ライラックとガベル 第11話「今日より美しき昨日」
「——ライラに、何をした」
「そんなに怖い顔をしないでおくれよ、ガベル」
アラスターは哀れっぽく眉を寄せ、肩を縮めた。それから節くれだった指で口の両端を持ち上げて見せる。「ほら、笑って!」
だがガベルは冷えた鉄のような目を変えなかった。答え以外は耳に入らないというその形相に対し、アラスターは悪戯が露見した子供のように口を尖らせた。
「これはいい毛布だが、しかしもう古いだろう。だからライラに新しいブランケットをプレゼントしただけさ、なんなら写真でも撮って送らせようか?」
「私以外がどうやって病院の受付を通過できると言うんだ」
ガベルは低い声で突いた。「ライラの家族は私だけだ。部外者が彼女の病室に入ったからには、それは正規の手続きではあり得ない」
「あんな雌犬の何がいいんだか——おっと! 失礼」
「アラスター、」
見兼ねてライラックが口を挟んだ。「ライラはいい女だ」
「君の好敵手だものな、ライラック。全くおめでたい話だよ」
「俺はいい男だし、ライラはいい女だ。それを両方手に入れるのがフレデリクの息子。どこに文句をつける余地がある? 自分がもうモテないからって僻むな」
そこまで言ってライラックは突然顔を顰めた。床へ投げ出していた方の足を思い切りジンに踏まれたからだ。そのジンは歪に割れたカップで器用に紅茶を飲んでいる。
「ともかく、俺が言いたいのは落ち着けってことだ。ガベル、お前に言ってるんだぞ。ライラは無事だ」
「何を根拠にそれを信じればいい?」
「俺がそう言ってる」ライラックは平然と切り返した。「これで納得できないなら、諦めろ。ライラにもう一度会うことも、無事にこの部屋を出ていくことも、何もかも」
ライラックは両手の指を広げ、それを一つ一つ組み合わせて、そうして最後に手の甲へ顎を乗せた。
首を傾げて微笑みかける。ライラックがそうすると、まるで糸で繋がれたようにガベルもかすかに首を傾げた。すると、ゴキッと凝った骨がほぐれる音がライラックの耳にまで聞こえた。ライラックは肯定するように一段と深く笑った。
「アラスター」
次に口を開いたのはジンだった。「お前が選んだ後継者に対して、お前と彼にしか聞かせられない話もあるだろう」
言いながら既にジンは立ち上がっていた。音もなく二メートル近い長身が聳え立つ様は圧巻だ。動作が静かすぎて、長く白い髪が擦れる音の方がよほど聞こえた。
「時間を置いて、また来る」
「やったなガベル、空気が美味くなる……」
ライラックの冗談は最後まで言えなかった。ジンがライラックの襟首を掴んで引き上げたからだ。
「お前も来い。これ以上アラスターの邪魔をするな」
「俺がいつ邪魔したって?」
「そんなに乳繰り合いたいなら外で雌牛とでも戯れていろ」
「なあ、どうすればお前みたいにそう次から次へ下品な冗談を言えるようになるんだ?」
さり気なく踏みとどまろうとするライラックの努力を嘲笑うように、ジンは一瞥もくれず部屋を出た。
合図もなしに外からドアマンによって開かれた扉が二人を通し、再び閉まる瞬間。
ライラックはにこやかに手を振るアラスターと、顎を引いてこちらを見やるガベルを見た。その濃いブラウンの瞳を。
「ぞくぞくするよな、あのフレデリクの目で見られると」
「ハッ」
「鼻で笑うなよ」
ドアが閉じるなり、ジンはライラックの襟から手を離した。そのまま一直線に地上へ続く階段へ折れる。ライラックもそれをのんびりと追いかけた。
外は秋晴れの晴天だった。空の天井が高く、色が淡い。あと数時間もすればすっかり暗くなってしまうが。
外へ出て終えば、まるで長い映画を一本見終わってシネマの外へ出た時のようだ。ほんの数分前までに五感を支配していた光景の全てと今見ているものの現実性がしっちゃかめっちゃかになる。
遠くの囲いで放逐されている牛が鈍く鳴いた。どうやらこちらが現実のようだ。
出歩いているものの姿はない。はしゃいで回る子供の一人もいない。色褪せた撮り損ねの風景写真のようなすべてが、ロスロンドの分厚い皮であり、確かに現実の一面だ。
