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ライラックとガベル 第8話「ある季節の終わり」

 ライラック・ゼアロは敬虔な花売りの両親の間に生まれた。
 美しい母と美しい父からそれぞれ髪の色と目の形をそっくり引き継ぎ、自分だけの薄紫色の目の色を持って生まれてきた。
 息子にライラックの名前をつけた両親もまたそれぞれに花の名前を自分の名前としていた。母はアイリス、父はオレガノ。
「君のご両親が君にライラックの名前をつけた理由がわかった気がする」
 と、ガベルがそう言ったのも無理はない。誰もがライラックの目を見れば、彼の名前の由来を推して知る。

 だが致命的な間違いがある。ライラックの名づけは両親のいずれでもないということだ。

 ライラックは「ライラック」の名前を受けたのは五歳のとき、初めて洗礼を受けた際のことだ。
 ロスロンドの中央に聳える巨大な建築物。平和な市民にとっては文化財であり、老朽化の観点から立ち入り禁止のそれ——元・オージア最高裁判所。
 だがライラックにとってそこは家の次に通い慣れた場所だった。裁判所の周辺にある羊小屋、いつも売りに出されている無人の民家。それらいくつもある玄関を通って地下の大ホールへ行けば、あの日は五歳か六歳の子供でいっぱいだった。何人か見たことのある顔もいたが、ほとんどは見たこともない顔ぶれだった。
「さあ、ヨーハン、教主様におじぎをして」
 母に促され、ゆっくりゆっくりと進む列の一番前にやってきた時、ライラックの前には濃い青のスーツを身につけた紳士が立っていた。飴色のニスを塗った杖を白くきめ細やかで大きな手に持ち、背広と同じ色の帽子を目深にかぶっていた。
「顔を見せてごらん」
「ヨーハン、顔をよく見せて」
 齢五歳の子供にとっては、謎の男に顔を近づけることがどれだけ恐ろしかったか。それでも母は息子が自分の後ろに隠れることを許さなかった。ついには列の外から見守っていた父もやってきて、ついに子供は紳士の前に押し出された。
「いい子だ、綺麗な目の色をしているね」
 紳士が被っていた帽子がその顔をすっぽりと影に覆っていた。それでも紳士の顔立ちが整っていることは明らかだった。高い鼻筋と猫のような目はいかにも理知的で、その深いブラウンの色は何年も醸造された酒のように人を酔わせた。
「ライラック」
 紳士は十秒とかからず名前を決めた。「ライラックだ」
「ああ!」感極まった少女のように母が感嘆し、そばにいた父に抱き留められる。「素敵な名前だわ、よかったわね——ライラック」
 つい数分前まで別の名前で——生まれてからずっと呼んできた名前がまるで幻のように、母の声は既にそれを息子の名前として受け入れていた。
 紳士は喜ぶ父と母それぞれと握手を交わし、そして両親はライラックを連れ、既に洗礼を終えた別の家族たちと喜びを分かち合った。しかし分かち合い、状況をわかっているのは親ばかりで、ライラックを含めた子供たちはただただ退屈していた。
 だがその平和な退屈はすぐに終わった。
 終わって、そして二度と訪れることはなかった。
 
