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ライラックとガベル第15話「泥中に沈む」

「アラスター!」

 ライラックの声に、アラスターは露骨に眉を顰めた。

「お前はいつまでたっても腰抜けだな、ライラック」

 アラスターが一瞥と共にライラックへ言い棄てる。「あのときも、ガベルの首根っこを掴むどころかうろうろ後ろを追いかけて。告白でもするのかと思って待ってやったってのに、その腰抜けっぷりで道化をやるにしても芸がない」

 ライラックはアラスターのしていることの真意や、これから何がどうなって、それによって何が変わるのか、全てを理解しているわけではなかった。
 だが本能的に感じているこの恐怖は本物だ。今立っている場所が断崖の縁であると全身が告げている。
 今ここでガベルが一歩前へ踏み出せば、差し出された手を取れば。あの銃を握り、目の前の__を撃てば。
 彼はきっともう二度と元の場所へ戻ることが出来ない。そして彼は落ちていく先は、ライラックより深い場所だ。

「アラスター_____」

 理屈よりも先に本能で、しかしライラックは己が持つもののうち最も有効な言葉を選び出した。
 そしてもう一つ、同じく本能でそれをさすまいともつれる自分の舌をねじ伏せ、奥歯が砕けるほど強く噛み締める。
 錠剤がもう一つ砕け、即座に唾液と交じり合って喉の奥へ滑り落ち、神経中枢へ作用する。

「____”アラベスタ”、」

 アラスターの目つきが変わった。ガベルに向けていた柔和で慈愛と期待に満ちたブルーの瞳が凍り付く。

「”アラベスタ・アラヴェルク・アラ____」
「ヨーハン?」

 キュウ、と。
 まるでリボンを結ぶような可愛らしい音がした。ライラックの喉から。プレゼントの最後に華奢なラッピングを結わえ付けるときのような。息が出来ない。
 アラスターの呼び方は完全に母と父のそれだった。
 かつて、ずっとずっと昔のほんの一時期だが確かに、両親がそうと決めてそう呼ばれていた。ヨーハン、と。
 抑揚も音の強弱も、すべてが完璧にそうだった。

「ヨーハン・ゼアロ、」

 アラスターは笑顔だった。ずっと笑顔だった。先ほどの凍り付いた瞳などそんなものはどこにもない。彼は両目を閉ざして、目と口元できれいなカーブをつくり、孫を迎えた祖父のような笑顔で。

「誰がその名前を呼んでいいと言った?」
 
 あくまで優しい口調で、アラスターは言った。苦笑さえしてみせて。
 そして銃を差し出す左手とは逆の右手で、たてた中指を口元に当てて。

「いい子でいろ。腰抜けのお前でもそれぐらいは出来るな?」

 アラスターはそう言ったが、他でもないアラスターのおかげで今のライラックはいい子でいることはおろか、十分に呼吸をすることも出来なかった。筋肉と神経を刺激する薬剤を飲んでいるはずなのに、喉は勝手に狭まり、酸素を拒む。
 ライラックの脳がいくら酸素を送れと指令を出しても、喉はアラスターの言いつけを守っていい子にしている。

 そして、ついにライラックは両手で首元を掻きむしった。どうにか外から力を込めて、くしゃくしゃに潰れたストローを直すようにしてどうにか酸素を吸おうとして。

 そうして____ライラックはガベルから手を離してしまった。

 あ、と零したつもりの呟きは隙間風が吹くような微かな音しか立てず。
 限界まで見開かれた薄紫色の目には銃を差し出す老人の姿をしたなにかと、それに手を伸ばす友人の姿があった。
 ほんの数センチの距離だ。止めなければ。たった一つの思考が浮かび、そして急速に白く塗りつぶされていく。酸素が足りない、という脳の叫びが全てを埋め尽くしていく。苦しい、とそれだけが波のように打ち寄せ、止めなければ、引き戻さねば、という理性を覆い隠し、沈めていく。

「ァベ、」

 捻じれすぼまった喉を右手で強く掴み、それでも針一本通るかどうかの隙間だ。
 体を翻し、踏み出した足の膝に力が入らない。感覚が遠い。本当に床に足がついているか? まるで真っすぐな杖をついているようだ。

 膝が崩れる前に別のほうの足を出す。わけもわからずただ腕を伸ばす。まるで掴んだ棒を投げるように、肘で手をもってボールを投げるように。
 もう耳からは何も聞こえない。周囲でのたうちまわってる男女の苦しげな嗚咽や体液の滴る音も、床を踏む足音も。

