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ライラックとガベル 第二話

 ライラック・ゼアロがロックウィル法律事務所へ事務員として中途採用された時、ガベル・ソーンの経歴は既に輝かしいものだった。
 法科大学院を卒業してまだ二年と経っていなかったが、新入りに回されるような矮小な依頼や相談にも一つ一つ的確な解答を与え、極めつけには急な代理で立たされることになった裁判の場でガベルは先輩弁護士の用意していた台本を逸脱し、そして台本に描かれていた結末以上の成功をおさめた。
 依頼者の噂と評判は芋づる式に新たな依頼者を呼び寄せ、ガベルはあっという間に界隈でひと角の人物になっていた。
 だが外部からの評判が急に上がりすぎたせいで、事務所内では軋轢が生じていた。
 ガベルに自分の台本を手直しされた弁護士は勿論、結局客商売であるから、来る人来る人がガベル・ソーンについて尋ねてくるのは、いかに自らの経歴に誇りを持っている先達でも面白いものではない。挙げ句の果てには、別の弁護士に依頼していた依頼者が担当をガベルに変えて欲しい、などと好奇心か本心か、そんなことを言い出す始末だった。
 しかも当のガベルはスケジュールさえ合えば依頼を受け、どんどんこなしてしまう——そのように働くべしと指導したのは他の誰でもない事務所なのだが。
 そんな時期に採用されたものだから、ライラックはほぼガベル専属の事務員だった。他の事務員が業務ごとに担当を持っているのと違い、ライラックは基本的にガベルが担当する案件に関連する事務業務全てを担当した。
 とはいえそれが問題だったかと言われれば何も問題はなかった。まず第一に、他の事務員らが頭を悩ませるような雑事——例えば所属弁護士の年齢や経歴、今朝の機嫌を考慮して昼食を手配したり、案件を振り分けたり、頼まれ仕事の優先順位をつけたりすること——それが一切発生しなかったからだ。
 ガベルはライラックの労働契約書の内容を把握していたし、そこに記載されていないことは頼まなかった。昼食の手配も、コーヒーの用意も、デスクの掃除も、髪型を変えた時のお世辞も——そもそもガベルは仕事中いつも髪を固めていたのでお世辞を言う機会は皆無だ。
 とはいえその代わり、ガベルが勤勉なせいでライラックは八時間の勤務時間においてデスクに肘をついてぼんやりする時間が五分と存在しなかった。
 “勤務時間中は職務に専従し精励すること“。これも労働契約書に書かれていることだ。
 二人の間には書面で証明された義務と権利だけがあった——ライラックがガベル・ソーンの秘書のように働いて二年目の冬の日まで。
「ライラ……」
 雪が降り頻る午後。ライラックは二時間遅れの昼食を事務所近くで調達してきた帰りだった。駅前の目抜通りに面した十三階建てビルの九階までいつものようにエレベータで戻り、秘書という特別待遇のためにわざわざ用意されたガベル・ソーンの執務室隣の事務室へ入る。
 そこでふと、スモークガラス越しに見えた隣室から自分の名前が聞こえたような気がした。
 室内の暖房で溶け出した雪に濡れる上着もそのままに、買ってきたパンとスープの入った紙袋をデスクに置くなりライラックはスモークガラスの扉をノックした。
「先生」
 返事はなかった。執務室の扉に鍵はついていない。今の時間は来客は勿論、会議や電話のアポイントも入っていないはずだった。
「ライラ、」
 結論から言えば、ライラックは扉を押し開けた。
 さらにもう一つ結論から言えば、事態はライラックのあらゆる予想と外れた。室内には急な発作を起こして倒れているガベルもいなければ、ガベルに刃物を突き刺しているような謎の刺客もいなかった。
 いたのは、執務室の重厚なデスクに浅く腰掛けて携帯電話を耳に当てているガベルだった。前触れもなく入ってきたライラックに驚いた顔をしてはいたが、身につけている三揃いのスーツから固めたブラウンの髪、黒い革靴の爪先まで完璧だった。
「ちょっと待って——」ガベルは取り急ぎ電話先へそう言って傾げていた首を戻した。「ゼアロ事務員、何か?」
「——失礼、名前を呼ばれたような気が……いや、なんでもありません」
「名前?」
「聞き間違えだ。大変失礼」
 ライラックはまだドアノブを握っていた。踏み込んだ一歩を引き戻して退室するのに一秒とかからなかった。