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「ライラック!」
 うららかな日差しの当たる木曜日の公園にふさわしい、真っ直ぐによく通る声だった。
 ライラックは手に持っていた文庫本から視線をあげ、ずっと遠くの人工芝の丘をゆっくりとこちらへ上ってくるガベルの姿を見た。
「……よう、先生」
「ああ」ガベルは息も切らさず丘を上りきり、ライラックが腰掛けるベンチの前までやってきた。「まさか君がいるとは思わなかった、今日は休みなのか?」
「デカい山が一つ片付いたんでね、担当の新入りともども、一周遅れの夏休みだ」
「いい時期に取ったよ。昼間でもずいぶん涼しくなったし、何より湿気がない」
「一人か?」
「ライラは定期検査で今日と明日は入院だ。今しがた車で送ってきた」
 ガベルも休日なのだろう。気が引けるほど真っ白いシャツにジーンズというラフな格好でベンチに座る様子は、恋人を待っている健気な男にしか見えない。
「君もバザーを見にきたのか?」
「ん」
「今日は特に人が多いと思ったら、野外ライブもやるようだ。何組か外国から有名なミュージシャンも来るらしい」
「————ん」
 二人の座っているゆるやかな丘では同じように点在するベンチに座っている老夫婦や、芝の上にそのまま寝転がっている若者、家族連れらしい、シートを敷いてビスケット缶を開けようと格闘している子供を見守る男女がいた。
 バザーは丘を下った先の広々としたエリアで開かれていた。小高い丘から見下ろせば、いろとりどりのシートやテントがパッチワークのように広がって、その奥に木造のステージがある。いつもはおとなしいパステルカラーの垂れ幕ばかり飾っているそこに、今日は漆黒のアンプやライトが並べられ、地元有志や海外からのミュージシャンが入れ替わり立ち替わり上がっては演奏やダンスを披露している。
 バザーの顔ぶれも飲食が多いのはそのせいだろう。酒類はないにしても、この日広々とした公演は海外からの旅行客も多いようだった。
「ライラック?」
「ん?」
「君、さっきから、ん、としか言わないが。何か食べているのか?」
「んん」
「うん?」
 ライラックはひとしきり口元をもごもごとしてから、ついに「いや」と喋った。「実は最近歯医者にかかって奥歯を削ったんだよ。それで妙にくすぐったいんだ」
「虫歯か?」
「そう。虫歯を仕込んできた」
「虫歯を?」
「虫歯だけじゃない」ライラックは本を閉じた。「面白いものをたくさん詰めてきた。ポッピングガムにチョコレート、発信機。これでいつ遭難しても安心だ」
「……そいつはいいな」
「おい、対話を諦めるな」
「君が頓珍漢なことばかり言うからだ」
 ガベルは足を組み、そしてやや前傾するようにしてライラックの顔を覗き込んだ。
「でも、いつもの君に戻ったな」
「その言い方だと、俺がいつも頓珍漢みたいだな」
「声をかけるより前に君に気付いてはいたんだ」ガベルはそこだけ人工芝が刈り込まれ、弾性アスファルトが敷かれた道を指差した。それはガベル自身がのぼってきた一本道だった。「しかし思い悩んでいるように見えたから、声をかけるか迷った」
「歯が痛くてな。でも俺のしかめ面なんて早々お目にかかれるもんじゃない。今日のお前の運勢は最高だ、ガベル」
「ああ、うん。ありがとう」
「だから対話を諦めるなって」
「ははは……」
 笑うガベルの声が、しかし止む。