 今まさに飛び込んできた乱入者の疾駆する足音も。
 
 
「アラスター」

 一番に気づいたのはジンだった。ガベルとアラスターと、それからライラックの三人から付かず離れずの位置に控えていた彼は呼びかけと同時に飛び出している。

 そして、アラスターの眼前を遮るように差し込まれたジンの腕は乱入者の突進を垂直に受け止めた。
 鮮烈な赤い血が弾け跳ぶ。皮膚どころか肉の一部が抉れ、衣服ごと千切れる。

「____なんだ」

 アラスターの頬にその血が降りかかる。2m近い身長のジンが伸ばした腕はアラスターにとって見上げる位置にあり、従って流れる血はそのままアラスターにかかった。
 
「誰か手品でもしたか? どうして”もう一匹”いるんだ?」

 今なおジンの血肉へ深く牙を突き立て、その防壁を食い破らんとしているのは、それもまた一匹の狼だった。
 深いブラウンの毛と瞳は艶やかで、こうして人へ牙を剥いていて不可解な覇気、あるいは気品か威厳のようなものさえ纏っている。
 アラスターは即座に足元に転がっているほうの狼を見た。焼け焦げた歪な肉塊はまだそこにあった。記憶の通り、アラスターがそうしたように。雌の狼。痩せこけ正気を失った死にぞこないの獣。ライラという名の死体。

 だが、ならば目の前にいるこの狼は?
 いつからいた? どこにいた? なぜここに?

 まるでライラと鏡の写しのように揃いの毛色と瞳の色。
 そして____こちらの個体は雄のようだ。
 だがオルドリアオオカミは絶滅したはずだ。ライラが死んだ今、それは正真正銘の真実として確立したはずだ。
 誰にも気づかれず生き残っていた、とすればそれはそれで理解できる。だが群れを形成せず、番が第一子のみを身内として認識する習性からして、この雄の激昂ぶりは彼がライラと番の関係にあったことを示唆している。

 しかしだとすれば、この雄は、今の今まで何処で、何をしていたというのか。
 世界にたったひとりと決めた番のそばを離れて。

「一途なことしか取り柄がないのに、なんだって番が死んだ今さらのこのこ出てきたんだ?」

 とんだ腰抜けか。いや腰抜けなどという性格が獣にあるものか。本能的な恐怖はあるとして、だとしてもならば猶更こうしてアラスターに襲い掛かりはすまい。
 怒りも恐怖も、そうした感情は人間のものだ。獣の同族に対する親愛などというものは、結局生存本能を人間が勝手にドラマチックに解釈しているだけだ。

 いずれにせよ____もはや番を失ったただの獣だ。

「とんだサプライズゲストもいたものだ。しかし招待券を持っていないな。ジン、適当に追い払ってくれ」
「生死は?」
「君の主義に任せよう」
「お前のそばを離れることになる。お前を守れない」
「その時はベビーシッターを頑張り給え」

 ジンは長い前髪から覗く左目を細めたが、結局何も言わずに無傷のほうの腕で狼を無造作に引き剥がした。そして顔色一つ変えずに狼を投げ飛ばすなり、再び向かって来ようとする狼を押し返す形で法廷を後にした。

 後に残ったのは、色鮮やかな赤い血だまりが二つ。
 おやとアラスターは思った。すっかり忘れていた。自分の手にもう銃がないことを。
 そして気づいたことといえば、自分の体に穴が増えていないことだ。
 足元に腰抜けの死体が増えている。いや、まだ死んではいないようだ。

「おや……」

 仲良く床に座り込んでいる二人の姿を見て。
 二人の顔を見て。動き出そうとした身体が止まる。
 アラスターは腕を組み、顎を撫でた。頭にふと、ある考えが浮かんだからだ。

「おいおい、待てよ? まさか_______」

 その呟きがかすかに空気を揺らし、小さなさざめきが液体を動かす。
 表面張力を保ってそれぞれ別個に床の上を広がりつつあった赤い血だまりが音も無く交じり合う。
 その赤い水面に波は無く、だから床に座り込んだライラックとガベルの顔まではっきりと映った。

「ライ……」

 ガベルは呆然と声を漏らした。その目が見ているもの、その人をそのまま。

「ライ、ラック」

 両手のひらから血を流しながら目の前に座り込み、項垂れている友人。
 いつもかけているサングラスは鼻筋の先端までずり落ちて、あとほんの少しで落ちてしまう。鼻筋は汗と脂が混じってきらきらと光っていた。鼻筋だけでない、彼は顔じゅうに汗を浮かべ、シャツの襟は色が変わるほど濡れていた。

