見出し画像

ライラックとガベル 第4話「大切なもの」

 一つの茎に複数の花をつけるリシアンサスはロックグラスへ斜めに差し込まれ、キッチンカウンターの中央に飾られた。日が暮れてくると頭上のダウンライトが点灯し、リシアンサスはステージ上の歌姫のように照らされた。
 仕事を変えて自宅にいる時間が伸びたせいか、ガベルは最近料理を始めたようだ。元々簡素な食事であれば自分で作っていた上、時間があればあれこれと調味料を測って投入する時間があるし、具材も加えられる。定められたレシピさえあれば、ガベルはなんでも正しく、写真通りに再現して見せた。
「レストランでも開業したらどうだ」
 アボガドとサーモンをマヨネーズをベースにしたソースで和えたタルタル。バジルトマトのグリーンパスタ。シンプルにただ焼いただけだと述べるステーキもよくよく聞いてみれば、低温調理の過程をを従順にこなしていた。
 そして食後にはチョコレートとナッツのタルトが出された。
「砂糖と牛乳の——芸術品だな」
「それ以外にも色々入ってるんだが。しかしまあ、作ってみると想像以上に砂糖の塊だ。これはそこまで甘くはないが、君は甘いものは好きだったかな」
「好きか嫌いかで言えば大好きだ」
「食べさせ甲斐があって嬉しいよ」
 熱いお湯で絞ったタオルで包丁をあたため、泡ひとつ波ひとつなくなめされたタルト表面の柔らかなチョコレートに切先を沈める。
 ナッツを練り込んだ底のクッキー生地まで貫き、コツンと軽い音がする。
 包丁が切り開いた断面もまた完璧だった。包丁の熱が伝わってかすかに溶けたごく表面の油絵のような生々しさも芳醇なカカオの香りも、全てが。
 事実を事実として述べたに過ぎないが、ガベルは「褒めすぎだ」と苦笑した。
「料理は俺の性には合ってるようなんだが、どうも作って満足してしまう。今日は君が来てくれてよかった」
 咀嚼中だったのでライラックは黙って頷いた。固形とも液体ともつかない絶妙な柔らかさと口どけで成立しているチョコレートは、合間に水を飲むのが惜しいほどだった。
「開業届はそんなに難しくない、飲食店だと衛生管理が絡むが」
「まだ言ってるのか」
「素晴らしい腕前だ、本当に」
 包丁を片付けてキッチンテーブルに再びついたガベルが目を細くした。
「懐かしいな。まだ君と俺が打ち解ける以前から、君はことあるごとに私を素晴らしいと言った。だが俺からすれば、君の話す一言一句、今日選んできてくれたあの花の方がよほど素晴らしい」
 日が暮れて、室内からの光が落ちててらすバルコニーの方を一度振り返り。
 実は見ていた、とガベルは言った。
「ライラが眠ってから、庭に広げていたブランケットや干していたシーツを片付けて、それから通りを見下ろした。君が歩いてくるのが見えた」
「勘弁してくれ。つむじはヘアセットしてないんだ」
「友達とふざけ合って走っていく子供たちが何人もいたが、君はそれを全て器用に避けた」
「おいおい」
「君の身のこなしについて早く話したくてたまらなかったのに、君がマンションのエントランスに消えてから——この部屋の番号を押して、俺がホールのセキュリティドアを解錠してから、随分待たされた。前から聞きたかったんだが、君はどうしていつも階段を使うんだ?」
「健康のためだよ」
 ガベルは完璧に左右対称な眉を、これも全く完璧に揃えたまま浮かせた。眉は浮かせて上瞼は下ろし、揶揄うような目でライラックを見つめた。ライラックは仕方なく、チョコレートタルトへ差し込もうとしていたフォークをペンのように回した。肩をすくめる。
「ここ数年知り合いがこぞってホットヨガだサウナだジムだと色々勧めてくれるが、紹介クーポンが欲しいだけさ。金を払って、顔見知りが横で汗水垂らしているのが嫌でも視界に入る空間に閉じ込められるなんて、なんでそんなカルトの儀式みたいなものが流行ってるんだ?」
「今度は君が知り合いに勧めたらどうだ、ジムに行く前に九階分の階段を使えって」