 いつの間にそこにいたのか、ベンチに座る二人の前に一人の少女が立っていた。黒い髪を丸い顎のラインで綺麗に切り揃え、鼠ようなつぶらな瞳をしてじっとそこにいる。生成りのシャツワンピースを身につけて、右膝には犬のキャラクターが印刷された絆創膏を貼っていた。
「こんにちはお嬢さん、何か手助けが必要かな?」
 あっさりとガベルはそう言った。あまりにも平然として颯爽とそんなことを言われたもので、かえって少女の方がたじろいでしまい、小さな両手に挟んだキッチンペーパーの包みを持って少女はもじもじとした。
 ガベルが一瞬視線を逸らし、少女の両親がそばのレジャーシートに座っている男女だと確認した。男女はガベルの視線に対し、小さく頷くような会釈をした。
 再びガベルの深いブラウンの目が少女を見た。そっとベンチから腰を上げると、少女の前で両膝をついて視線を合わせる。
「なにかいい匂いがするね。素敵なものを持っているのかな」
 少女はまだもじもじしていたが、やがて蚊の鳴くような声で「ビスケット」と言った。「ママの、買ってくれたの、パパと」
「見てもいい?」
「ん」
 少女は頷き、両手に持っていたキッチンペーパーがガベルの指で広げられるのを見守った。
 そこにはおおよそ十枚ほどの様々な形と色をしたビスケットが詰まっていた。
「あげる」少女が出しぬけに言った。「お兄ちゃんにあげる」
「俺に?」
「ん」
「こんなにたくさん、貰ってもいいの?」
「いっぱいあるから」少女は早口で言った。「あげる、いいよ」
 ガベルは目を細くして「ありがとう」とビスケットを丁重に受け取った。まるで姫から褒美を下賜された騎士のような手つきだった。 
 下賜し終えた小さな姫はそれきり、子鹿のように両親の元へ走り帰ると、母親の膝に抱きつくようにして顔を隠してしまった。ガベルは笑顔で手を振る両親へ手を振りかえし、再びベンチに座った。
「本当に運がいいみたいだ」
「言ったろ、今日は最高だって」
「ライラック、君はどれがいい」
「俺はいい」
 ライラックは差し出されたビスケットに目を伏せた。一度だけ歯を見せる。「歯医者にかかったばかりなんだ。しばらく自粛するよ」
 ガベルはそうかと言って、まず一つ、表面に砂糖をまぶしたビスケットを選んで食べた。香ばしい音とバターの香りが一瞬広がり、乾いた風と歓声に押し流される。
「……今日来てるミュージシャンっていうのは、そんなに有名なのか?」
 ライラックはさほど興味があるようにも見えない風に尋ねた。ガベルはビスケットを齧りながら、自分もさほど詳しくはないと言いつつ遠くの野外ステージに目を凝らした。
「ああ、あの二人組は見たことがある。公国のバンドマンだったかな、最近は寧ろ公国の外で見る方が多いぐらいじゃないか? 最近は化粧品の広告でも見かけた気がする」
「そんな有名人を引っ張ってくるとは、区役所はずいぶん潤ってるらしいな」
「まあ、今の市長は革新派を称して当選し続けているからね。新しいものに目がないんじゃないか」
「新しいものに触れるのはいいことだ。骨董品には骨董品の良さがあるが、あれは黙っているから古さも美しく見えるだけで、喋ったり動いたりするものは、何かしら常に新しくなきゃいけない」
 ガベルはビスケットを半分ほど食べ終えていた。
 そして次の一枚を手に取り、しかしそれを口に運ぼうとはしなかった。
 野外ステージの方から低いエレキギターの音と歓声が響いてくるが、距離のためにどこか人事のようにくぐもって聞こえた。

「——ライラック、きみ、やっぱり何か悩んでいるんじゃないか?」
「人生に悩みのない人間なんているか?」
「君が手助けを必要としないなら、もちろん俺は手を出さないが……」
 ガベルが数秒黙った。それでも結局、言うことにしたようだ。
「しかし、君が本当に助けを求めていないなら、君は悩んでいることを俺に悟らせることすらしなかったはずだ」
 ライラックは口元に微笑みをたずさえていたが、目は明後日のほうを見ていた。
 そしてそのまま、不意の風に煽られたようにしてこぼした。
「言いたくないんだ」
 と。それから首を縮め、顔を傾けて、かすかに眉を寄せる。
「いや、言いたくないというのは少し違うな。俺の本心なら、それを思うまま口にできるのが一番いいだろう。俺が悩んでいるのは、つまり、それを言った時に起きることだ」
「他人を侮辱するような言葉じゃないだろう?」
「聞きようによっては、そう聞こえるかもしれない」
「なら尚更、聞いてみないとわからないな」ガベルは穏やかに言った。「他人を傷つけることにそこまで慎重になる人間が、果たして言葉一つでどこまで他人を侮辱できるか、むしろ興味が出てきた」
 ライラックはその返答を聞き、柔らかな溜息をついた。
「ガベル」
「うん?」
「好きだって言ったらどうする?」
 それは少なくともガベルが想定したどの質問でもなかったようだ。
 だがガベルが意表を突かれた顔をしたのは一瞬のことで、それから彼は聞き返した。
「誰が、誰を?」
「俺が」
 ライラックは言った。
 
