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ライラックとガベル 第三話

 ライラックは正午から午後一時までの休憩時間のうち、最後の15分を精神統一に費やしている。プロのアスリートが必要とする必勝のルーティーンさながら、ライラックは必ず一日に一度、一日の真ん中にこの15分を設ける。
 しかしライラック・ゼアロはアスリートでもなければプロでも無い。そして物事には常に例外がある。
 この日のライラックは12時45分になっても両目を開けていた。数ヶ月もの間無人のまま放置されているガベルの執務室と隣接した専用の事務室で、質素なデスクに深く座り、左腕で頬杖をつき、右手には最新機種の携帯がある。
 携帯の画面にはメールの文面と添付画像が映っている。送信元はガベル・ソーンであり、題名は「体調良好」。
 ——ライラック、先日はどうもありがとう。
 ——君の言った通りだった。神は他人が落ち込んでいる様子を楽しむような趣味をお持ちではないらしい。
 ——ついさっき、ライラが帰ってきた。俺の車に乗って、後部座席でうたた寝をしながら。容態は落ち着いていて、いくつか食事や生活について新しいアドバイスも——俺に対しても——貰った。
 ——君にお礼がしたい。足を運んでもらってばかりですまないが、是非また来てくれ。
 ——追伸 次こそは君を家まで送らせてもらう。
 本文の後、一枚の写真データが添付されている。携帯のインカメラで撮ったのであろうガベルとライラの写真だ。淡いグレーのシーツに豊かなブラウンが波打ち、横向きに眠っているライラとその枕元に頭を預けたガベルの髪は毛先が絡み合うほど近い。
 撮影の寸前まではカメラへ送られていただろうガベルの視線はライラへ向けられていた。器用に撮るものだ、とライラックは感心した。あの寝室の大きな窓から写真の二人へ差し込む光の輝かしいことと言えば、事務室のブラインドで千切りにされライラックの足元に転がっているそれと同じ太陽のものとは思えない。
「素晴らしいな」
 その時、ノックもなく事務室の扉が開いた。だがそのことはライラックを驚かせなかった。
「……ええ、どうもありがとうございます」
 まるで綿雪が肌に落ちたような一瞬の冷たさはたちどころに人肌に溶けて染み込む。ジン・ウェンスタッドの声はそういった類のものだ。二メートル近い身長すら嘘のように儚げな発音で感謝を述べられ、ジンの手に焼き菓子をいくつか握らせた事務員は小走りに事務フロアへ戻っていった。おそらくはジンの手に触れて火傷した手を冷ましにいくのだろう。
「ウェンスタッド先生、打ち合わせお疲れ様でした」
「はい」ジンが左目を細くした。「只今戻りました」
 ジン・ウェンスタッドという人間を目の当たりにするたび、片目を隠すほど長い前髪が似合う人間が三次元にいるのだとつくづく驚かされる。
 背中につくほど長い髪は白に近い金髪は、しかしレースのカーテンのように軽やかで涼やかだ。彼の仕事着でもあるスーツが3Dプリンターで生成したようにどれも全く同じ色とデザインであることに気が付かないほど。
 ジンが軽い音を立ててライラックの目の前に小さな包みを置いた。
「先ほどリペロさんから焼き菓子を頂きました」
「それは大変結構ですね、しかし何故その砂糖と牛乳の粘土を私のデスクに置くんです?」
「陸の人はこういった味付けが好きなのでは?」
 クラフト紙に覗き窓のついた新聞風の包装、ラフなマスキングテープで閉じられているが、包まれたマフィンは手作りなのか売り物なのか一見しては判別できない。だがジンが貰ってきたという時点で八割手作りだ。
「減量中でなければ是非とも頂いたんですが」
「減量中なのですか?」
 ジンが背広を脱いで壁際のラックへかけた。隣にはライラックの上着が掛かっている。
