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ライラックとガベル第12話「残り火に全部くべてくれ」


 乾いた葦が伸びっぱなしの川縁に座って煙草をふかしていると、ジンが立ち去ってさほどしないうちにガベルがやってきて、何を言うでもなく隣へ座った。
「煙草、いるか?」
「もうやめたよ」ガベルは差し出された煙草の箱を押し返した。「知っているだろ」
「ライラに悪いもんな。彼女は鼻がいい」
 ライラックは煙草を口元から外し、おもむろに背後を振り返った。しかしそこにはぼうぼうに生えまくった草があるだけで、アラスターは勿論、同僚の一人すら見つけられなかった。空は濃い灰色の雲が覆い、どこかから辛うじてこぼれ落ちてくる太陽の光が白いまだら模様を描いている。
 存外ガベルは落ち着いていた。アラスターと二人きりでどんな話をしたにせよ、それは彼にとって楽しいお喋りでは決してなかっただろう。現にガベルは深く思い悩んでいるようで、けれど視線はゆったりと周囲の光景を巡り、呼吸は一定だった。
「アラスターは愉快なじいさんだったろ?」
 ガベルは目を伏せ、眉を顰めつつ「ああ」と言った。「あの人は子供のような発想力を持っていて、そして子供には決して持ち得ない力を持っている」
「まあ、普通の人間は金と権力を持つと腐るもんだが、その点アラスターは安心だ。あいつは金も権力も、子供の小遣いみたいにすぐ使うからな。存外、ああいう男が政治家になるべきなのかもな」
「それについては、意見を差し控えさせて貰おう」
「法律家としてか?」
「君の友人としてだ」
 ガベルが整えられていた髪へ手を差し込み、無造作に乱した。ウェットにスタイリングされていた髪は束となってほつれ、顕になっていた額を隠していく。
「……俺はどうしたらいい?」
 静かな声だった。厳かで、慇懃な生徒が教えを乞うようだった。
「君は、俺にアラスター氏の後継者になって欲しいのか?」
「そうだって言ったら、なるのか、お前」
「友人の率直な意見として、受け止めるよ」」
「ふ、」
 ライラックは笑った。右手の指に挟んだ煙草はまだまだ長い。
 ガベルは仕立てのいいスーツに(これはライラックとてそうだったが)雑草が擦れ、枯れ葉の屑がまとわりつくのも構わず、両足を伸ばした。
「父さ——フレデリク氏の信者がまだあんなにいるとは」
「本当に驚いているのか?」
「驚いている。本当だ。存在自体があるとしても、こうしてまだ組織の形を保っているとは思わなかった。フレデリクが消えてもう何年だ?」
「それだけお前の父親がいい男だったって話さ。胸を張れよ」
「君がアラスター氏についているのは、フレデリクの教団を維持したいからか?」
 それとも。
 そこでガベルは口を噤んだ。視線はただ真っ直ぐに前方を向いていて、そちらには誰もいない。
「それとも、単に俺にフレデリクの死を償えと、その穴を埋めろと、そう望んでいるから?」
 灰色のぬるい風が吹いた。人のため息のような、不愉快な湿度を孕んだ風だった。
 ライラックは煙草を咥えた。深く吸い込み、肺の奥まで煙を行き渡らせ、そして長く吐き出す。
 焦げついた煙草の匂いが水っぽさをかき消した。不愉快さを別の不愉快さで塗り替えた。
「俺はな、ガベル」ライラックは言った。「俺は、正直もうわからないんだ」
「わからない?」
「はじめは、ただの疑問だけがあった。なんで? っていう、子供じみた質問だ」
 ライラックはなんということもなく、目の前の川を顎で指した。
「フレデリクが失踪したあの夜を覚えているだろ? この辺りには嵐が来ていて、雨と風が朝からずっと酷かった。裁判所の地下から各々の家に戻ってから、フレデリクを送り届けた俺の父親は、車のライトの付きが悪いから、お前の家のガレージで応急処置をしていた」
