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ライラックとガベル 第7話「資産管理」

「——まあ、流石に目を覚ました時には混乱した様子だったが、存外すぐに立て直したよ」
 車はロックウィル法律事務所を出立してから一度も信号に捕まることなく進んでいた。茹だるような熱と日差しも、歩道を行き交うしかめ面の市民の内心も、窓を閉じて冷房を効かせた車内には関係ない。
 ライラックはハンドルを軽く握ったまま、フロントガラスに微笑みを反射させた。
「好みの男の寝顔っていうのはいいものだな。でも目が覚める瞬間はもっといい」
 後部座席のジンは黙ってメガサイズのアイスコーヒーを飲んでいる。事務所出立のその瞬間まで口元に浮かんでいた緩やかなカーブと放たれた優しげな吐息が嘘のようだ。今ジンから聞こえてくるのは、カフェの店員が張り切ってメガサイズのプラスチックカップに詰め込んだ氷がジンの歯で砕けて擦り潰される音のみ。
「俺が思うに、人が人を選ぶ理由っていうのは、もっとシンプルで直感的であるべきだ。紙の上にインクで記された文字や虫に喰われた資料に頼るから、その直感が鈍る」
 ガリ、ガリ。
「一体いつから、こんな面倒なことになってしまったんだろうな。いっそお上の方でジャンケンとか、徒競走で一番になったやつの言う事を聞く、とかにした方がいいんじゃないか?」
 ゴリ。
「ガベルを直に見たのは一昨日が初めてだろ? どうだった」
「——疑わしい」
「何が?」
「アラスターが見込むほどの人間には見えなかった」
「無理もない。お前が見たのは寝顔だったしな」
「曲がりなりにも一般人から候補を選んだ以上、よほどの風格を備えているのかと想定していたが、何もかも期待外れだった」
「もとよりお前の期待に応えられる人間なんているのか?」
「いる」
「アラスター以外で?」
「いる」
 ライラックは思わずバックミラーを凝視した。運転中だということも忘れて。
 鏡に映ったジンは窓の外を見ていた。癖のない長い髪をいつもの黒いスーツに垂らし、彫刻のようにぴくりともしない。手に持ったポップなカラーのプラスチックカップは空になっていた。あれだけ詰め込まれた氷もコーヒーも綺麗に消えている。
「冷房を強くするか?」
「いい。間も無く着く」
「クーラーボックスをいくつか買って、事務所と車にも積んでおくべきだな」
 ジンの言葉通り、車は首都ミラリスの近郊を離れ、やがて高層ビルも物珍しくなるほど閑静な住宅街へ入る。道路幅の広くとられた二車線道路、その両脇には指定通学路の看板ばかりが立ち並び、あちこちに通学する子供達への寛容と気遣いを求める看板や白線がある。
 それらをずっと通り抜けた先に、連なる軒先から一ブロックの空白を設けて建てられた平屋建てのコテージがある。人の住む家というよりも歴史資料館や私人の博物館に見えるのは、コテージの真横に立った三角屋根の高い塔とガラス張りの温室ゆえだろう。
 日に焼けた腕を晒して芝刈りをする若い庭師が門を開け、車はさほど熱心に舗装されていない白い土くれの一本道を進んでコテージの前に停まる。
 若い庭師が汗みずくの顎で温室の方を指した。
 果たして、ライラックとジンが三角屋根を目印に夏の庭を突っ切っていくと、そこだけ明らかに他より丁重に舗装された石畳の曲がりくねった道が土中から浮き上がり、終点にはガラスのドームがある。
 そしてドームの中では生成りのシャツを身につけた老人がハンモックに揺られていた。
「アラスター」
 まるで南国の避暑地さながら。巨大で複雑な葉を茂らせた樹木があちこちから突き出し、聳えて、冷房もないドームの中に神秘的な涼しさを生み出している。
「アラスター、来ましたよ」
 老人はなかなか目をさまさなかった。白いタオルを目元に乗せ、そばのミニテーブルでラジオを流して随分陽気な曲を流している。シャツとそう変わらない色合いのズボンから生える筋張った両足にビーチサンダルを引っ掛けて、楽しそうにむにゃむにゃと微睡んでいる。
 それでも何度か根気強く声をかけると、あるとき「ん?」と呻いて跳ね起きた。
「おや! もう約束の時間だったか」
 アイマスクがわりのタオルを退かすと、その下からは日焼けした縮緬皺の肌と、少年のようにみずみずしく輝くブルーの瞳が現れた。「ジン、ライラック——やあ、やあ私の可愛い若人たち。よく来た」