「俺が、お前————の親父のことを」

 ガベルの目が音もなく見開かれる。その一センチもないはずの、一秒もかからなかったはずの動きが、ライラックにはひどくゆっくりと、焦らされているのかと思うほどつぶさに見てとれた。
 乾いた風が吹いた。遠くから空気の震えが伝わってきたが、歓声は耳に入らなかった。
「——どうして、」
 おそらく声を発していることすら自覚がないのだろう、瞬きもせず、ろくに口元も動かさずにガベルは言った。聡明な目はいまや相手の一挙一動に虚偽がないかを見定めんのばかりに聡く、鋭くはないが重くのしかかる。
「どうして、そこで、俺の父親が出るんだ」
「……俺がお前の父親を好きになっちゃいけない法律でもあるのか?」
 ライラックは手に持った文庫本の、それを覆う無地のクラフト紙でできたブックカバーを意味もなく指で撫でた。
「お前が褒めてくれた俺の名前だって、フレデリクがつけたものだ。俺を学校に通わせたのもな。まあ、しかしお前の言いたいことはわかるよ、そんなのはお前だけじゃないと言いたいんだろ?」
 ガベルは時が止まったように微動だにしない。眉ひとつ指先ひとつ動かさず、外界の全てと切り離されたかのように静止していた。
 だがライラックには彼の細い呼吸の音がはっきりと聞こえていた。そして周囲の芝が折れ、擦れるかすかな音さえも。
「俺はフレデリクのことが好きだが——フレデリクのことが好きなのは、ああ、俺だけじゃない」
 ガベル、とライラックは呼んだ。
「俺たちはみんな、お前が嫌いなお前の父親のことが大好きなんだ」
 ガベルもようやく気づいたらしい。
 レジャーシートでピクニックに興じていた男女がじっとこちらを見ている。彼らはガベルが自分たちを見た時、満面の笑みで深々と頭を下げた。和やかにそこへ座ったまま。
 芝生に寝転がっていた若者が上半身を起こしてじっとガベルの顔を凝視している。彼はガベルの顔が自分に向けられると、まるで夢で何度も会っていた存在とようやく現実で出会えたような顔をした。
 少し離れた位置にあるベンチに腰掛けていた老夫婦は互いに手を取り合い、ずっと前からの知り合いのようにガベルへ優しい眼差しをまっすぐに投げかけてやまない。
 そして、ビスケットをガベルに手渡した少女もまたガベルを見つめている。
 少女は恥ずかしそうに、丸みを帯びた短い指でガベルを指した。そして言った。
「きょうしゅさま」
 少女の着ているワンピースの襟にはチューリップの花がワッペンで縫い付けられていた。
 少女の両親と思しき男女のそばに置かれたバスケットには白いカーネーションが差し込まれていた。
 長すぎる昼寝から完全に目覚めた若者のジーンズのポケットにはガーベラが一輪包まれており。
 老夫婦の着ている背広とワンピースの胸ポケットにはそれぞれアザレアが色違いで。
 そして、ガベルの隣に座っているライラックの手にした文庫本。
 その頁にはライラックを押し花にした栞が挟まれている。
「ライラック、」
「ああ」
 ガベルの呼ぶ声と、ライラックの答える声は色が真逆だった。既に周囲にいる花を携えた老若男女はガベルを取り囲み、ただその一挙一動を注目している。
 それは期待の眼差しでもあり、同時に、野生の動物が持つような眼差しだった。
「長い家出だったな、ガベル。楽しんだか?」
 ライラックは微笑んだ。
「帰ろうか。皆、お前を待ってる」
 ガベルが初めてその感情をライラックへ向けた。
 遠くから幻聴のように歓声がハウリングして聞こえた。他人事のように盛大な拍手と共に。
 ライラックはその感情を真正面から受け止めた。
 軽蔑ではない。意外なことに。
 混乱でもない。もう事態を把握している。
 
 そこにあるのはただひたすらにまっすぐな、友人を失ったことへの悲しみだった。
 

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