「近々デートの予定があるので」
「そうですか……」
「そもそも、リペロ事務員がウェンスタッド先生を前にして、この世に先生以外の人間が生きていることを覚えていられるとは考えづらい。現にこの部屋には男が二人。しかしマフィンは一つ。これは先生が食べるべきものです」
「そうですか?」
「こればかりはそうです」
「ではそうします」
 ジンはマフィンをデスクへ置いたときとほぼ同じほどの機械的な手つきで持ち上げ、そして外で調達してきた大量の氷と共に衝立で仕切られた小さな給湯スペースへ消えた。
 そして衝立の向こうから再びジンが現れた時、その手には完全に凍りついたドーナツ(この事務所長が気に入って毎週買い込んでは配る)が二つと氷がぎっしり詰まったコーヒーボトルがあった。
 そしてジンは自分のデスク——それはこの事務室内に、ライラックのデスクから見て右手の位置に置かれている——に座り、凍った輪っかを静かに齧り始める。
 元々ライラックが一人で使っていた事務室ではあるが、以前からクライアントの受付や簡単な打ち合わせを行うスペースも設けられていたために、それらを省略すればもう一つデスクを増やすことはそう難しくはなかった。
 だが当然もっとシンプルな方法もある。無人となったガベルの執務室をジンが譲り受けることだ。しかしこれは「自分がその部屋を使うなど畏れ多い」というジンの言葉を間に受けた所長と、ようやく真っ当に可愛げのある後輩を得た先達らによって無視された。
 結果、ライラックはわざわざ自分のデスクを壁際へ寄せ、昼の精神統一の時間にはイヤホンを使わねばならなくなった。
「今日は眠らないのですね」
 一つ目の冷凍ドーナツを食べ終えて、こちらを見ずにジンが言った。「いつもこの時間は昼寝をしているのに」
「考えたいことが山ほどあるんです」
「デートの行先」
「幸い行き先は決定しています。これで行き先まで未定だったら、今夜から眠る時間も無い」
「また——ガベル・ソーンの自宅へ?」
「そう、また」ライラックは大袈裟に口を開閉して繰り返した。「高いレストランも映画館も目じゃない。彼の信頼は十分に勝ち取っている」
「あまり信頼に固執しすぎると、信頼の他にはどこへも行けなくなる」
「何か言ったか?」
 ライラックが顎を引き、サングラス越しでなく直にジンを一瞥する。ジンは首を振って二つ目の冷凍ドーナツを口に入れた。それから全体に占める割合が八割がた氷のアイスコーヒーを飲む。季節はまだ夏前だったが、日差しは既に強い。背後の窓に降ろしたブラインドから差しこむ光の熱にさえ時折不快そうに眉を顰めている。
「リペロ事務員が何か言ってなかったか? この辺りで新しく出来た店とか、最近流行ってるもの、なんでも」
「さあ」
「病人のいる家に酒を持って行くのも気が引けるし、かといって彼女に合わせると今度はガベルに使い出が無くなる。食うか使うかで長く形が残らないものがいいと思うんだが」
「肉」
「デートで生肉にリボン巻いて持っていけって? それで喜ぶのはお前……」
 言って、ふとライラックは探偵の如く考え込んだ。「いや、肉はアリか? 精がつくし、食ってしまえば場所も取らない……」
 ぶつぶつと呟く男が答えを出すより先に昼休憩の終了を告げるべくして事務所内に軽やかなBGMが流れ出した。ジンはドーナツの包装紙を丸めて圧縮すると、それを衝立の向こうへ放った。
 包装紙は急カーブの放物線を描いて衝立を越え、音からして正確に壁向かいのダストボックスに落ちたようだ。
 そうしてジンはアイスコーヒーの残りを一息に飲み干すと、人とは思えないほど冷え切った息を吐いた。