 ただ退室の間際、再び通話に戻るガベルの顰められた眉間が妙に気がかりだった。これまでどんな気難しいクライアントにも法廷においても表情にひびの一つも入れなかったガベルがあからさまにあんな顔をするとは。また忙しくなるのかもしれない、などと考えていた。
 そしてその日はじめて、ライラックは休憩時間中にガベルから話しかけられた。
「ゼアロ事務員、休憩中にすみません」
 ガベルは既にコートを着ていた。だが鞄は持っておらず、右手には車のキーがあった。「少し外へ出てきます。一時間ほどで戻る予定ですが、その間に何か私宛の連絡があれば折り返すと伝えてください」
「何か手続きなら午後の外回りの際にこちらで済ませますが」
「いえ、私用なので」
「……手助けは必要?」
「いいえ」
 一時間の昼休憩はあと十五分で終わろうとしていた。ライラックはいつもその十五分を精神統一に費やしていた。
 ライラックは自分の背後に広がるビルの窓からひしひしと外の冷気を感じていた。雪は弱まる気配がない。天気予報ではこの一週間は降り続くという。
「わかりました」と、ライラックは言った。「運転には気をつけて」
「ええ、では」
「ソーン先生」
 踵を返して事務室を出ようとしたガベルをライラックが呼び止めた。ガベルは靴底を鳴らして立ち止まり、不可解そうに首だけで振り返った。
 その仕草でブラウンの髪がひとふさ額へ下りた。
 自分のデスクから立ち上がったライラックはガベルの額を指差した。
「髪が乱れています」
 ライラックは言った。「それと歩調が速い。ドアの外へ出てエレベータに乗るまでは平静を保つよう努めてください。でなければ面倒なことになります」
 事務所のあるフロアにおいて個室は基本的に弁護士とクライアントのものであり、事務員はライラックを除いて壁の無いエリアに机を並べている。
 ドアの向こうにはまさしくその事務員たちの机の群れがある。今は昼休憩で離席しているものもいるだろうが、その横をガベル・ソーンが髪をほんの少し乱して出掛けていくだけで、彼らはガベルの外出の理由をあれこれ十個は考えずにはいられないだろうし、その答え合わせを監督する羽目になるのはライラックだ。
「……失礼」
「手助けは不要ですか?」
 手のひらで髪を撫で付けるガベルにライラックはもう一度尋ねた。
 ライラックは自分を見つめ返す濃い色の目に懐疑的なものを感じ取った。二年間ほぼ毎日顔を合わせ一日の三分の一を半径十メートル以内で過ごしてきてはいたが、それはガベルにとってライラックが労働契約書を理解できる程度の事務員であること以外の何をも証明しないようだ。ライラックにとっても、ガベルが昼休憩をどのように過ごしているかさえ知らない。
 二年かけてそれなのだ。いずれ行動を起こさねばならないとライラックは常々考えていた。このタイミングを逃せば、次の機会が来るのが先か、それとも次回オリンピックの開催が先になるかわかったものではない。
「NDA(秘密保持契約)が必要であれば書面はこちらに」
 ライラックがデスクの引き出しから焼き増しされた書面を取り出す。相談に来たクライアント全員が署名するそれを旗のように振る。
 ガベルは書面を見つめて数秒、短く息を吐いた。
 そして二年間において初めて、ガベル・ソーンは苦笑の表情を見せた。
「手助けをお願いしても?」
「勿論」
「では上着を着てください。飲みかけのコーヒーがあればそれも持って。私の車で行きます、ついでに午後の手続きも帰りに済ませましょう」
 やっと雪解けの水滴が乾いた上着にもう一度袖を通し、ライラックは鞄とコーヒーカップを手に持った。
 ガベルは事務所で借り上げている地下駐車場とは別の場所にわざわざ駐車場を借りていた。車を買い替えたり出勤の際に同僚に出くわすたび発生する面倒ごとを回避するために月額料金を払っていると思えば妥当だというのが彼の考えだった。実際彼のランドクルーザーは事務所内で最年少の弁護士が持つ車としてはやっかみを受けただろう。
「ライラ——私の家族が、以前から体調を崩していました」
 車はガベルのマンションへ向かった。道中、ガベルは運転しながら説明した。
「自宅療養ということで通院しながら様子を見ていたのですが、先ほど日中家事を委託しているハウスキーパーから連絡があり、病院へ連れて行った方がいいのではないか、と」
「救急車は?」
「そういった段階ではありません」
