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ライラックとガベル 第6話「小説より奇なり」

 テレビの方から立て続けに野太い悲鳴や怒号が上がった。だがライラックもガベルも視線こそテレビに向けていたが、擦り切れるほど見たお馴染みのその映画のストーリーなど、今夜は何一つ気に留めていなかった。
「ライラもその家では俺と同じような立場だった——と、少なくとも当時の俺は勝手にシンパシーを感じて彼女の後を追っかけたものだよ。実際彼女も、俺が家の中より外で牛の相手をしていることが多いから、すぐに打ち解けることができた。何より彼女も俺も、同じ匂いをさせていたから」
 草と土、乾燥した牛糞の匂い。
 不思議なことにそれらは、よく晴れた日に干したシーツと匂いが似ているのだとガベルは言った。穏やかで優しい口調だった。ライラックは相槌を打てなかった。
「大学に進学してからは、年に数回の帰省したタイミングでしか会えなかったが、それでも彼女のことを忘れたことはない。彼女にとっての俺はきっと、俺にとっての彼女ほど重要な存在ではないだろうが、それで俺の気持ちが変わるわけじゃない」
「……だから、彼女を引き取ったのか?」
「初めはモンドーレスから相談があった。そもそも生き物を相手にする仕事をしているんだ、モンドーレスの家じゃライラを付きっきりで見ていることは出来ないし、何より夫婦も年齢が年齢だ。その点俺は融通が効いた」
「愛だな、先生」
 その言葉に初めてガベルの表情に影が差した。理知的な男の顔を形作る骨の凹凸に沿って生み出されるそれは複雑で薄暗い。
「客観的に見て、自分が少々異常だというのは理解しているよ」
「ん?」
「彼女自身がはっきりと意思表示したわけじゃない。モンドーレスを離れて、俺と一緒に暮らすことを」
「その言葉は、相手に意思があって、相手自身の意思が最も尊重されるべきだ、という思想を持っているからこそのものだな」
 ライラックはガベルの思い悩みをまるで埃か何かのように片手で払った。
「お前がそういう思想を持っているという時点で、少なくともライラにとって最悪のケースじゃあないだろう。“親切で客観的に状態を見守ってくれる第三者は得難いもの“——だったか? お前にとって俺がそれなら、ライラにとってはお前がそれだ、ガベル」
 ガベルは僅かに瞠目し、それからわかりやすく頬を緩めた。顔の緊張がほどけて、差していた影が音もなく消える。
「つくづく君は……どうしてそう俺が欲しい言葉を言い当ててしまうんだ? 俺ですら、君に言われるまでどんな言葉が欲しいかわかっていないのに」
「そんなの簡単だろ?」
 おもむろにライラックがソファの背もたれの向こうへ腕を投げ出し、ガベルの方へ顔を近づける。反射的にそちらも向き合ったガベルの顔を真正面から見据えた。サングラスのブリッジを押し上げ、薄く青紫が入ったレンズ越しに瞬きもせず見つめる。
「こうして相手の顔を見て、瞬きを我慢するんだ」
 ライラックはサングラス越しでもわかるように目を大きく開き、そしてガベルの押し上げられた瞼が次に落ちる一瞬を待った。
 そうして驚くべき反射神経で、ライラックはガベルと全く同じタイミングで瞬きをした。
 ライラックは一秒ほど目を閉じていた。不思議なことに、ガベルは何ら指示を受けていないにも関わらず、ライラックと同じようにきっかり一秒目を閉じた。それから二人は全く同じタイミングでまた目を開いた。
「こうすると、相手の考えていることがすっかり写し取れるって寸法だ」
「……本当に?」
「おいおい、そっちが聞いたから、俺はとっておきの秘密を教えたんだぞ」
「俺の考えていることが分かるのか?」
 ライラックは微笑み、頷いた。
 テレビからは穏やかなクラシックが流れている。もはやストーリーがどこまで進んでいるか定かでない。ただ画面には、光の差し込む室内での銃撃戦が描かれている。モノトーンの色調、極限までスローモーションにされた映像の中で、額に穴を開けた寄り目の男が崩れ落ち、書類が舞い、酒の入ったグラスが無音で砕け散る。
 ライラックはさらにもう一段、ガベルに顔を近づけた。四足歩行の獣のように、両腕を柔らかいソファについて身を低く乗り出す。
「お前は今こう考えている——俺のこの刺青を、前にもどこかで見た覚えがあるような気がする、と」
 ガベルは聡明な眼を隠しもせずに曝け出した。「ライラック、君は心理学でも修めているのか」
「正解か?」