「俺はその時、母親と自分の家にいた。父親からの電話を取ったのは母親だった。電話の内容を詳しくは知らない。ただ、俺によこされた受話器から聞こえた父親の声は、遅くなるが心配せずに母と寝ていろ、というものだった」
「電話が切れた後、母親はしばらく家中を歩き回って、それから着の身着のままで家を出ていった。俺は家にいろと言われた。父親を連れて帰ってくるから、今夜は一人で食事をして、休んでいろと」
「俺は背中が痛かった。あの日は、背中を掘った日でもあったんだ。そんな最悪なことがあったもので、母親にきっとおざなりな返事をして、彼女が家の鍵を持って出ていくのを見送った後、さっさと内側から鍵を閉めて眠った。熱と痛みと、風の音にうなされながら」
 だが、翌朝昼過ぎに汗みずくで目を覚ました時も、ライラックは一人だった。
 滲んだ血と汗が染み付いたパジャマを脱いで、玄関へ降りていくと、鍵は固く閉じたままだった。
 外は目を見張るようなさっぱりとした青空だった。天国のような美しい空のもとで、薙ぎ倒された木々や吹っ飛んだ牧場の柵、剥がされたトタンなんかがあちこちに散らばっていた。
「両親の溺死体は、隣の区との境目まで流されて、氾濫した川の泥だまりに埋もれているのを家出中の牧羊犬が見つけた」
 唯一の家族であるライラックは身元確認のため、同じ教団に属していた別の信者に連れられて現場へ向かった。
 ニュースや新聞では惨たらしく描写され、実際そうであるはずの溺死体は、しかし両親の場合、水につかっていた時間自体はそう長くなかったせいか、直視できないものではなかった。むしろ集まった野次馬や警察でさえ、息を呑むような美しさを保っていた。
 頭からつま先まで濡れた二人は、体のあちこちに擦り傷を作り、服を泥まみれにしながらも、毎晩ベッドでそうして眠るように抱き合っていた。父の長い腕の中に華奢な母がすっぽりとおさまって、父の右足首に母の左踵が引っかかっている。
 そのご遺体検査で父と母それぞれの指の爪から採取された布繊維が、あの夜フレデリクが着ていた衣服と一致した。
 そしてフレデリクの杖と靴もまた、ライラックの両親が発見されたさらに下流から見つかった。だが遺体そのものは、いくら川を下って行っても見つからなかった。
「後から、他の信者に聞いた。あの日、父から電話を受けたのは母親だけじゃなかった。父親はフレデリクが家を出るのを見た、追いかけたが見失ってしまった、と言っていたらしい。それで、母親や他の信者も、フレデリクを心配して探しに出たそうだ」
 おそらくその捜索の途中、不注意で足を滑らせたか、氾濫した川の水に引き摺り込まれたか。他の信者も捜索していたが、夜の闇と嵐は彼らのほとんどに作業を中断させ、あるいは見当違いの場所を探させた。
「不幸な事故さ。誰が悪いって話をするなら、それはきっと俺の両親たちそれぞれが悪い、本人の不注意ってことになるんだろう」
 事実、警察署の公文書や記録はその通りに記しただろう。
 ライラックには直ちに教団内外から助けの手が差し伸べられた。食事を持ってくるもの、泊まりに来るかと申し出るもの。特に両親と懇意にしていた要職の中には、ライラックを養子にしたいと言うものもいた。
 初めのうちは、ライラックもただ呆然とするまま彼らの世話になった。
 けれどもある日、ライラックは風呂場の鏡に映る自分を見てはっと気づいてしまった。
 もはや消すこともできない蔦が一面に生い茂る自分の背中を見て、気づいてしまった。
 この数日、世話になった信者たち、その家族や子供。
 ライラックを養子にしたいと言い、一等地のホテルに連れ込んだ男。
 あの日の夜の両親ですら。
 誰もがこの傷のことを「美しい」だの「素晴らしい」だのというばかりで。
 誰も、毎晩痛みにうめくライラックを慰めてはくれなかった。
 いいや。否。
 ——痛むかい?