 ばね仕掛けの玩具のようにハンモックから降りて、アラスターはぐんと背伸びをした。そしていつものように二人を先導して歩き出す。向かう先にはいつも通り、ドーム内の水循環システムのついでに据え付けた小さな噴水とピクニックテーブルがある。
「アラスター、このような日に外で寝るな。焦げるぞ」
「焦げたくてやっているのさ、それにぐうすか寝ているように見えて、ミディアムレアになるよう気を払っている。君もどうだね、ジン?」
「理解出来ない趣向だ」
「シルヴェストスには海が二つもあるんだろう。実に羨ましい。焼き放題じゃあないか」
「浅瀬で無様にひっくり返って干からびるのを好むとは……」
「オージアには海がないからねえ、憧れゆえの愚行さ。憧れゆえに、真実とは程遠く、君たちからすれば私たちの行動は馬鹿馬鹿しいだろう。だが楽しい。それが愚行の唯一にして絶対の取り柄だからね——そうじゃないかな、ライラック?」
「たかだか日焼けするしないの話で討論する気にはなれませんね」
「確かにな!」
 アラスターは屈託のない笑い声を上げ、それが収まりきらないうちにピクニックテーブルに座った。ギンガムチェックのランチョンマットの上には三人分のカップがあり、そして結露をびっしりとつけた氷だからのバケツに突っ込まれたピッチャーがある。
 アラスターはピッチャーからハーブティをカップに注ぎ、二人の客人と自分の前に置いた。かすかに苦味のある爽やかなレモンの香りがした。
「飲みたまえ。ああ、ジン、君にはバケツの中の氷も贈呈しよう、好きなだけ食べなさい」
 まるで南国のリゾートにトリップしたような光景の中で、ライラックは言われた通りハーブティを一口飲んだ。そして義務を果たすなり、仕事用の鞄から厳封した書類を取り出した。
「定例の資産管理状況の報告を。国内口座の分は変動がありませんので簡略化してあります。外貨の将来価値と減価償却の見通しについては、特に危険視する点はありません。それから……」
「ああ、それらの資産については、後でゆっくりと目を通させてもらおう」
 ライラックが全てを言い終わらないうちにアラスターは書類を受け取り、それをテーブルの上に置いた。
「それで、今一番ホットな資産については?」
 アラスターがにこやかに尋ねる。まるで新作のゲーム機の発売を待ちわびる子供のような笑顔で。
「相変わらず。健康的かつ模範的に暮らしていますよ」
「まだライラとやらにお熱なのかい?」
「ええ」
「ライラはまだ死なないのか? もう碌に自分じゃ真っ直ぐ歩けもしないんだろう」
「医療技術の進歩でしょう。腕のいい医者もついてるようですし、ガベルも献身的です。ハウスキーパーに干渉する予定でしたが、ガベルが委託契約にあたり契約書へ細目を増やしていたおかげで、下手に買収するとこちらの尻尾を掴まれた危険がありました。その上今は本人が常に張り付いて離れません」
「ふーん」
 アラスターは楽しそうにカップを持ち上げ、水面を見つめた。
 そしてある時ふいに、透き通りすぎた青い目がライラックを見る。
「で、君も見事に手をこまねいていると」
「長期的なスパンでやってよいと言われた記憶がありますが」
「感動的なクライマックスが約束された名作でも、冗長すぎては飽きるし、文句を言われるものだよ」
「あの堅物の家に毎週通えるまでに俺が払った時間と労力を……」
「ジン」
 アラスターの声が割り込んだ。老人は悪戯っ子のような笑みを薄い唇に浮かべたまま、氷をカップに沈めているジンを見た。
「なんだ」
「ライラックの働きぶりはどうだね」
「少なくとも一昨日は半裸でガベル・ソーンと抱き合っていた。が、それまでだ」
「奥手になったのか? ライラック」
「慎み深いと仰っていただきたい」
 ライラックは言葉を短く区切って伝えた。「そもそも貴方が手荒な真似はしたくないなんて言うから、俺が青春映画を演じることになっていることをお忘れなく」
「確かに君にまどろっこしいキャストを頼んだのは私だが——」
 アラスターは白髪混じりの眉を浮かべ、反対に目を細めた。
「——だが、私は君が出演する映画のジャンルを変えろと言っただけだ。君は誰に頼まれるまでもなく、もとよりガベル・ソーンを探していただろう。ロスロンドじゅうの家々に媚を売ってベッドマットをひっくり返して回り、幹部どもの周到な隠蔽工作に歯軋りしながらも遠路はるばるミラリスまでやってきて……」