「そうしたらガベル、お前は俺の知り合いのためにポイントカードを作らなきゃならなくなるぞ。奴らが汗水垂らして階段を登ってきたら、薔薇の花束を受け取って、代わりにカードにスタンプを押してやるんだ。よくがんばりました、ってな」
「それは面倒だな」
「なら、しばらくは俺で我慢するんだな」
「ふむ……」
 ふとガベルは自分の頬から顎のラインを手でなぞった。「そうなると君にもスタンプが必要だな」
「ん——?」
 ライラックは丁度タルトを口に入れたところだった。ガベルは顎まで撫でたその手を握って口にあて、本格的に考え事の姿勢に入ったところだ。
「しかし君の場合は、もうスタンプは十分に溜まっている状態になるな……」
 ライラックはタルトをもぐもぐとやりながら、敢えて口を挟まないでいた。ガベルがこうも分かりやすくパラレルワールドに没入している姿を見られるのは親しみの証でもある。今はどうやらガベルから見て左斜め上の方に新世界の窓が開いていて、そこから別次元の事象についてあれこれ干渉しているらしい。
 やがてライラックがタルトの最後の一切れを丁寧にフォークを乗せたとき、ようやく別次元から帰ってきたガベルがおもむろに席を立った。「少し待っていてくれ」
「待て?」
「ああ、いやそのタルトは食べていい。楽しんで」
 言い残してガベルはキッチンの奥の廊下へ消えた。それは書斎や浴室のある方向だ。
 キッチンに残されたライラックは言われた通り、最後の一口を楽しんだ。窓の外はすっかり藍色に暗く、縦に大きな南向きの窓は鏡のように室内を映しとる。オレンジ色の室内灯、カウンターに飾られたロックグラスとリシアンサス。なめらかで凛とした茎に小ぶりながら咲いた白い花と蕾は花言葉の通り優美で、清廉な美しさをたたえている。
 添えたミントの爽やかな香りも相まって、この部屋、部屋の主に相応わしい。
 だが少々誤算だったのは、この花を選んだ人間までそうであるかのように、その清涼な香りはライラックにまで移りつつあった。
 昼過ぎにこの部屋へ来て、もう日が暮れた。
 あまり長居はするべきではないなとライラックはそんなことを考えていた。
 すると、ガベルが消えた方向とは逆の、寝室の方から物音がした。物音というより衣擦れの音だ。
 ガベルはまだ戻ってくる様子がない。ライラックは席を立って、ゆっくりと寝室の方へ向かった。
 音を立てずにドアノブを回し、ドアを大きく押し開く。キッチンと違い、部屋の照明が落とされた寝室は窓から差し込む青白い光で全体が染まっていた。
 ライラの目が開いていた。窓の方向へ向けられていた目がぐるりと動いてライラックを見つける。首や顔を動かさずに目だけでライラックを見ようとするために、限界まで眼球が回転し、目の縁には血管の端が見えた。
 ライラックは寝室のドアを大きく開けたまま、ライラの枕元へ膝をついた。寝返りで乱れた薄手のブランケットを直し、シーツの上に乱れて絡まったブラウンの髪を梳く。風呂に入ったのか、毛の流れはライラックの指に引っかかることなく分けられ、整えられた。ありきたりだが不快さの無いサボンの匂いがした。
 今のライラが一人で風呂に入ることはない。入院中に入れられたか、あるいは今日にでもガベルが同伴したのだろう。庭へ出たのは濡れて冷えた体をあたためるためだったのかもしれない。
「……あんまりガベルに世話をかけるなよ」
 ライラックは囁くように言った。ライラは瞬きもせずライラックを見つめている。だがその見開かれた眼球の、白目の中心に浮かんだ暗いブラウンの色はライラックという人間ではなく、ただ動く物体に反射で集中している様子だ。口を固く閉ざし、鼻から抜ける呼吸の音だけが聞こえる。
 その様子では言葉など聞いてはいないだろうし、理解もできないだろう。ライラックは手の甲と指の背でそっとライラの額を撫でた。
「ライラ、わかるだろ?」