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 それからいくつか眠れない夜を過ごし、ガベルの自宅を訪ねる前日まで悩んだが、結局ライラックはライラの快癒祝いも兼ねて小ぶりな花束を一つ携えていくことにした。
 ガベルがまだ事務所勤務の弁護士であった頃から退所後も、ライラのこともあって二人が会うとすればガベルのマンションであり、そして時刻は仕事終わりの日暮れだった。それ以外の時間に訪れる時は、会うというより通りがかるというようなごく短い、本当に顔を見るだけのそれだった。
 ゆえに土曜日のまだ陽の出ている昼下がりに約束を取り付けられたのは初めてのことだ。
 太陽が照っているというだけで、もう両手足を使っても数えきれないほど通ったマンションへの道が全く知らない道のように感じられる。昼頃に一瞬降った通り雨がアスファルトのかすかな凹凸に溜まり、水明かりを投げかけてくる。
 雨は空気中の塵すら根こそぎ洗い落としたようで息がしやすい。歩道の端に埋め込まれた背の低いブロック状の苗木が雨粒を吊り下げ、ライラックがそばを通り過ぎると雫は一斉に落ちて弾けた。
 数十年前まではほんの些細な雨が降るだけでもオージアの道路はあちこちに底なし沼が出来たものだ。それがこの数十年で急速に進んだ再開発はセピア色に煤けた映画のような街並みを現代までアップデートさせた。少なくとも入れ物については。
 もはやいくら雨が降っても、この街で土の匂いを嗅ぎ取ることはない。いかにも環境保護に熱心だと言わんばかりに作られた公園でさえ、その面積の大半はアスファルトとコンクリート、そして子供の服に染みつかない人工砂だ。これのおかげで下手なアミューズメントパークより公園の方が休日は賑わう。
 現にライラックがマンションのエントランスにたどり着くまで、少なくとも六人の子供と激突しかけた。こちらがどう避けようともまるでフレア弾のように散らばって迫ってくるのだから、非常に高度な肉体の操作技術が求められた。
「いらっしゃい」
 玄関の扉を押し開けた時点で、ガベルは笑顔だった。最後に会った時とは別人のようで、思わずライラックは「整形したのか?」と聞いた。「目が一回り大きくなった。それから、鼻筋がさらに良くなったように見えるな、先生」
「昼間に会っているからじゃないか?」
「それで説明できるのかね……ああ、忘れないうちに渡しておく、これは快癒祝いだ」
 玄関からリビングへの天井が高い廊下を歩きながら、ライラックは携えてきた花束を渡した。それはライラックにとってそうだったように、ガベルの片手にもあまりに容易く収まった。
「ありがとう」
 足を止めて花束を受け取り、ガベルは細身のそれをまじまじと覗き込んだ。「あまり花には詳しく無いんだが、これは——薔薇、ではないな。白い——カーネーション?」
「リシアンサスだよ」
 小ぶりな白い花はまだ開き切ったものはなく、蕾のままのものもあった。前者はカーネーションに似て花弁の端がフリルのように波打ち、蕾のものは開き切らない花弁が薔薇のように密集している。茎や萼の青さがその白い花弁の根元に透けて、全体が淡いペールグリーンのような華奢な花束だった。
「もっと賑やかな花が祝い事に相応しいかとも思ったんだが、あんまり仰々しいのも疲れるだろ」
「ああ」
 ガベルはまだ花を矯めつ眇めつ眺めている。リビングの扉は廊下の奥で開いているというのに、ライラックはまさかガベルを追い越すわけにもゆかず隣で立ち止まった。
「やっぱり薔薇の花束でも持って来た方が良かったか?」
「いや、俺はこっちの方が好きだ」
「それは何より」
「君がこんなに素晴らしい物をくれると知っていたら、今日のために花瓶を買っておくんだった」
「その言葉だけで十分さ。ところでその花が快癒祝だってことを忘れてないよな?」