ジンは背後で「閉館中」の立て札と鎖を下ろしている元裁判所を離れ、大股で一直線に歩いて行った。
行先は聞くまでもない、水辺だろう。このシルヴェストス人はとにかく水が好きなのだ。しかも凍りつきそうなほど冷たい水が。
「ライラック」
案の定、ジンがたどり着いたのははずれの小川だった。ポツポツとある民家すら遠い、枯れた原っぱを下った先にあるなんの変哲もない川。過去の氾濫から、川縁が工事され一メートルほど高くなっている。
「なんだ? 泳ぎたいなら残念、水着は持ってきてない」
「お前、あの男をアラスターに渡す気などないだろう」
「——んん?」
ライラックは誰が見ているでもないのに首を大きく傾げた。
ジンは川縁に立っていた。ライラックより数メートル前。ライラックには背を向けて。
それでもライラックは自然に微笑みを浮かべていた。サングラス越しに透ける両眼さえなだらかな山なりを描いている。
「おいおい、マジか」ライラックは九十度傾いた顎に手を当てた。「俺があんまりガベルがいい男だって言い過ぎて、アラスターまで惚れたか……まずいな、ライバルが増えた」
ジンは黙っていた。
真っ直ぐに伸びた背中に流れる銀色の髪がかすかな風になびく。
ジンは川縁に立っている。
あと数ミリでも前に進めば、彼は川に落ちるだろう。
そして目の前の川は、存外深い。
「やめておけ」
そっとジンが言った。振り向きもせず、優しい声で。
「仮に私の手足を鎖で縛りこの川に沈めたところで、お前が疲れるだけだ」
「俺はただお前の見飽きたコーディネートに、今日も今日とて見飽きていただけさ」
「アラスターはあの男を手放しはしない」
「俺を裏切り者に仕立てるのはやめてくれよ、ジン。俺たちもう随分長く組んできただろ、それともお前にとって俺は遊びだったのか?」
「遊びですらない。私にとっては全てが、ただの前座だ」
「時々お前が心配になるよ。趣味もなし、飯は気が向いた時に食う。シャワーは冷水。持ってる服は全部同じときた。何かこう、植物でも育ててみたらいいんじゃないか、サボテンとか」
「ライラック」
やはりジンは優しい声で言った。
次の冗談がライラックの喉につまる。ライラックは反射的に笑顔を作ろうとして、しかし失敗した。
ジンはかすかに顎を引き、顔を左の方へ向けたが、振り向かなかった。
「止めておけ」
ライラックは頬の肉が痙攣するのを感じた。一度、二度と震えるのを抑えられなかった。
この数日ろくに寝ていない。ライラックと組んで行動し、そして監視しているジンはそれを知らないはずもない。
「アラスターに挑むな。ライラック、お前が疲れるだけだ」
「お前とタイマンはるのは、疲れる程度で済むのか?」
その声の調子を聞き、ジンはようやく振り向いた。上着のポケットに両手を差し込み、全く無防備に川縁に立っている。だがジンを川へ突き落とそうと考えた時、ライラックにはなんの策も思いつかなかった。
きっとそのあたりの牛を突進させたところで、吹き飛ばされるのは牛の方だろう。
「アラスターの邪魔をするというのであれば、私もお前の邪魔をしなければならない」
彼は時間を無駄にするべきではない、とジンはいつぞやと同じことをまた言った。
「彼は私と契約している。今の仕事が終わり次第、それに取り掛かるという約束だ。だから私としても、お前が彼を妨げ、彼の仕事の完了がこれ以上延びることは看過できない」
「アラスターと南国にでも行くのか? 今はオフシーズンだろ、もう少しゆっくりしていけよ」
冗談めかしてはみたが、ライラックにとっても初めて聞く話だった。元々ジンはある日アラスターがどこからともなく連れてきたのだ。フレデリクが失踪し、代替わりがご破産となったアラスターはまだロスロンドの主席であり、つまりオージアの重要人物だ。
国内の警備会社、あるいは国家警察からのそれとない申し出を全て断り、アラスターはジン一人にそれを任せている。護衛だ用心棒だと言いながら、常にそばへ控えさせるでもなく。