 ——辛いだろうに。よく耐えた」
 ——もうお休み——ヨーハン、夢から起きた時には、痛みは消えているとも。
 フレデリク・ソーン以外は。
 そして今や、そのフレデリクさえいない。
 急に底が抜けたバケツのように、ライラックは一度そこで空っぽになってしまった。悲しみや怒りや戸惑いや、これからのために体の奥に少しずつ溜まり、積み重なっていた名もない感情ですら、全て吐瀉物のようにぶちまけられて、滅茶苦茶になった。
 ライラックが教団外の男の保護下に入ったことに大きな意味はない。ただ教団内の信者は露骨に、フレデリクと最期を共にしたライラックの両親を神聖視し、そしてどこか嫉妬めいたものを向けていたので、それを自分にまで向けられるのはごめんだった。
 軽く、薄く、少なく、乏しい方へ進んでいった。それが楽だからだ。
 背中一面に掘られたタトゥーのおかげで学校では夏でも長袖を着て、それを皮膚病のせいだと言った。それでもしつこい好奇心を持つ相手には、もっと好奇心を持たずにはいられないものを差し出せば、まるで馬のように夢中になった。
「教団は早い段階から、フレデリクの息子について探していたようだ。それでもフレデリクの死すら懐疑的だった彼らが動き始めたのは、事故から一年経って死亡擬制が成立した後だったがね」
 ライラックが首を傾げて横を見れば、ガベルは全身を強張らせて固まっていた。
「だが、案外ガベルって名前の人間はいるもんだ。それに、結果論かもしれないが、お前の身の振り方も完璧だった。お前は教団の行動を完璧に逆手にとって、行政や警察ではなく、かといってひたすら遠くへ逃げるでもなく、あえてロスロンドからそう遠くないモンドーレスの、粗末な牛飼いの家に潜り込んだ」
 ましてや、馬鹿正直にガベル・ソーンと名乗ることもなかった。ガベルはモンドーレスを発つまで、つまり公学校まではガベル・ガルディが彼の本名だった。
 そして大学へ進むタイミングで、老夫婦の扶養から抜けて独立した後で、彼は名前を戻した。
「お前はきっとこう思ったんだろうな——もう過去は過去のことだ、と」
 だがその一瞬の気の緩みこそ、多くの人間が待ち侘びていた一瞬だった。
「大学入学の試験会場で、ガベル・ソーンの名前が聞こえてきた時は勉強のしすぎで頭が狂ったかと思ったよ。ああ、俺だってお前と同じで、あの瞬間までこう思っていたんだ。もう過去は過去のことだ、って」
 自分を囲い込んだ男はミラリスに本店を構える仕立て屋のオーナーだった。国内の著名人や要職も利用する完全会員制の店で、ライラックは受付として働きながら勉強をしていた。学歴もドレスの一つだという指示で、それなりの大学への進学を目指していた。
 そしてガベルが第二志望と、ライラックの第一志望は同じ大学だった。
 ガベルは名前を戻した都合で、試験前の受付で他の受験生より多くの証明書を求められた。大学の職員が一時的に借りたそれを、すでに試験会場で席についていたガベルへ返すときに、呼んだのだ。
「ガベル・ソーンさん。こちらお返ししますね」
 それに対し、ガベルは淡々と「ありがとうございます」と言った。
 その様子を、ライラックは耳で聞いた。
 
 ガベルの前の席で、ライラックはそれを全身で聞いていた。
 
 そして思わず吐き気が込み上げ、ライラックはその日試験を受けることができなかった。再試験の許可を大学側は認めたが、結局ライラックは断った。
 泥酔した救いようのない人間が道路に撒き散らした吐瀉物を舐めたような、そんな強烈な混乱がライラックを苦しめた。
「これね、後ろの席の学生さんがまとめておいてくれたのよ」
 医務室で手当を受け、その日の試験も終わって帰ろうとしたライラックに、あの職員が微笑みながらペンケースを差し出す。
「青い顔で飛び出して行ったけど、大丈夫ですか? って。再試験が受けられるから大丈夫だと伝えたら、彼、ほっとした様子だったわ。もしかして友人だったかしら、まだ受付の辺りにいるかもしれないけど……」
 それで、何故そこで、ライラックは帰路につく受験生でごった返す中からガベルを見つけてしまったのだろう。あれだけの同じような年代の男女がごった返す試験会場の玄関で、何より真っ先に。
