見出し画像

ライラックとガベル 第14話「悪魔の取引」

 ロスロンドには毎年嵐が来る。
 ある決まった時期の、しかし夜のうちだけ激しい風雨がロスロンドを覆いつくす。夜が明ければ驚くほど静かで、木々や大地は雨に濡れて艶めき、その美しさは息をのむほどなのに、日が落ちるとそれらは一層濃い暗がりを連れてやってくる。
 
 このとき法廷に入り込んだのは、まさしくそれだった。
 
 扉は金属質の鍵と、何人もの人間で守られていた。だがその扉は開いた。
 静かに扉を押し開け、彼女はゆっくりと足を踏み入れた。
 彼女は恐ろしく痩せていて、湿り気を帯びた冷たい空気を全身に纏っていた。暗いブラウンの瞳は伏し目がちに痙攣を繰り返す。まつ毛は夜露に濡れていた。
 外はもう日が暮れたようだ。彼女の纏う全身が夜の訪れを告げていた。

 そこにいたのは一匹の狼だ。

 この場にいる全員が微動だにしなかった。聴衆の何人かは顔をこわばらせたきり、机に立てた爪は彼らを立ち上がらせはしなかった。
 あのアラスターでさえ沈黙し、目をすがめて彼女を見ていた。

「ライラ」

 ガベルが呼んだ。この期に及んでも冷静な声音で。隠しきれない親愛を込めて。
 ライラはその声に初めて視線を動かした。彼女の目がガベルを見つけると、まったく同じ色の視線が重なり合い、溶け合うように目の色がぐんと濃くなった。

 ライラは傍聴席の柵を音もなく飛び越え、そしてガベルのそばへ着地した。やはり音もなく。
 ライラはガベルの周囲をぐるりと一周した。彼女はガベルの血の匂いが彼の口の中から漂ってくること、それは誰かにつけられた傷ではないということを確かめた。

 彼女はガベルの無事を確かめると、それから周囲を一瞥し__その視線は最後にアラスターを向いた。
 アラスターは両手の指先を鏡合わせのようにくっつけて、そして出来た三角形からライラを見返した。
 そしてアラスターは手のひらで作った三角形の望遠鏡を下した。

「正直なところを言うと、いよいよ落胆を隠せない。フレデリクの息子よ、それが君の奥の手か? そこの死にかけの雌犬が私たち全員を噛み殺して、君を背中に乗せておうちまで送ってくれるのか?」

 ライラの眼球は不規則な痙攣を続けており、もはやアラスターを見つめてはいなかった。まるで骨格標本に毛足の長い絨毯を巻き付けたような彼女の体から漂う外気の湿った匂いと冷たさには、隠しきれない死の予感が混じっていた。
 彼女は四本の足で立っていたが、もしガベルが一歩でも横へどけたらその場に崩れ落ちたかもしれない。

 ガベルは数秒黙っていた。口を閉ざし、墓石のようにただそこへ突き立っていた。
 ライラはガベルの足に寄りかかり、短い息をしていた。
 驚くべきことに首都からこの辺境までその足だけで駆け抜けてきたのだ、この老いた狼は。そしてその代償は明らかだった。

「これから何が起きようと……」

 ガベルの声が微かに震えていた。気づいたのは、裁判員席より彼との距離が近いライラックやジンのみだったろう。

「勘違いするな。それは貴方の為の茶番ではない」

 ガベルが手を動かした。その手は傍らの狼の背を撫でた。
 優しい手つきだった。だがガベルの手が触れ、まるで方向を示すように背にひとすじ描いた途端、狼は突然唸りを上げ、弾丸のように飛び出した。

 悲鳴は上がらなかった。上げる暇もなかった。裁判員席にいた男女は鋼鉄の弾丸と化した狼から逃れるべく滅茶苦茶に逃げまどい、互いを押しのけあった。
 だが狼はそれらに目もくれず、机と、あるいは怯え逃げようとした人間の腕や頭を踏みつけてさらに駆けた。

 彼女はまさしく弾丸のように一直線で最上段まで駆けのぼってゆく。
 ジンが半歩動いた。
 だがアラスターは「構わん」と言うように左手を振った。
 その袖口から黒光りするなにかが滑り出る。
 狼は老人の眼前にたどり着いた。
 鋭い牙が晒け出される。
 白。