 まるで台本に書かれた台詞のように優しい口調で告げるが、ライラは頷くことなど勿論なかった。ただ瞬きもせず、ただ視界の中で唯一動いている部分を、つまりライラックの口元を凝視しているだけだ。
 ライラックは自分がしている行為の馬鹿馬鹿しさに思わず失笑し、そして今度は心からの善意でライラの頭を撫でた。
「いい子だ、もうお休み」
 撫でた手を最後に目元にかざしていると、ライラは卑屈そうに自分の頭上で止まった物体をキョロキョロと伺っていたが、やがてもたらされた暗がりの中に目を閉じた。
 ライラが眠ったのを見て、ライラックは立ち上がり、そして寝室のカーテンを一枚引いた。レース生地のそれを静かに引けば、ベッドに差し込む青白い月明かりは煙に巻かれるように薄くなる。
 そうしてキッチンテーブルへ戻ると、そのすぐ後にガベルが書斎から戻ってきた。
 その手に四角形の小箱が握られているのを見て、ライラックはぎょっとした。ガベルの片手に乗るようなサイズの小箱は、キッチンのライトに照らされるまでもなく高級そうな紺色のベルベッド光沢を放っている。
「ライラック、待たせてすまない」
「ああ……いや、それはいいんだが……」
「どこかへ行くところだった?」ガベルはライラックが席を立っているのを見て行った。「手洗いなら、玄関の方だ」
 手洗いの場所など知っている。この部屋に初めて来たわけではないのだから。それをガベルもライラックも知らないわけでもないだろうに。
 ライラックは何も言わなかったが、ガベルはライラックの視線が手の中の小箱に向けられていること気づいたようだ。隠すどころか見えやすいように差し出す。
「ライラック……」
「待て、それを俺によこすつもりじゃないだろうな」
「まだ中身も見ていないうちからそんなに邪険にされると傷つくな。確かにそんなにいいものじゃないが」
「そんなによくないものをベルベッドの小箱に入れていい法律は無い」
「元からそんな法律はないよ。それにこの箱は元々別の物を入れていて、都合のいいサイズだったから小物入れに使っていただけだ」
 箱の中には細いチェーンのネックレスが入っていた。飾りも何もなく、ただ鎖を構成する輪の太さと大きさの異なる銀のそれが二重になっているデザインのものだ。
「邪険にするほどいいものじゃないだろう?」ライラックは照れ隠しとも、ばつが悪そうにも眉尻を下げてそう言ったが、そもそもスタンプに比べればどんな貴金属も劣るものではないだろう。
「随分前にタイピンを買ったとき店の職人がサービスでつけてくれたんだが、どうも俺はこういうアクセサリは落ち着かなくて。それでずっと仕舞っていたんだ」
 ガベルが箱をキッチンテーブルに置き、チェーンを取り出した。さほど長さはなく、場所や服を選ばないデザインなだけに拒む理由がないのが厄介だった。
「それに、君はいつもサングラスをつけているだろう。グラスチェーンにしてもいい」
 完璧なプレゼンテーションだ。もはやライラックには反論の余地はなく、挙句気に入らなければ元より使っていないので捨ててもらって構わないとまで言われては、大人しく両掌を差し出す以外にできることはなかった。
「一生の宝物にするよ、ああ、約束だ」
「この箱もつけようか? ベルベッドの」
「勘弁してくれ。その箱を入れる箱を買わなきゃならない」
 受け取ったネックレスをつける。うなじの方で両端の留め具を繋ぐのに手間取ると、ガベルが「貸して」と全く気安い声でライラックの背後へ回った。
 ライラックは首まわりに細く冷たい感触を覚えた。
「ライラック」
「なんだ?」
「君……いや、なんでもない」
「おい」ライラックはシャツの襟をくつろげながら鼻で笑った。。「先生は一体どこを見てるんだ?」
 留め具が繋がったようだ。くつろげていたシャツの襟を直す。振り向けばガベルが子供のような輝きを隠しもせず首を傾げている。
「俺のうなじはそんなにセクシーだったか?」
「ん? ああ、健康的(ヘルシー)だったね」