 フレデリクと同じ濃いブラウンの髪、瞳。
 どこか退屈そうに伏せがちになった瞼と、聡明そうな鼻梁。
 気づけば、ライラックは人混みの中を器用にすり抜けて、試験会場を出て、だんだんとガベルの方へ近づいていた。
 ——だが、ライラックの手がガベルの首を掴むよりも、悪魔がライラックを見つける方がずっと早かった。
「俺を恨んでいた?」
 ガベルの問いに、ライラックは「そうだな」と答えた。「少なくとも、お前を見つけた時は、きっとそうだったんだろうな」
 一つの事実として、ライラックは父と母に愛情を抱いていた。父と母がライラックに対してそうであったように。
 例え両親からの愛情が、“ライラック“と名のついた後の息子にしか向けられていなくとも。
 両親を失い、フレデリクという第三の親を失い、いずれはフレデリクの束ねる教団の一員として働くはずだった将来の方向も失い。
 貧しい生活をしていた訳ではないが、人目を憚らずに喋ることのできる生活ではなかった。同年代の男女と遊んだ記憶もなく、いつも父親ほど年上の男に連れられ、その部下の一番若い男ですら七つは離れていた。
 生活のための働き、生活のために体を使う。これも肉体労働の一種だ。
 自分の生き方について良し悪しを考えることもなく、レジに商品を出して、金を払うように手やつま先を差し出して、代わりに金銭か、食事か、寝心地の良いベッドを貰う。時々は、両親の昔話も。
 それが、あの日ガベルを見た瞬間に崩壊した。
 もう過ぎたことだ、と。
 もはやただ生きていくほかはない、と。
 そう思って——実際は、過去についてしっかり考えて思うことすらせずなあなあにして——いた古傷を引っ掻かれたような気分だった。
 分厚い瘡蓋を一気に剥がされたような気分だった。
「お前の名前を聞いた時……お前の顔を見たとき……」
 ライラックの手に持っていた煙草の先から灰が落ちた。
「お前をボコボコにするか、あるいは——」
 ライラックは煙草を咥えた。小指の先ほども短くなったそれを。
 そして火傷しそうなほどまで吸い込み、吸い殻を地面の土で揉み消す。
 白い煙が長くたなびきながら流れていく。
「——なんにせよ、けりをつけなきゃならない、と思ったんだよ。お前からすれば、迷惑極まりない話だろうけどな」
 ガベルは数秒黙っていた。だがやがて「そうか」とやはり落ち着いた声で言った。
「君が俺をここへ連れてきたのは、復讐のためか?」
「まあ、そんなところかな」
「つまり、君は……俺をこのロスロンドの裏組織のトップにすることが、俺に対する復讐になると考えたんだな」
「何が聞きたいんだ?」
「君は、俺が裏組織のトップになり、権力者になることを喜ぶとは思わなかったのか?」
 思いがけない話の流れにライラックは首を傾げざるを得なかった。
 アラスターが現トップのロスロンド主席の座は、脈々とこの国の地下不覚に根差し、肥え太った形のない怪物だ。アラスターはある種の代弁者であり、支配者でもある。
 公にできないとはいえ、オージアの最高権力者にも匹敵するその立場は、確かに魅惑的だろう。純粋な権力のみで図るならば。
 だからこそ代替わりの際には自薦他薦ともに多くの候補者が立てられる——この候補者となる時点で、真っ当でまっさらなこれからの生活全てを手放すと知っていながら。
 その権力を手に入れることを、ガベルが喜ぶ、という可能性。
「……嬉しいのか?」
「いや全く」
「なんなんだ?」ライラックは益々怪訝そうに眉を寄せた。「アラスターに主席の魅力でもプレゼンされたか? 言っておくが、アラスターが主席を楽しめているのはな、仕事の大半を俺たちに放り投げて、安心安全のサイボーグセキュリティを横に置いて、それから頭のネジを全部抜いて捨てたからだ」
「いや——だから、ライラック」
「なんだよ」
「君は、俺が権力を欲しがらないと考えて、裏組織でそれを得ることが俺の苦痛になると考えたと。だから俺への復讐方法として、これを選んだ」