「時代は変わったな、同胞よ」

 黒。
 乾いた黒だ。

「いい時代になった。良い時代になった、なにせ今や___」

 アラスターの袖口から滑り出た黒い拳銃はアラスターの手の皺をなぞり、指の一つ一つと踊るように回転し、そして正しい位置へぴたりと収まった。
 激しいタンゴのひと場面のように、黒い銃身は上下逆さになって引き金をアラスターの小指に絡める。
 だが銃口の向きは変わらない。

「お前を殺すには指一本でいい」

 雷のような音だった。
 法廷のすべてが一瞬黒く塗りつぶされ、そこにいる全員が喉奥まで焼けつくような熱波を感じた。脳天からつま先まで稲妻が直撃し、貫かれたと誰もがそう信じた。
 実際それは正しく、不幸なことに息を吸わねば生きられない生物であるものたちは皆、不可視の熱波を飲み込んで痛む腹を抑えて椅子から転げ落ち、悲鳴を上げることも出来ずもんどりうった。

「ガベル!」

 ライラックは駆けだした。肩にあったジンの手は呆気なく離れた。
 寸でのところで、ライラックは床に焼け落ちた”なにか”へ触れようとするガベルの体を引き留めた。「止せ、触るんじゃない!」

 ガベルはそれでも呆然としたまま、鉄の匂いと白煙をまき散らす歪なそれの元へ行こうとした。「ガベル!」ライラックがその体に腕を巻き付け、耳元で叫んでも、ガベルの見開かれた目には、ほんの数秒前まで自分の傍らに寄り添っていた親愛なるものの成れの果てしか映っていなかった。

 そこにあるのはただの焼け焦げた肉塊だった。かろうじて原型の面影はあるものの、焼かれ、床に落ちた衝撃で足が一本砕け散ったようだ。
 ほとんど肉や脂肪がなかったせいか、焼け焦げた狼の死骸からは不快な臭いはしなかった。まるで落雷を受けて折れた木片のようなものが、それらしい焦げ付いた匂いを漂わせて転がっている。

「ライラ、」
「ガベル! しっかりしろ!」
「ライ…………」

 そのときだった。鼻歌が聞こえてきたのは。

「____、______♪」

 声の主は探すまでも無い。
 銀幕の俳優が如く、裁判員席の机の上をアラスターが歩いている。左手の小指には先ほど発砲した黒い拳銃がハンドバックのように揺れていた。その拳銃はひどく古く、そしてとても小さいものだった。回転式の弾倉を備えた小銃など、もはや愛好家でも一握りのもの好きが倉庫に仕舞っているかどうかだろう。
 
「____”言ったじゃないか、戻ってくるって”」

 ウェスタンで軽快なフォークソングだ。なにかの劇中歌かもしれない。
 陰気な酒屋の隅で口ずさむにはもってこいな、不穏で楽し気な歌だった。
 机にしがみついて呼吸を試みる他の候補者らや仲間と呼んだはずの男女が目に入っていないようにアラスターは(実際彼は目を閉じていた)それらの折れ曲がった腕を避けて歩き、ときにはつま先で蹴とばし、踏み超えた。

「”お前たちのなかで俺が貧しく老いたとき、必ず戻ると”」
「”お前たちの二倍の額で悪魔にオファーを出したんだ”」
「”彼はいい奴だったよ、足りない分はあの世払いでいいってさ”」
「”もう会ったか? そんなら命乞いついでによろしく伝えてくれ”____」

 アラスターの履いた革靴が床を打った。机から降り立ち、左右の踵をぶつけて鳴らす。

「___”アラスターは良い奴だった、と”」

 最後の一節を歌い上げると、アラスターは閉じていた目をぱちっと開いた。
 少年時代の夢や情熱といった輝きを全て閉じ込めたような透き通ったブルーの瞳が輝いている。

「私は若者が大好きだ」唐突にアラスターが言った。笑顔で。「若いというだけで可能性に満ち溢れているからね。奴らは歴史に名を遺す偉人にも、あぜ道で野垂れ死ぬ浮浪者にもなれる。だが彼らは常に、自分が名を遺す側の人間だと信じている。誰かが自分の名前を一生覚えていてくれると____自分は誰の名前も覚えちゃいないくせに」

