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ライラックとガベル第9話「ホーム・スイート・ホーム」


 ロスロンドを訪れるたび思う。
 ここは時間が止まっている、と。
 
 いや、より正確に言うなら、ロスロンドは世界中のこれまでの歴史から最も穏やかで変哲のない一日を取り出して、その一日を延々と焼き増しして繰り返しているようだ。
 一年もその通りだ。地面に生い茂る芝の色が青から段々とくすみ、木々の葉が落ち、雪が降って、全てが白紙になってまた去年と同じ季節が寸分違わず書き起こされる。
 はじめと終わりが結びついた一本の輪のように、ロスロンドは完成して完結している。真新しさも何もない、寂れた田舎町。
 ————ただし、ロスロンドというその田舎町はオージアという国の一部でありながら、ロスロンドという一本の輪は、オージアという国を囲っている。
 まるで巨大な蛇のようなロスロンドという存在は、地図に記された境界を嘲笑うように、この国という大きな巣穴に悠々と横たわっている。
 他のどの町が合併されても、吸収されても、当然のようにロスロンドという名前は失われない。盲点のように、確かにそこにあるのに、誰もそれを問題視しない。
 ロスロンドといういきものに出会ったことがある少数の人間でさえ——彼らは、いやだからこそ、もはや手に負えないまでに肥え太り、自分たちの踏みしめる、真新しいアスファルトの真下で悠々と眠っているそれについて、それを知らない人たちと同じふりをする他ない。
 
「原初の楽園で、原初の人間は罪の果実を食べたね」
 
 耳に心地よい声だ。
 途方もない飢えと渇きをもたらす砂漠の最中、ポツンと降ってきた雨の一雫のように、その声は肌に染み渡る。
「その果実をそそのかした原初の蛇は、さながら詐欺師のように謳われる。だがあの蛇は、人間の欲を証左したとも言えるのじゃないだろうか? 食べてはならぬと言われた規則を、果たしてこの人間というものは守れるか、とね」
「まあ、結果はご覧の通りだ。自分の首を握ってご覧」
 そう言って、帽子を目深に被った男が——父が微笑む。
 父が室内でも帽子を脱いでいる姿を見たことはない。だから記憶の中の父の顔には常に濃い影が差し、髪の色さえ知らないのだ。
 息子の自分でさえ。
「そう、ガベル。その手のひらに感じるものが、原初、我々の罪の証だ」
 父が——フレデリク・ソーンが静かに告げる。不自由なところなど何一つないのにいつも手に持っていた杖に両手を重ね、三揃いのスーツ、ぴかぴかに磨き抜かれた革靴。
 そして唯一それだけ覚えている、父の目。
 自分と同じ、濃いブラウンの瞳。
「生まれながらにして罪を負った我々は、よりよい存在になりたいと願わずにはいられない。ひとかどの存在になりたいと、わけも知らずにただ、億年前からの贖罪を求めずにはいられない」
「方法は様々だ。友情、思いやり、富、時間、才能。罪を清算して余りある“よりよさ“を、よりよいものになりたいと誰もが望んでいる」
「そして誰もが心のどこかで思っている。自分は特別な存在なのだ、と。今はまだ明らかになっていないが、いずれ時が来る、と」
「そしてそれは正しい」
 たかだか帽子一つ。つばもそう広くない帽子だというのに、父の顔に差す影はまるで夜のようだ。春の木漏れ日を浴びても、夏の日差しの中でも、雪の照り返しの中でも、父は常に暗闇を纏っていた。
 だからこそ、父の目にはいつも不思議な光があり。それに引き寄せられる虫のように人々が集った。
「死ぬ前にその日を迎えよう。私と出会った今日が、その日だ」
 老若男女が父に手を引かれ、手を触れられた途端、それまで父を睨みつけていた瞳からは反抗心や疑心が霧散し、恍惚としたもやに覆われ、頬が血色ばむ。
 ガベルは父がいつから、彼らを組織し始めたのかを知らない。ガベルが母という存在を知らないように。
 ガベルにとってフレデリクは、その存在を認知した時から大勢の人に囲まれていた。囲まれていながら常に孤高で、時として権力者として名だたる人物に滔々と言葉をかける時でさえ、熱心なようでいて全く別のことを考えているようだった。
「カランコ、マリー」
 父は特別花好きというわけではなかったはずだ。
「プリムラ、ローバイ、マーガレット」
 ただ単に、人の名前より花の名前の方がまだ覚えやすいし、いちいち組織の構成員同士で子供が生まれるたび求められる名付け親の役目を効率的にこなすため、彼はそうそう困ることない方法を取ったに過ぎない。
「ガベル」
 ロスロンドの最深部——幼い頃は、そこはただ、父とその友人たちの秘密基地だと信じていた——元最高裁判所の地下にある広い、広い講堂、磨き抜かれた燭台、目がまわるほど高い天井、美しい人々、駆け回る子供達。精悍で怪しげな背広の男たち。
 