「正解だ。まさしく……そのことを考えていた」
「本当に正解なのか?」
「正解だよ」
「おっと」ライラックはばね仕掛けのように勢いよく身を引いた。「まさか本当に当たるとは思わなかった」
「ハッタリ、だったのか?」
「いやいや、ほら、心理学だ、心理学」
「ライラック、君……本気で感心したんだぞ」
「結果的に俺はお前の心を言い当てたじゃないか? 何がそんなに不服なんだ。大いに感心してくれ、なんなら心の友と呼んでくれてもいい」
「この野郎……」
 全く暴力性を持たないガベルの右の拳が振り上げられ、ゆっくりとライラックへ向かう。
「おいで」
 ライラックは優しく笑ってそれを受け止めた。まずは拳を左の手のひらで受け止め、ついで、不意に傾いたガベルの方を右手で。
「ほら、もっと寄りかかれよ」
 ライラックは自分の胸元に顔からゆっくりと墜落し、そしてそのまま滑り落ちようとしたガベルの上半身を抱いて引き留めた。
「俺の手を握れ、先生。それももう難しいか?」
 ライラックは気遣わしげに眉を寄せ、左の手のひらで包んだガベルの拳を指先で叩いた。だがガベルの拳は強張ったまま形を変えない。なのでライラックは自らの指をガベルの拳の内側へ潜り込ませるようにしてほぐし、やがて二人の指を交互に縫い合わせるようにして握り直した。
 そうして手のひらや指と指の間という、他人に滅多に触られることのない柔らかい肉の部分を刺激されて、ガベルがかすかに反応した。ライラックの肩口に力無く寄りかかっていた首が動き、もう閉じかけた瞼の奥から眼差しが問いかける。だが問いかけは問いかけでも、そこにあるのは文末の疑問符だけだ。もはや文節も言葉もなく、ただただ疑問の念だけがダークブラウンの瞳を埋め尽くしていた。
「お前が悪いんだ、ガベル」
 ライラックはゆったりと喋った。「お前が、毎日事務員に珈琲を淹れさせるような偉ぶった男だったら、少なくともこんなに手間は掛からなかった……」
 ガベルの意識はその言葉を最後まで聞いただろうか。それはさほど重要ではない。仮に音として聞いたとして、言葉を言葉として即座に理解するのは難しいことだったろう。
 意思を失い、脱力したガベルの全体重を受け止め、ライラックは溜息をついた。
 そして、まるでその溜息を聞き取ったかのように室内に軽やかなベルが鳴り響く。
 それは来客を告げる音だった。ただし、エントランスのオートロックセキュリティからの呼び出し音ではない。
 その音は、もうこの部屋の前までやってきた来客が鳴らす、二度目のベルだ。
「入ってこい」
 ライラックはソファでガベルを抱き留めたまま言った。さほど大きくない声だったが、やはり向こうには聞こえていたようだ。
 そうしてドアの開閉音がかすかに聞こえ、ジンは相変わらず平日の昼間と全く同じスーツ姿で現れた。
「首尾は?」
「見ての通りだ」
 簡潔な問いに簡潔な答え。だがその対となる簡潔なライラックの返答に、ジンは長い前髪から顕になった左目を冷ややかに細めた。氷を嵌め込んだような眼差しには暖色光に照らされたソファの上で折り重なり、抱きしめ合う男が二人いる。
「……最終的に仕事を済ませるなら構わないが、それ以上乳繰り合うなら私の目の届かない場所でやれ。見るにも聞くにも堪えない」
「聞くに堪えないのはお前の言動だろ」ライラックは身じろぎした。ガベルの右手を繋いでいた手を解き、正面から寄りかかられたその長身を抱き上げる。「寝室に寝かせてくる。他を頼む」
 返事はなかったが、ジンは真っ直ぐに奥の書斎の方向へ消えた。ライラックはガベルを抱えたまま寝室へ向かう。
 寝室には当然ライラがいたが、その両目は閉じられていた。だが流石に隣のベッドが軋むと、パッとその目が開く。
 ライラの目は即座に限界まで真横を見た。すぐ隣のベッドには、意識を失ったガベルが今まさに寝かされ、ライラックが母親のようにブランケットをかけてやるところだった。
「おやすみ」
 そう言ってガベルの顔にかかる前髪をどけてやってから、ライラックは静かにベッドのそばを離れて寝室のドアへ向かった。
 そしてライラの足元を過ぎる間際、横目でライラと視線が交わる。
 ライラックは足を止めた。あと数センチでドアノブを掴むだろう右手を中空に浮かべたまま、数秒ライラの見開かれた目を眺めていた。
「おやすみ、ライラ」
 ガベルによろしく。
 そう言い残し、ライラックは寝室を出て行った。
 

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