「お前にライラ以外への口説き文句を期待するのは馬鹿なことだったな」
 ライラックは自分の鎖骨へかかる二重の鎖を指先で弄んだ。銀の鎖は暖色の室内灯を浴びて、今だけは淡い金色に見える。
「素晴らしい贈り物だ。これは早速知り合いに見せびらかして来ないとな」
「帰るのか?」
「うん」察しの良さと隠そうともしないその声にライラックは困った。「夜も更けたし、こんなにいいものを貰って、自慢しないでいられるほど俺は我慢強くないんだ。でもどうしてもというなら、タルトの残りも手土産に包んでくれていい」
 ウインクしながら指を鳴らす。まるで宣伝用フォトグラフのように一切れだけ切り抜かれたチョコレートタルトはまだテーブルの上にあった。
「気に入ってくれたなら残りは全て君のものだ。ただ歩いては帰さないよ」
「冗談だろ、車の中からどうやってこれを見せびらかせって言うんだ。オープンカーでも買ったのか?」
「君が言ったんじゃないか、夜も更けたと。これまで散々歩いて帰る君が通り魔に遭いやしないかと心配する身にもなってくれ」
「俺だったら、サングラスをかけてホールケーキを手にさげた男は真っ先にターゲットから外すがね」
「ライラック、俺の補佐をしてくれていたなら知っているはずだ。この国で起こる裁判のほとんどは刑事訴訟だ。民事は裁判にすらならない。原告と被告が裁判所まで無事に辿り着かない。その上で裁判が開廷されるような民事のケースは……」
「ああ、もういい、もういい。業務時間外に仕事の話をしないでくれ」
「よし。じゃあ車を……」
 そこでガベルはふと壁にかけられた時計を見た。
 それから——ライラックの顔を見て——もう一度時計を見て——どこか言いづらそうに、決して法廷の場でも事務所でも見せなかった、口元をまごつかせるという素振りをした。
「どうした?」
「……俺の目には時計の針はもうすぐ8を指そうとしているように見えるんだが」
 ライラックも時計を見た。午後7時45分。短針はガベルの言う通り、もうすぐ8をぴたりと指すだろう。
「そうだな、それが?」
「つまり」ガベルは首を捻った。「帰るにしても早すぎないか?」
 今度はライラックがまごつく番だった。首の後ろからゴキリと嫌な音がして、立て続けに体の中で骨がぎくしゃくと強張って擦れ合う音が続く。
 これまではそもそもマンションを訪れる時間自体が遅く、そのためどちらが決めるでもなく、無言の了解で日付が変わるまでをリミットにして別れていた。
 しかし今日は昼過ぎからの訪問だったため、ライラックの中で最も体に染み付いた古い法則が適応されたようだ。
 つまり夜の九時には家に戻って、自分の部屋に居なければならないというルール。
 ガベルは知る由もないことだ。ライラックですらすっかり忘れていた、無意識にまで染み付いていたが故のそんな古い戒律の存在など。
 ましてやそれを指摘されたライラックの額に浮かんだ一粒の冷や汗でさえ、あまりに小さすぎて知る由もない。
「ライラック?」
「……俺を引き留めるなんて、大胆だな、先生」
「予定があるなら勿論引き留めないが」ガベルが訝しそうに眉を寄せた。「大丈夫か?」
「大丈夫ではないな。帰らないでくれなんて、急にそんなことを言うもんだから胸が高鳴って痛むよ」
「勘違いしないでくれ、邪な思いがあるわけじゃないんだ」
「ハハ、なんだ急に深刻な顔をして何を言うかと思えば。先生に限ってそんなこと疑っちゃいないさ」
「ライラック」
「そう情熱的に見つめないでくれ、思いもよらないだろうが、俺は恥ずかしがり屋なんだ」
「だからいつもサングラスをかけているのか?」
 ライラックは自分の手のひらで遮った視界の中、ガベルが遠ざかったのを気配で感じた。掌をどかせば、ガベルはキッチンシンクの側へ立ち、タルトを手頃なピースに切り分けるところだった。
「そうだって言ったら笑うか?」
「笑わないよ」
「だよな。安心してくれ、もっと笑えるトリビアなんだ」
「君にまつわる話はどれもこれも陽気だな」