 そして、子供の押し殺した泣き声が聞こえる、あの鍵のかかったドア。
 
「ガベル、そんなところで何をしているんだい」
「この向こうで誰かが泣いているんです」
「そうか」
「怪我をしているのだと思います、痛い、と」
「それで?」
「……ドアを開けられないでしょうか」
「私は鍵を持っていないんだ。残念ながら。それに、この部屋を使っているのは花売りたちだし、おそらく彼らの意思でやっていることだろう。好きにさせなさい」
「でも、泣いている声は子どもの声だ……」
「そうだね」
「彼らの意思でやっている、と言いますが。でもその“彼ら“というのは、子供たちではないですよね、フレデリク? 大人の意思と、その子供の意思は、必ずしも同じとは言えません」
 当時のガベルはまだ十になったばかりだというのにその口調だけ聞いた人は誰もが皆、高校生か少なくとも大人びた中学生であると考え、そしてまだ小学生に通っていると聞けば驚愕した。
 驚愕してその次に、ガベルがフレデリクの息子だと聞くと、今度は一様に訳知り顔で納得するのだ。それがいつもガベルにとっては不可解極まりなく、不愉快極まりなかった。
「教主様……」
 ガベルがこれまで何度叩いてもびくともしなかったドアは、フレデリクの小さなノック一つで容易く開いた。ドアを開けた初老の眼鏡をかけた温和そうな男は、薄暗い部屋の中から静々と歩み出て、深々とおじぎをした。
 まるで王を前にした騎士の如く首を垂れ、そしてもう一度あらわにしたその額にはうっすらと汗をかいていた。
「教主様、まだ途中でして、とてもお見せできる状態では……」
「構わない」フレデリクはあまりに優しすぎる声で言った。「大人でも泣いてしまうものがいる。彼らは幼いというのに非常に忍耐深いようだ——声をかけても?」
「ええ、ええ! 勿論ですとも……ただ……」
「起きていなくとも構わない。ただ声をかけたいだけなんだ」
 男はいよいよ感極まったと言わんばかりに、先端の鋭い金具を握ったままの右手に左手を重ね、手が白くなるほど握った。
 フレデリクが室内へ入るのに続いて、ガベルも中へ入った。
 室内は幅があまりなく、奥に長い構造だった。手前の方には器具や外部電源、コード、消毒液が整然と棚や机に整頓されている。
 衝立で遮られた向こうに、手術台にも似た細身のベッドが何台か間を開けて並べられていた。学校の保健室のようにそれぞれカーテンで区切られ、何もかも白い。
 一番手前のベッドにはガベルとそう年も変わらないだろう背丈の少年がうつ伏せになっていた。顔は枕に埋もれて見えないが、何も着ていない上半身の背中にびっしりと彫り込まれた蔦と葉のタトゥーはまだ赤黒く濡れて、なんとも言えない湿り気と熱を持っていた。背中それ自体が一匹の生き物のように汗ばんで、不規則で深く苦しげな呼吸に合わせて上下する。
 フレデリクはうつ伏せになって息も絶え絶えになっているその少年の枕元に立つと、汗で濡れたうなじに張り付いた髪をいくつかどかしてやった。それから冷えたその手でうなじを抑える。
 少年が呻いた。子供とは思えないほど低い声で。
「痛むかい?」
 フレデリクが少年の顔を覗き込むようにやや背中を丸める。少年の頭がかすかに動き、フレデリクの方を向いた。ちょうどベッドを挟んで反対側に立っていたガベルからは当然、少年の顔など見えない。
「辛いだろうに。よく耐えた」
 フレデリクの目が細くなる。「もうお休み——ヨーハン、夢から起きた時には、痛みは消えているとも」
 フレデリクがそう言うと、まるで手品のように少年はすぐ眠りに落ちたようだった。かろうじてフレデリクの方を向いていた頭と首からは完全に力が抜け、不規則だった呼吸は途端に長くゆったりとしたものになった。
 特殊な声質なのだろう、とガベルは子供ながらにフレデリクの才能の一つを見抜いていた。話術や彼の人心掌握の詳細は、ともすればフレデリク本人にさえ、説明できないものであった。
 小規模なNPOや福祉公社をはじめ、時には著名な学術委員会や政治にも影響力を持つ団体、時として政治家本人、資産家、学者らはこぞってフレデリクを頼りたがった。相談役、オブザーバー、顧問として。友として、兄として。
 ——この傷ついた少年にとっては?
 ガベルはぼんやりと、ゆるやかな落胆や失望、苛立ちのないまぜになった泥のような脳で考えた。フレデリクを教主と崇める団体の信者、その子供。
 まだ幼い子供の背中に、洗礼や儀式と称して刃物を突き立て、血を流させるような親の、子供。
 フレデリクの言葉ひとつで眠ってしまうような子供。
 ふと——脱力したついでにベッドの外へずり落ちたのだろう、投げ出された少年の左手が目に入る。
 何かを握っているのかと思った。はじめは。
 だが、少年の手には何も握られていなかった。
 ガベルはそっと少年の右手のひらを広げた。
 その手のひらにはいくつもの小さな赤い三日月が付いていた。いくつかは手のひらの皮膚を突き破って、血が溢れ、滲んでいる。
 よほど強く握り込んだのだろう。伸びてもいない爪だというのに、それが皮膚を突き破るほどだ。
 フレデリクは既に部屋を出ていた。他のベッドまで回るつもりはないのだろう、もとよりこの部屋に入るつもりもなかったのだ。だがガベルはまだそこに立ち尽くしていた。
 部屋の外で迎えの運転手と父が話す声が聞こえた。ロスロンドは夏の終わりから秋にかけて、いつも嵐が来る。雨が降り出す前に家に着けるようにと恭しく父に申し出る運転手の制服の胸ポケットには、防腐加工されたオレガノの花が差し込まれていた。青々とした一枚の葉が変身するかのように、その花弁は端にゆくほど淡く華やかな桃色に染まる。
「ガベル、車が来ている」
「はい」
 ガベルはそっと、自分の右手を見た。
 いつの間にか固く拳を作っていた右手のひらをゆっくりと開く。
 まだ幼く柔らかい手のひらだ。短く切り揃えられた爪だ。
 しかしその手のひらは、四つの赤黒い三日月が横一列に並んでいた。
 それはまるで、獣に噛まれた傷跡のようでもあった。」
「今、行きます」
 