 アラスターの小指で小銃が一回転する。「つまり何が言いたいかというと」アラスターは親切な人がしばしばやる憐れみの視線をガベルへ贈った。

「つまり気を落とすなってことさ。ガベル、気を落とすなよ。そうしょんぼりしてたら楽しいことも面白いことも、なんだかつまらなくなってしまう。
 狼が一匹銃に撃たれて死んだだけじゃないか。そんなことより、服の流行とか、来月行く美容室のことを考えるといい」

 ガベルの全身に音も無く力が漲るのを感じ、ライラックは腕に力を込めた。
 腕の中で爆発が起きたような衝動にライラックは一度振り解かれかけたが、どうにかガベルの額がアラスターの顔を殴る寸前で引き戻す。

「落ち着け! この悪魔の言うことを真に受けるな!」
「真に受けるなとはどっちのことだ?」ガベルはアラスターを凝視したまま冷たい口調で尋ねた。「このふざけたじいさんの後継者になることか? それともライラを殺したことを”そんなこと”と抜かしたことか?」
「ガベル!」
「愚か者が___」

 ガベルが食い千切るように吐いた。「父もお前も、お前の取り巻きも全員愚か者だ。訳知り顔でふざけたことを言いやがって……」

 ガベルの聡明なブラウンの目は、今や夜に焚いた篝火のように暗く燃えていた。

「暴力を振るって他人を愚弄して満足か? 暴力に頼れば頼るほど、それは自分の無知と無能をひけらかしているのだと何故分からない? 暴力を恥とする感性が無いのなら、お前たちの存在は時代遅れだ」
「ハハ、いいぞガベル。さっきのつまらないスピーチよりずっといいぞ!」
「お前……何故……なんでお前のような人間に、彼女が……」
「ハハハ、年甲斐も無くどきどきするね、そんなに見つめられると」アラスターは両手を握り、肩を揺らして喜んだ。「俺もお前のような正義感気取りが大好きだぞ、見ていると、うん胸が痛いくらいにどきどきする」

 アラスターはそこで片目を瞑った。
 そして差し出したのは、左手に持っていた小銃だった。

「さあ、これを君に貸してあげよう」

 ガベルが手に取りやすいよう、持ち手の方をこちらへ向けてアラスターが銃を振る。あとはただ利き手を差し出し、ハンドルを握るだけだ。
 回転式弾倉のいいところは、一発撃つごとの装填が必要ないことだ。とはいえ現代の銃はどれもそうだが、この小銃には現代の銃にはないとっておきの魔法がかかっている。

「銃を使ったことはあるかな? なに簡単さ、心配いらない。馬鹿でも撃てるように作られたものだからね、君のような優等生なら目を瞑っていても撃てる」

 アラスターは首を小刻みに左右に傾げながら、銃をさらに差し出す。

「それは魔法の銃でね。それでいくら撃ったって罪にはならないんだ」
「だから心のままに、憎むものを撃ち砕くがいい。支配者とはそういうものだ」
「君が唯一のルールになる。躊躇わなくていい、君が自己紹介で言っていただろう? 君は優れた法律家だ。君が悪と思うものなら、きっとそれは誰にとっても悪だとも」

 簡単なことだ、とアラスターは言った。たったそれだけの簡単なことなのだと。

「手に持って、撃ちたいもののほうへ向けて、引き金を引く。お前がすべきことは、たったそれだけだ。ガベル・ソーン」

 ガベルの視線が動いた。これまでアラスターに釘付けだった目が、燃え盛るように揺れ、波打つようにさざめいているそのブラウンの水面に焦点はなかった。焦点も虹彩も瞳孔も、そして正気もすべて炎の中に沈んでいた。

「ガベル、よせ」

 かすかにガベルの右手が前へ動こうとしたのを察し、ライラックはガベルを抱き留める腕の力を最大限強めた。両足を床に突き刺すようにして、アラスターから離れる方へ体重をかけた。だがそれでもガベルは打ち付けた釘のようにびくともしない。

「ガベル! そんなもの持つな!」
「大丈夫、怖くなんてないさ」アラスターの声が毛布のようにやさしくかけられる。「君の心に従いたまえ。正義を愛する君の心ならば、きっと正しいことを示す、そうだろう?」


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?