 そうだった、とガベルははにかんでようやく踵を返した。ライラックはずれてもいないサングラスのブリッジを押し上げる。
 ライラの様子は、少なくともライラックにはどう変わったのかわからなかった。
 とはいえ彼女が三ヶ月前に狂ったように暴れ出し、それからひっきりなしに入退院を繰り返していた時分からすれば、こうして家のベッドに横たわり、汚れのない顔で穏やかな寝息を立てているのは良いことなのだろう。
「午前中は起きて歩き回っていたんだけどね」
 開けた寝室のドアにもたれてガベルが言った。「調子がよさそうだからベランダへ連れて出てみたんだ。彼女も自分で歩いたりして、水を飲んで、それから食事もよく食べた。だから疲れたんだろう」
「俺よりよっぽど健康的だ」
「どこか調子が?」
「慢性的な寝不足」
 寝室のドアをそっと閉めると、ガベルはキッチンに立った。整頓された広いシンクへ花束を丁寧にほどいて、水を注いだロックグラスに挿していく。
「相変わらず忙しそうだ」花の角度を弄りながらガベルが言った。「しかし私以上の業務を貴方に与えられる弁護士がいますか?」
「言ってくれるな。事実だけに耳が痛い」
「今は何を? 君は仕事が的確だし、渉外能力も高い。管理部門で職位を得ているべきだ」
「言ってなかったか?」ライラックはキッチンシンクを挟んでガベルの手つきを見守った。「お前の後釜を仰せつかった哀れな新入りの面倒を見てる」
「……まだ秘書のようなことを?」
「秘書というより、シッターだな。今更俺に経理だ発注だ、他の弁護士の学歴ランクやら珈琲の好みを教えるのが面倒なんだろ。もちろん、俺も面倒だ」
 はじめはジンが事務所に馴染むまでのことだろうと思っていたが、ジンはとっくに事務所に馴染んでいるし、その上でライラックに今年の業務担当表なるものが回覧されたことはない。そしてジンの担当案件を把握しているのは管理職を除いてライラックだけだ。
「面倒な新入りのシッターと、面倒な古典的事務員としての研修。それを秤に乗せて比べたら、1グラム差でシッターの方がマシだった。それだけの話だ」
 返事はなかった。相槌も。
 顔を顰めるなり、ライラックを特殊な就業環境に置くきっかけとなったことを詫びてくるなりなんなりされると思っていたが、ガベルは沈黙していた。
 見れば、科学者のような手つきで動いていた指先も止まっている。リシアンサスと、質感を足すために添えたミントの枝葉が濡れたその指に張りついている。
「ガベル?」
 ガベルの目は手元に注がれている。明るい日差しがキッチンシンクで複雑に反射して頬に当たっていた。
「ガベル」
 濃いブラウンの目ははっきりと焦点を持っている。ただ返事がないだけだ。
「先生」
「ん?」
「おはよう」
 どうやらガベルは別の世界にいたらしい。どうしてライラックが突然朝の挨拶を投げてよこしたのか不思議そうにしながらも「おはよう」と明朗な口ぶりで返した。
「先生。あまりぼーっとするなよ。ミントは目を離すとすぐ繁殖するからな」
「もうその呼び方はやめてくれ」
「口ではそう言っておいて、体は正直だぞ、先生」
「揶揄ってるのか?」
 やはり完全に別世界へ旅立っていたようだ。ガベルに限って同時に超次元へのトリップは珍しいことではない。珍しいのは、そうして生み出したパラレルワールドのただ一つでも疎かになることだ。名前を呼ばれても反応が遅れることなど、少なくともガベル・ソーン弁護士では有り得ない。
 だからこそライラックは率直に喜びを感じた。自分の振る舞いと費やした時間の成果を見るのは心地よい。毎月口座に振り込まれる給料を眺めるのと同様で、それとは比べるべくもない。
「ガベル」
「うん、どうした」
「呼んでみただけさ」

 


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