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「男前になったな」
 開いたドアをわざわざノックしてから声をかける。元オージア最高裁判所の地下にいくつもある客間のうちの一室ではあるが、広い部屋に誂えられた家具はどれもアンティークであり、古くはあったが、古臭さとは無縁の瑞々しさと艶があった。
 それこそが、この既に無用の長物であるはずの最高裁判所が廃墟でないことの何よりの証拠だ。
「ダリア、化粧はしなくていいだろう。やけに手が震えているな、寒いのか?」
「黙れ、ライラック」
「お前の名誉を守ってやろうって俺の親切心を、どうしてお前は一度も信じちゃくれないんだ」
「貴様の顔面を赤く塗ってやってもいいんだぞ」
 細い顎のラインで綺麗に切り揃えられた髪を揺らし、ダリアと呼ばれたスーツ姿の女性はライラックを睨みつけた。濡れたような黒髪のショートヘアだが、二層にレイヤードされた髪の内側は真っ白に染められている。チークとリップを塗っていない代わりに、赤とグレーで縁取られた切長の瞳が冷酷なまでに艶かしい。
 ダリアはしかし、結局メイクを諦めたようだ。「教主様、私はこれで失礼致します」
 深々と腰を折ってなされた流麗な一礼に、ガベルは沈黙だけで答えた。事実としてミステリアスな美女とこれまで一時間近くこの部屋にいて、時には彼女に服を脱がされ、着せられ、あれこれと採寸のため指先を這わされても、ガベルは一言も、一瞥もくれなかった。
 この時でさえも、ダリアが部屋を出るまでガベルは何も言わなかった。
 ただ何も言わず、目の前に置かれた大きな鏡台の前に座り、鏡合わせになった自分の顔をじっと見据えている。
「わかるよ」
 鏡に映るガベルの肩をライラックが叩いた。「見惚れるほど男前だな、ガベル」
 ガベルは答えない。ライラックは眉を少し浮かべたが、文句は言わなかった。
 オージアの首都ミラリスからロスロンドへ車で来てからというもの、ガベルは誓いを立てた修道士のように沈黙を貫いていた。
「お気に召さないか? そのスーツは俺が選んだんだけどな」
 スーツ姿のガベルを見るのは久しぶりだ。本人も久しぶりに襟の詰まった服を着たことだろう。
 全体的に色味のない、白と黒の二色その濃淡と素材の質感を巧みに使い分けたダークカラーのスーツに、他の色が混じる余地のない黒の革靴。
「なあ、なんとか喋ってくれ。車に酔ったのか? 少し外でも歩こうか、お前のファンを引き連れて」
 ダリアはガベルの顔に何かを塗ることは到底できなかったようだが、辛うじてその御髪に触れる己のことは許せたらしい。オイルを含めたワックスで緩く束にされ、撫でつけられたダークブラウンの髪は完璧な仕上がりだった。
「ガベル、」
 ライラックはゆっくりとガベルの座る椅子の右の肘掛けに——もちろんそこにはガベルの手もあるが、手を重ねて、身を屈めた。
 顔が近づいても、ガベルの視線は鏡を向いている。鏡を見れば視線を合わせることは容易だったのかもしれない。それでもライラックは目の前のガベルに一層顔を近づけた。
「そうして黙っていると……」
 ライラックの口がガベルの乾いた右耳に触れた。
「フレデリクにそっくりだ」


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