 妙なことを言うのだな、とライラックは素直にそう思った。こうして仕事を抜け出してまでいると言うのに、救急車を呼ぶには躊躇うとは。
 そうしているうちに車はマンションに到着し、ガベルはライラックを連れて九階の我が家へ入った。
 広い庭付きのバルコニーとサンルームを備えた一室に感動するより先にほとんど錯乱状態のハウスキーパーが現れた。彼女の身につけているエプロンはベージュの液体で汚れており、手にはティッシュで一杯になったビニル袋を二つ持っていた。
 ガベルは彼女を帰宅させると、落ち着いた様子でリビング奥の寝室へ向かった。
 そして、そこにライラはいた。
 その小柄さからすれば大きすぎるベッドに横たわった彼女は興奮冷めやらない様子で目を見開き、息を乱していた。カーペットは部屋の隅に片付けられ、部屋の中には奇妙な匂いが充満していた。
「ライラ」
 驚くほど優しい声でガベルが彼女に呼びかけた。
 ライラックは取り急ぎ寝室の窓を雪が入らない程度に押し開けた。空調であたためられた空気を思えば気が引けたが、今は身を切るような冷たい空気の方が心地よい。
「調子はどう?」
 ガベルは枕元に浅く腰掛け、身を屈めてライラの額を撫でた。ライラの目はキョロキョロと忙しなく回転し、目の前にガベルにすら気づいているのかいないのか定かでないと言うのに、ガベルは一瞬でもその視線が自分にぶつかれば満足そうに微笑んだ。
 ライラックは窓際に立って、そんな二人の様子を眺めていた。救急車を呼ばない理由も、ガベルが初め手助けを拒んだ理由も理解できた。
 寝室にはベッドが二つあった。ライラが寝かされているのと、もう一つはガベルのそれだろう。並び合うようにしてあるもう一つのベッドはシワひとつなくベッドメイクされている。枕元には黒いブックカバーがされた文庫本とメガネが置かれている。
 ガベルはそれから20分ほど甲斐甲斐しくライラに水を飲ませたり様子を見たりしていたが、ライラの様子は変わらなかった。流石に落ち着いて来てはいたが、不意に起きあがろうとしてはギクシャクと寝転がったりして、彼女自身、自分が今どのような状態なのか理解できずに混乱しているようだった。
「病院へ連れて行ったほうがよさそうだ」
 敬語が外れていることに言ったガベルもライラックも気づかなかった。「ん」ライラックは充分に入れ替わった空気を確認して窓を閉めた。「保険証は?」
「ある」
「俺が運転しようか?」
「そうしてもらえると助かる」
「水と毛布を持って……このカーペットはクリーニングへ?」
「クリーニングはマンションで契約しているリネン会社がある、持つのは水と毛布だけで構わない」
 そこからは迅速だった。病院に連絡し、予約を取って向かう。ガベルは清潔なシーツと毛布をドレスのようにライラへ着せて、そのまま彼女を横抱きにして車まで乗り込んだ。後部座席のドアを開けてやりながら、ライラックは乗り込む二人が純白の衣装なら向かうのは結婚式場であっただろうな、などと考えた。
 病院はマンションから車で十分ほどの距離にあった。他の通院者のいる待合室とは別の関係者入り口から通され、待ち構えていたスタッフたちがあっという間に花婿の腕から花嫁を奪ってしまった。
 医者の助言で、ライラは大事をとって一晩入院することとなった。
 帰りの車中はそれはそれは沈痛なものだった。そのうえ雪のせいであちこちスリップや渋滞が発生し、車の進みはひどく悪かった。
 裁判所と役所へ書類を届け、代わりに幾つかの書類を受け取ってライラックが道路へ戻った時、ガベルの車はワンブロックも進んでいなかった。ほとんど停車している車の列の間をすり抜けて助手席へ乗り込む。
「これが行きじゃなくて良かった」
 クラフト紙の封筒に収められた書類を後部座席へやり、ライラックはもう一度半開きにした助手席から靴底についた雪を落とした。
「不幸中の幸いです」ガベルは動かない車の列から視線を横へ動かした。敬語が戻っていた…溶けかけた氷が再び凍りつくように…「そしてあなたにとっては不幸でしかないというのに——ゼアロ事務員、ありがとうございます」
「先生の円滑な業務遂行の補助は事務員の職務です、お気遣いなく」
「あれこれ説明を求められると思っていました。私の車種や住んでいる賃貸、それからライラのことも」
「それらを聞いたところでこの渋滞が解消されるわけでも、この馬鹿の一つ覚えみたいな雪が止むわけでもない」