 アラスターは両腕を軽く広げた。椅子に深くもたれると、木製の背もたれが平和な音を立てて軋む。
 木漏れ日を顔じゅうに受け止めながら、アラスターは心地良さそうに目を閉じた。
「私がジンを送り込まなければ、君はあの日ガベルを八つ裂きにしていた。まだ二十歳やそこらの若人が、ただ若いというだけの、かけがえのない財産をつまらぬことで投げ打つところだった」
「お礼をしましょうか?」
 ライラックが目を細くして囁いた。「アラスター、今年で何歳でしたか? 貴方がまだ元気なら……」
「いいんだ」
 アラスターが木漏れ日を閉じた瞼に浴びたまま言った。「いいんだ——ジン、放してやりなさい」
 その言葉で、ジンは手を放した——ライラックの首から。
 一瞬前まで氷を触っていたジンの手は死神のように冷えていた。五本の指がライラックの首に走る最も太い血管をそれぞれ五つ捕まえるまでの動きを、ライラックは目で追うことが全く出来なかった。
 平和を象徴するようなピクニックテーブルの上に投げ出された一粒の氷はあっという間に溶けて水溜りになった。
「ライラック」
 椅子が軋む。アラスターは「よっこいしょ」とわざわざ声をあげて椅子に座り直す。そしてテーブルに両肘をついて乗り出した。
「君はよく知っているはずだ。ロスロンドに生まれた君なら。あそこがどんなに美しく、古く、腐って——この国の根っこに絡みついているか。どんなにこの国が表向きアスファルトを敷き、外国の真似事をして、電気を通し、夜の闇を照らしても——昼間の影までは消すことはできない」
 アラスターは孫に昔話を聞かせる祖父のように語った。微笑みながら。
「ロスロンドという辺鄙な土地を合併しようという話が首都議会で持ち上がらないのは、何も田舎過ぎてどの自治区も欲しがらないというわけじゃない。モンドーレスのように農産物の生産するために田畑の面積を減らせない土地より、古臭い美術館や劇場——そして最早使われることのない元最高裁判所があるだけの土地だ、更地にするには都合がいいだろうさ」
 淡い黄金色のハーブティーが入ったガラスのカップを揺らし、喉を潤す。
「だが、ロスロンドは今も地図にその名を残している。度重なる合併や再編では、“総合的観点から検討“して除外され——だというのに、そんな辺鄙な田舎に、毎年必ず首長は視察にやってくる。たった二台の車で目立たないように、要職たちが仲の良い学生のように肩を寄せやってくる。集まっていないと何もできないと言わんばかりに、仲良く手を繋いでやってくる」
 かつてその要職たちを出迎え、彼らが長々と語るおべっかを聞いた時のように、アラスターは悠然と寛いだ態度で語る。
「そういう場所なのだよ、ずっと昔からそうで、もはやどうしようなくそうなのだ。故に我々は常に、優れた後継者を探している」
「……ところで、貴方のたった一人の部下は、そんな貴方が選んだ後継者候補に懐疑的なようですが」
 新たにバケツから氷を取り出そうとしていたジンの指が止まる。それをライラックは視界の端に認めた。だが続けた。
「昔はあれだけいた取り巻きも、もう外注した彼だけなのですから、もう少しコミュニケーションを密にするべきでは?」
 ライラックは気遣わしげに眉を寄せてそう言った。だがアラスターはきょとんと瞬きをした後、チラッとジンを見て、むしろ嬉しそうな形の皺を目尻にあらわした。
「ジン、ガベルはお気に召さないかね」
「気に召さないな」ジンは雇い主に対してあまりにぞんざいに断言した。
「どうせ貧弱すぎるとかなんとかいうのだろう? 君に比べたら誰だってそうだとも、私だって君より優れている点といえば、夏の暑さに強いところぐらいさ」
「この催し自体、理解できないが。だがそうしなければならないというのであれば、アラスター、少なくとも他の老いぼれどもが選んだ後継者候補はまだ分かりやすい」
「分かりやすいって?」
「金か権力か血統、あるいは頭数。どれかで明らかに突出したものを持っている」
「それはそうだろうね。私はその何一つを重要視していないから」
 ジンが長い前髪から露出している方の眉を浮かべた。アラスターはにっかりとピエロのように笑い、今度はライラックを一瞥する。