そしてジンもアラスターには従順だった。それもおそらく心から納得して、彼の意思で。
やろうと思えばジンはアラスターを——彼に連なる関係者の全員ですら、どうとでもできるだろうに、ジンはそうしない。ただ黙々とアラスターに伸びる悪意を退け、面倒ごとが起きた瞬間に収めている。主にその長い足で。
それだけの見返りがあるのだろうとは薄々察してはいたが、金銭や身柄の保証でもなく、ただ依頼をしていたとは。
「私の旧友が極東で窮地に陥っている。いや、正しく言えば、自ら窮地へ向かって進んでいる」
ジンは淡々と告げた。
「複雑な事情で、真っ当な解決は無理だと悟った。よって、アラスターに依頼した」
「あー、したり顔のところ申し訳ないが、いいかな」ライラックは気の毒そうに咳払いをした。「なんでそこでアラスターになる? アラスターは確かに悪魔みたいに万能だが、その万能には致命的な欠陥があるってわかるだろ? あの悪魔の万能ってのは……」
「——問題の全てに火をつけて、全て燃やして更地にする、か?」
「ま、最近は煙草も控えているようだからライターも持ち歩いちゃいないだろうが」
「彼が火をつけようと思えば、そこに道具は必要ない。そしてそんな彼だからこそ、私は旧友の件を託そうと思った」
「分かりたくないが、お友達の状況はなんとなく分かった。だがそうなると今度は別の疑問があるな、そういう類の問題で、そういう方法で構わないなら、尚更お前がやればいい」
ライラックの言葉に、ジンは目を伏せた。切長の瞳が瞼に覆われると、存外その顔立ちは柔和だった。
アラスターによって“ジン・ウェンスタッド“という戸籍を与えられた男が、ジンという役を表向き物腰の柔らかい性格にしたことは、実はライラックが思うほど不思議なことではなかったのかもしれない。
「“もう二度と、俺と、俺の愛する家族の前に現れるな“と、言われてしまったからな」
「——わお」
言われた言葉も辛辣だが、何よりも驚くべきは、このジンという断崖絶壁のような男に面と向かってそんなことを吐ける人間が世界に存在したことだ。
その一言で、この強靭な男を傷つけることができる、そんな人間もいたらしい。
「世界は広いな」
思うだけで済ませようと思ったが、つい口に出ていた。珍しいものを見て、珍しい話を聞いたせいか、ライラックも気が抜けていた。
「ジン、お前にも友達がいたんだな。今夜はぐっすり眠れそうだ」
「もはや友人の称号は剥奪されているが」
「結局、誰も彼も過去の美しき思い出のために、それか、悲惨な過去を美化するために生きているのさ。時間も世界も、馬鹿みたいに未来にしか進まないからな」
「お前とは旧友の次に長い付き合いになるが、今日はじめて正しいことを言ったな」
「価値観の違いだ」
ジンは長い間閉じていた瞼をゆっくりと開いた。
そしてライラックが銃だの刃物だの持っていないことを目にして、少し意外そうな顔をした。
「ライラック、三度目は言わん」
「ああ」
「お前の価値観とやらに従うといい。それが私の都合に反するなら、その時は私も動く」
「昨日の友と今日の友、どっちが大切なんだよ?」
「美しき思い出のために生きているのだろう、誰もが」
ジンは再び川を振り返り、かすかな水音を立てて流れる水面に自分の顔を映した。
「時間が思い出から私を引き離したが……結局、私にとって思い出より美しいものなど、無かったな」
続けて、水面に映るジンの口元が何か言った。
それはおそらく誰かの名前だったのだろう。そう長くない、短い名前だ。一呼吸でいい終わり、音は二つ。
それをただ、ライラックは黙って見送った。他でもない友人の隣に立って。これまでにジンがたびたびライラックにしてくれていたように、黙ってそこにいた。
もう間も無く、この友人とお別れかと思えば、相応しい冗談など思いつかなかったのだ。
結局ライラックもまた、今日の友人よりも、昨日の友人の方をより強く愛しているのだから。
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