 ガベルはもう一度前方を見やり、そしてついにギアをパーキングへ入れた。ハンドブレーキを上げ、踏みっぱなしにしていたブレーキから足を離す。
 リクライニングに深くもたれ、天井を仰いでため息をついた。スーツの襟元から露出した喉仏がゆっくりと上下した。
 時刻はまだ午後三時前だが、雪のせいで辺りは薄暗く、そして立ち並ぶテールライトの毒々しいまでの赤色がネオンのようにガベルの首筋を照らしていた。
「聞き間違えた、と仰いましたね」
 首を逸らしたままガベルが言った。顔だけ傾けてライラックを見る。優しげな目つきだった。「私のデスクへ乗り込んできた時。いつもニヒルな貴方が眉を顰めて、厳しい顔をしていたので驚いた」
「深刻そうな声に聞こえたもので——これは雑談ですか? 敬語は必要?」
「必要ない」
 ガベルが犬のように首を振った。雪に濡れた髪が乱れ、ぱらぱらとこめかみを叩く音が助手席のライラックにも聞き取れた。「ゼアロ事務員、ゼアロ……ああ、そういえば貴方のファーストネームはライラックだ。そうか、それで」
「今思えば、先生が俺のことをファーストネームで呼ぶはずがないのにな」
「そんなことは」
「ない? 俺のことをゼアロ事務員だなんてご丁寧に呼ぶのは先生ぐらいだ。他の弁護士先生はそもそも俺に用はないし、呼んだとしてまるで親戚のように皆ライラックと呼ぶ」
「だから私はゼアロ事務員と呼ぶようにしていた」ガベルは閉じた窓枠に肘を置いた。「初めて会った時から、この人は公私混同するタイプじゃないと思って。どうかな」
「半分正解で半分不正解だ」
「その言葉。大学に通っていた時にある教授がよく言っていた。しかしよくよく聞いてみれば、それは教授が正解を認めたくない時の常套句だった」
「俺はその教授より若いし、何より素直だ。そのうえ一端の事務員には必死に守るようなプライドはない」
「じゃあ、どの点が正解なんだ?」
「公私混同するタイプじゃない、という点」
 マナーに詳しくはないし厳しいつもりもないが、初対面でファーストネームを呼ばれるのは御免だ。
 親しみと信頼関係の結果としてコミュニケーションが馴れ馴れしくなるのは妥当だ。だが何故か根拠と結果をひっくり返すことが好きな人たちは、馴れ馴れしくすれば親しくなれると考える。
 まるで遠い親戚のように、向こうばかりが勝手知ったるという顔でライラックと呼びかけてくる見知らぬ男女に対し、ライラックはやはり軽蔑の念を抱かずにはいられない。
 ——とはいえ、彼らがそういった独自のルールを持って根拠と結論をひっくり返すように、ライラックもまた独自のルールを持っている。
「俺は確かに初対面で馴れ馴れしい相手は嫌いだ。だが公私混同を厳密に取り締まっているかと言われればそうとも言えない」
「ふむ、それで?」
「つまり俺は先生が初対面で俺を“ゼアロ事務員“と呼んだ時から、先生が困っていればそれがプライベートなことだろうと手助けしてもいいと思っていたんだ」
「……それだけのことで?」
「たったそれだけが、大事なことさ」
 ライラックは肩をすくめた。「大事なことだから誰もが忘れてる。どの国のどの年代の人間も一度はわけ知り顔で歌うだろ、大事なものは失ってから気づくって。まだ乳歯の一本も失ってない子供だって歌ってる」
「ゼアロ事務員」
「うん?」
「お褒めいただいたばかりで大変恐縮だが……」
「うん」
「今後は貴方をライラックと呼んでも?」
 貴方の嫌いな馴れ馴れしい親戚のように。ガベルの流暢な台詞にライラックはサングラスの奥で目を細くした。口元を引き結ぶが、かえって右端が吊り上がる。
「勤務時間外であれば、勿論喜んで」
 前方の方から微かにクラクションが聞こえた。凝り固まっていたテールライトの列がノロノロと動き始める。
 道端の自販機で缶コーヒーを買い込んでいた運転手が小走りに窓の外を通り過ぎて、後ろの車に乗った。
 後ろの車がクラクションを短く鳴らした。ガベルは何故か無実を訴えるように両手を浮かせてから、その手でハンドルを握った。
 ガベルが気づいていない様子だったので、ライラックは黙って横からハンドブレーキを外してやった。幸いアクセルを踏む前にハンドブレーキは解除され、車はゆっくりと進み出した。

次:ライラックとガベル 第三話


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