 しかしそれは、とそこまで言って、ガベルは視線を彷徨わせた。百戦百勝の弁護士時代も、アラスターを前にしても見せることのなかったあまりに無防備な視線の動き。
 
「君はそんなに俺が、良い人だと信じているのか?」

 黙認されてきた歴史と権力。罷り通ってきた裏の世界。
 集った権力者の投票、選ばれる主席。それに傅く大勢の人々。
 たかだか形式美のため、忠誠のために子供の体に喜んで刃を突き立てる親。大人。
 ——それら全ては、ガベル・ソーンにとって「憎むべきもの」だという確信。
 その確信が、前提があってこそ、「ロスロンドの主席に据えてやれば彼は苦しむ」という帰結に至る。
 悪を憎み、支配を憎む男だから、その役割を強いられれば、それが何よりの地獄になると。
 それはガベル・ソーンが「善人」だから成立する理論だ。
 ライラックは今ある全てを、ガベルが憎むと信じている。
 きっとガベルはこれを受け入れないと信じている。
「————、——」
 ライラックは無意識の確信を突きつけられ、絶句した。
 絶句しているうちに、ガベルが膝を近づけていることに気づくのが遅れた。
「ライラック、」
 あたりはもうずいぶん暗くなっていた。空はほとんど紺色に近く、かろうじて遠くの端に西陽の残滓が赤く光っている。
「ライラック、顔を見せてくれ」
 ガベルの両手がライラックの顎と頬に添えられる。ライラックはサングラス越しに地面の雑草を見ていた。
 だがガベルの手はかすかな力でライラックの顎を上向かせ、そして右手はサングラスまで外した。
「君のそんな顔は初めて見た」
「満足か? ああ、そうだろうな、俺も初めて見たよ、お前のそんな意地の悪い顔は」
「ライラック、俺はきっと、君の何年もの苦悩と忍耐をふいにするだろう」
 ガベルは目を伏せ、少しばかりライラックから目を逸らした。
「君のご両親のことは……知らなかったとはいえ、俺にも責任はある。君が俺を憎むのも当然だ。俺にとってそうでなくとも、君にとってフレデリクが大切な人間だったということも、また事実だ。俺は多くのものを君から奪ったんだろう」
「だが、それと同じように、俺はフレデリクの行いを肯定できないし、アラスター氏の後任になることを容認できない。この国の裏側に住むことが、まだ君の望みだとしても、俺はそれを受け入れることはできない」
 ライラック、とガベルが呼んだ。
 ライラックの背中に懐かしい痛みが走った。ひりつくような痛みと、それを撫でてくれた指先の感触。
 ガベルは知る由もないだろうが、今の彼の目は、まさにフレデリクのそれと同じだった。
「君が俺のために捧げてくれた時間も、地獄も、俺が台無しにする」
 だが——ライラックは知っている。フレデリクはあの目もあの声も、分け隔てなく与えていた。
 ライラックは知っている。あの日、フレデリクが自分を慰めたのも、偶然に過ぎないと。ただ自分が、一番手前の処置台にいたからに過ぎないと。
「君が俺にくれたものに比べれば貧相だが、せめて君が信じた俺の振る舞いで君に報いるよ。君が俺を憎むか愛するか、決められるように」
 そう言って、ガベルはライラックの顔から手を離した。サングラスはライラックのスーツの胸ポケットへ戻された。
「……ここまで熱烈な告白をしておいてキスの一つもなしか?」
「してもいいが」ガベルは既に立ち上がっていた。「いや、やはり駄目だ。こういうことは本来双方の同意があって初めてすべきことで、そもそも君がしてきたのも、相手が俺だったから良かったようなもので」
「堅物め。アラスターに丸め込まれるに一票」
「君が茶々を入れて助けるに一票」
 暗い空を指したライラックの人差し指が折れる。
 首を捻って振り返れば、もう裁判所の方へ歩き出したガベルはまだ人指し指を立ててていた。まるで呑気な、地獄へ向かうにあるまじき仕草だった。
 間も無く他の候補者も集った頃だろう。次期主席の投票が間も無く始まる。
 ライラックは奥歯を舌で舐めた。それから立ち上がり、サングラスをかけてガベルを追った。何が起きるとしても、出来ることはこれで全てだ。

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