 まるで大喧嘩をした兄弟を諌める親のような視線の動かし方をして、アラスターは再び口を開いた。
「私がガベル・ソーンをロスロンドの主席に招きたいのは、彼がイカれているからさ」
 そうだろう、とアラスターは笑顔のまま尋ねた。
 アラスターは同意を求めたのだ、ライラックに。
「しかも生まれながらにイカれている。これ以上に相応わしい後継者はいないよ、なあライラック、君もそう思うだろう」
 ライラックは沈黙を守りたがったが、アラスターはそれを許さなかった。
「ライラック・ゼアロ?」
 まるで恥ずかしがり屋の少女を促すように、アラスターは繰り返した。
 まるで断崖に立った人間の躊躇をふいにするそよ風のように、アラスターは軽やかに、容赦なく強要した。
「ライラック——もはやたった一人の、外注された私の取り巻きさん。私に従順を誓った若者よ、どうかこの老いぼれに代わって、そちらの私の友人に説明してくれないか?」
 ジンは不思議そうに、ただライラックが説明を始めるのを待っている。ジンにとってはアラスターの振る舞いは特に気にすることではないようだ。
「ライラック」
 アラスターが首を傾げて。
「ライラック、さあ——自分の口で説明しろ。今日はお口が空だろう」
 これ以上の猶予はなかった。アラスターは愚鈍な人間を嫌う。
 そのことはライラックも知っていた。身をもって知っている。
 この老人に——名前しか知らなかった、御伽話に出てくる怪物と同じように——実在するとは思わなかったあの日まで——出会ったあの日のうちに、そのことを思い知っていた。
 映画や売れないオカルト雑誌に載っているような怪奇現象。
 そんなこと起こるはずがないという前提があるからこそ笑って済ませられるそれらの中で生きているアラスターは、愚鈍すぎる人間には優しいが、中途半端に愚鈍な人間には容赦しない。
 そしてライラックは不幸にも中途半端だった。中途半端に頭を回してしまった。
 暗い森の中で狼に襲われた経験が災いして、それ以上の恐ろしいことはないと信じきっていた。獰猛な牙を持つ狼の背後に、もっと大きな獣がいることなど考えもしなかった。
 狼がうろつく野原を抜け出して、都市に来て、どうしてそこでもっと恐ろしい獣に襲われる可能性を考えられるだろう。
「ライラック」
 二本の腕と足を持つ獣が青々とした草の匂いを吐く。香草で本来の血生臭さを包み隠して。
「ガベルが——当時たった十歳の子供が、お前の両親にしたことを答えろ」
 ライラックはもはや体が震えたりはしなかった。これでも昔は、こういう場面でいちいち体が硬直したり喉がつっかえたりしたものだ。
 それでも残念に思うことだけはやめられなかった。自責の念にも駆られた。
 もしあの日、アラスターの誘いに乗らなければ、刑務所に入っていたかもしれないが、とにかくもう二度とこの手の仕事をすることはなかっただろう。仕事帰りのガベルをどうしたかはさておき、おそらく刑務工場で毛羽だったタオルを編んで、鋼材を運んで、味の薄い食事を食べて疲れて眠る日々を送っただろう。
 それでももう二度と、ロスロンドに関わらずに済んだ。
 ——けれどももう、それらはもしもの話だ。
 結局、あの日ライラックは自分で考えた地獄よりも、アラスターがデザインした地獄の方に魅了されてしまった。
 たった数秒、あるいは数分、我慢しても数日のうちに自分がもたらすことのできる残虐さの全てよりも、アラスターがその場で思いついた地獄のようがよっぽど残虐だった。
 そちらの方が相応しいと感じた。
 ガベル・ソーンと同じ血が流れているだけはある——むしろその源流にあたる、アラスターが思い描くそれの方が。
「あの男は……」
 あの男。
 あの少年には。
 それが他人の企みだろうがなんだろうが、より最高のクオリティで地獄を見せなければならない。
 大人の頭で考えた、ただ与えるだけの暴力よりももっと稚拙でダイレクトで、意地の悪い痛みがきっといい。
 綺麗な赤い血が流れるような傷の痛みより、傷が膿み、腐って虫に齧られる痛みの方がいい。
 きっとそれがいい。
「あの男は、俺の両親を殺した」
 きっとそれが、最もいいに違いない。

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