 ガベルは同じように床へ座っている自分の両手を見た。自分の両手に穴は無く、ただ黒光りする小銃があった。
 そして自分の利き手の人差し指には、くっきりと引き金の跡が赤く残っていた。

「なん、」ガベルは唾液を飲み下した。苦労した。「何を、きみ……」

 返事はない。ライラックは腰が抜けたように床へ崩れ落ちた格好のまま、ひどく丸まった背中もそのままに、今まさに自分の周りに広がっていく赤い池をこどものように見つめている。

 ライラックはその両手で銃口を塞ぎ、銃弾は二枚の両手をずたずたにしながらも辛うじて止まったようだ。

「ライラック、……ライラック!」

 いつもは打てば響くように返ってくる声がない。表情すら微動だにしない。ニヒルな微笑みも瞬きもない。そのことが無性にガベルを不安にさせ、突き動かされるまま這うようにしてライラックの体を掴み揺さぶる。
 するとようやく、聞こえてる、と掠れた声が返ってきた。

「聞こえてるから……そんなに呼ぶな、大丈夫……」
「大丈夫なわけないだろう!! 手の甲に穴が空いてるんだぞ! すぐに止血を、」
「いい……」ライラックは自分の手を掴むガベルの手のひらを感じた。「いいかんじだ、血が抜けて……頭が、いい、してきた……」
「馬鹿なことを____」
「ガベル」

 血に濡れたライラックの手がガベルの手を握り返す。指先が微かに動いただけだが、ガベルはその些細な動きを感じ取ってすぐ、自分の手のひらで流れる血をせき止めるようにライラックの手を包み、強く握り返した。
 謝罪しなければならない。止血しなければならない。それは分かっている。自分は過ちを犯した。それには償いが必要だ。
 でも今は呼びかけに答えることを優先した。そうしなければならないと思うほど、ライラックの声と態度がガベルを呼んでいた。

「どうした、なんだ、何をしてほしい?」
「ガベル」
「ちゃんと聞こえてる、大丈夫だ。言って」
「ガベル、俺は……」
「ああ」
「俺は……」

 ガベルは自分の両手に包んでいるライラックの手の甲や手のひらに、おそらく銃弾を受けて破けた皮膚や、折れて砕けた拍子に皮膚を突き破ったのであろう骨の凹凸を感じた。
 生暖かい血のぬめりと、柔らかな剥き出しの肉と、ぎざぎざした硬い骨の感触。
 それらがガベルに自分自身の誤りの恐ろしさと愚かしさを物語る。ガベルは気を抜けば離しそうに手にさらに力を込めた。ライラックが自分をそうして引き留めたように。

 ライラックの指先が動く。痛むのだろうか? 握る力が強すぎるのだろうか?
 そう思い、ガベルがほんの微かに、握る指の位置をずらす。

「やっぱり、俺は……」

 すると、滑るようにライラックの両手がガベルの両手の間を通り過ぎた。
 通り過ぎて、そして引き返す。
 ガベルは決して手の力を抜いたわけではなかった。それでもライラックの両手は血塗れで、表面は血のぬかるみで滑りやすくなっていた。
 もとい、血に濡れていようがなかろうが、ライラックは目的のものを手に取ったらば、ガベルの手を振り払っていただろう。

「___お前に、こっち側は似合わないな」

 少なくとも。
 これまでガベルが見たことのあるライラックの振る舞いは完璧だった。苦笑ひとつとっても常にニヒルで、そこには余裕があった。本心の凹凸や機微、内実というものを、ニヒルさで平らに綺麗になめして覆い隠し、そうやって振舞うのがこの友人だった。
 完璧だのなんだのと自分が称されるたび、ガベルはライラックの振る舞いを思わずにはいられなかった。本当の完璧というのは、綺麗になめされ、傷やへこみのない壁のようなもので、そういう意味でライラックこそ完璧なのではないかと。

 だから今日初めて彼の不完全な、つまり正直な、本心からの苦笑を向けられたとき、ガベルは驚いた。そこにいたのは斜に構えたニヒルな友人ではなく、ただひどく疲れ果てて、自分の惨めさに笑うほかないという様子の男だった。

 そしてその惨めな男は血塗れの手に銃を持っていた。銃は既に掲げられていた。
 男の苦笑はこうも言っていた。これが馬鹿でも使えるものでよかった、と。

 ずたずたになった手でも、引き金を引くだけなら簡単なことだ。
 そして小銃から放たれた銃弾は、いともたやすくアラスターの喉を貫いた。


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