「類は友を呼ぶと言うだろ。陽気に振る舞っていれば、陽気なものが集まってくる」
「俺はその例外といったところかな」
「自覚がないようだから言うが、先生はとびきりの面白人間だぞ」
「どのあたりが?」
「数ヶ月前まで敏腕弁護士だったのに、今は凄腕パティシエやってるところ」
 ガベルが声を出さずに笑った。タルトは綺麗に均等に切り分けられ、半透明のタッパーに見事に敷き詰められた(驚くべきことにタッパーはタルトを敷き詰めると隙間なく埋まった)。
 だが、その完成した手土産をガベルは冷蔵庫へ仕舞った。そうして包丁を綺麗に洗うと、既に自動洗浄機で濯がれた他の皿と同じように収納する。
「今夜は泊まっていくといい、ライラック。もてなさせてくれ」
「……邪な思いは無いってさっき言ってなかったか?」
「友達の家に泊まることぐらい普通だろう。邪なのは君の想像力じゃないか?」
 ガベルに呆れたように言われ、ライラックは喉を詰まらせた。スーツで襟元まで締め上げていた頃とは思えないほど、今のガベルは表情豊かだ。形の良い眉が動くたび視線が引かれ、自然とその濃いブラウンの瞳を直視する羽目になる。
「ガベル・ソーンの秘密ファンクラブに殺されそうだな」
「万が一そんなものがあったとして、本人非公認だから気にすることはない」
 ガベルは新しくグラスを一つ取り出すと、それに水を汲んだ。そしてライラックへ差し出す。
「言ったかな、ライラの担当医からアドバイスを貰ったって——彼女に対してと、俺自身についても」
「メールに書いてた」
 ライラックはグラスを受け取って一口飲んだ。冷えたただの水だがひどく美味かった。
 ガベルは水を飲むライラックの様子が面白いのか、シンクに両手をついてじっと眺めている。
「信頼できる医師のアドバイスはこうだった。君を大事にしろと」
「ゴホッ」
 ライラックは思わず咽せた。二口目を口に含む前であったのが不幸中の幸いだ。「なんだって?」
「君を大事にしろ、と」
「お前、俺を紹介したのか? その医者はお前の親なのか?」
「個人情報を本人の同意なく第三者に開示したりはしないよ」ガベルは淡々としていた。「ただ、どうしてもこういった治療においては、患者だけじゃなくその家族のケアも大事だからというのが医師の主張でね。実際に患者の状態に影響されて、心身の不調をきたす人は多いそうだ」
「それは理解できるが……」
「それで、あまり症状に一喜一憂しないようにと。ライラは十分よく生きているのだから、憂うことは何もないと。それから、親切で客観的に状態を見守ってくれる第三者は得難いものだと言われた。既にそういう友人を得ている者は自覚することが難しいが、そういう存在を持たずに生きている人間のほうがずっと多いのだ、とね」
「お喋りな医者だな。担当を替えたほうがいいんじゃないか」
「彼は信頼できる医師だ」
「なんでそう言える?」
「足繁く俺の様子を見に来てくれる“友人”について、ただの一度も、その性別を聞いてこなかった」
 ライラックは片方の眉を浮かべ、そして閉口した。それは確かにいい医者だと言わざるを得なかった。
「医師に言われて、そして君が以前言っていたことを思い出した」 
 ガベルは深く息を吸った。
「“たったそれだけが、大事なことさ”」
「“大事なことだから誰もが忘れてる“」
 そして教師に添削を求める熱心な学生のような目で、ガベルはライラックを見るのだった。
 添削の代わりに、ライラックは肩をすくめた。あの日のように。
 大雪の中渋滞に巻き込まれた車内でそうしたように。
「……歯ブラシ持ってきてないぞ」
「使ってない新品のものがある」
「俺は青の歯ブラシしか使わないっていう主義があってな」
「青色もあるし、水色も紫色もある」
 ライラックはもはや項垂れる以外になんの術も持たなかった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?