両親の間に生まれた。  美しい母と美しい父からそれぞれ髪の色と目の形をそっくり引き継ぎ、自分だけの薄紫色の目の色を持って生まれてきた。  息子にライラックの名前をつけた両親もまたそれぞれに花の名前を自分の名前としていた。母はアイリス、父はオレガノ。 「君のご両親が君にライラックの名前をつけた理由がわかった気がする」  と、ガベルがそう言ったのも無理はない。誰もがライラックの目を見れば、彼の名前の由来を推して知る。  だが致命的な間違いがあ

          ライラックとガベル 第8話「ある季節の終わり」

          ライラックとガベル 第7話「資産管理」

          「——まあ、流石に目を覚ました時には混乱した様子だったが、存外すぐに立て直したよ」  車はロックウィル法律事務所を出立してから一度も信号に捕まることなく進んでいた。茹だるような熱と日差しも、歩道を行き交うしかめ面の市民の内心も、窓を閉じて冷房を効かせた車内には関係ない。  ライラックはハンドルを軽く握ったまま、フロントガラスに微笑みを反射させた。 「好みの男の寝顔っていうのはいいものだな。でも目が覚める瞬間はもっといい」  後部座席のジンは黙ってメガサイズのアイスコーヒーを飲

          ライラックとガベル 第7話「資産管理」

          ライラックとガベル 第6話「小説より奇なり」

           テレビの方から立て続けに野太い悲鳴や怒号が上がった。だがライラックもガベルも視線こそテレビに向けていたが、擦り切れるほど見たお馴染みのその映画のストーリーなど、今夜は何一つ気に留めていなかった。 「ライラもその家では俺と同じような立場だった——と、少なくとも当時の俺は勝手にシンパシーを感じて彼女の後を追っかけたものだよ。実際彼女も、俺が家の中より外で牛の相手をしていることが多いから、すぐに打ち解けることができた。何より彼女も俺も、同じ匂いをさせていたから」  草と土、乾燥し

          ライラックとガベル 第6話「小説より奇なり」

          ライラックとガベル 第5話

           脱衣所にある洗面台には青い柄の歯ブラシが立てかけられていた。  底が荒い網目のようになった水切りスタンドにセットされた青い歯ブラシの隣に、ライラックは自分が使い終えた新品の青い歯ブラシを差し込む。  特に仕切りもないスタンドの中で歯ブラシは転がり、そして交差するような形で落ち着いた。特徴もない同じ色の二本の歯ブラシはそれだけで最早どちらがどちらのものか分からない。  浴室からリビングへ戻ると、ガベルはテレビ台の前でリモコンを操作していた。画面には有料映画チャンネルのメニュー

          ライラックとガベル 第5話

          ライラックとガベル 第4話「大切なもの」

           一つの茎に複数の花をつけるリシアンサスはロックグラスへ斜めに差し込まれ、キッチンカウンターの中央に飾られた。日が暮れてくると頭上のダウンライトが点灯し、リシアンサスはステージ上の歌姫のように照らされた。  仕事を変えて自宅にいる時間が伸びたせいか、ガベルは最近料理を始めたようだ。元々簡素な食事であれば自分で作っていた上、時間があればあれこれと調味料を測って投入する時間があるし、具材も加えられる。定められたレシピさえあれば、ガベルはなんでも正しく、写真通りに再現して見せた。

          ライラックとガベル 第4話「大切なもの」

          ライラックとガベル 第三話

           ライラックは正午から午後一時までの休憩時間のうち、最後の15分を精神統一に費やしている。プロのアスリートが必要とする必勝のルーティーンさながら、ライラックは必ず一日に一度、一日の真ん中にこの15分を設ける。  しかしライラック・ゼアロはアスリートでもなければプロでも無い。そして物事には常に例外がある。  この日のライラックは12時45分になっても両目を開けていた。数ヶ月もの間無人のまま放置されているガベルの執務室と隣接した専用の事務室で、質素なデスクに深く座り、左腕で頬杖を

          ライラックとガベル 第三話

          ライラックとガベル 第二話

           ライラック・ゼアロがロックウィル法律事務所へ事務員として中途採用された時、ガベル・ソーンの経歴は既に輝かしいものだった。  法科大学院を卒業してまだ二年と経っていなかったが、新入りに回されるような矮小な依頼や相談にも一つ一つ的確な解答を与え、極めつけには急な代理で立たされることになった裁判の場でガベルは先輩弁護士の用意していた台本を逸脱し、そして台本に描かれていた結末以上の成功をおさめた。  依頼者の噂と評判は芋づる式に新たな依頼者を呼び寄せ、ガベルはあっという間に界隈でひ

          ライラックとガベル 第二話

          ライラックとガベル 第一話

          あらすじ>  法律事務所で事務員として働くライラック・ゼアロは、入所以来無敗の若き弁護士ガベル・ソーンの補佐を担当していた。完璧ゆえ他人に私生活を一切覗かせないガベルだったが、ある日「ライラが体調を崩した」という一本の電話がガベルを動揺させる。ライラックはそんなガベルを気遣って「ライラ」のいる彼の自宅へ共に出向き———そしてベッドの上に横たわる「彼女」を目の当たりにする。 「ライラ」を通じて近づいていく二人はやがて、決して誰にも打ち明けることのなかったお互いの秘密を少しずつ打

          ライラックとガベル 第一話