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ライラックとガベル第10話「フレデリクの息子」

「フレデリクにそっくりだ」
 声が声になる前に、まだそれが湿り気を帯びた熱でしかないうちに鼓膜へ吹き込む。
 ガベルの視線が初めて意思を伴った。ライラックは襟のひとつでも掴み上げられるつもりだった(ライラックも着替えを済ませていたが、別に構わなかった)
 だがガベルは視線を向けただけだった。太く、鋭い、セピア色の騎士道物語で振り回されていそうな、ひたすらに硬く鋭いそれを。
 決して人に向けていいものではないそれを向けられて、しかしライラックの胸中に込み上げてきたのは苛立ちでも戸惑いでもない。
 そこにあるのは止めどない興奮だった。
「————ライ、」
 分厚いクッションが嵌め込まれた椅子にゆったりと座るガベルの膝に横からライラックが乗り上げる。そのまま横抱きにされるように滑り込む様は大きな猫のようだった。
 そしてそのまま、ライラックはガベルの顔を掴んで引き寄せた。ちょうど開いた目の前の柔らかそうな穴に舌を突っ込んで、自分より高い体温を直に感じた。
 今度こそ殴られでもするかと思ったが、ガベルの手は椅子の肘置きを強く握っただけで動かなかった。
 二人の激しい殴打のような接吻はそれから数分続いた。
 最後に唇を食むようにしてから離れる。
「ライラック、」ガベルが待ちかねたように言った。「どうしてだ?」
「ん?」
 ライラックはガベルの膝に横向きに座ったまま足を組んだ。鏡台に映るガベルの顔はすっぽりとライラックの背中に覆われる。色の薄いグレーのスーツに黒のシャツ、スラックスの左腿にライラックの蕾がごく薄く彫りつけられていた。
 左腿にガベルの手を置かせてやって、自分は心置きなく組んだ足を肘置きに預ける。
「止せ」ガベルは微かに、だが明らかな嫌悪を見せた。「君のそんな振る舞いを見たくない」
「娼婦のようだって?」ライラックはずれたサングラスを直した。「お生憎だな、ガベル。俺にとっちゃ昼間にデスクへ八時間も行儀良く座ってる方が拷問だった」
 ガベルの右手を自分の左足に押し付けるようにしてライラックは言った。
「目を逸らすな。自分の友人がどんな人間なのかしっかり見ろ」
「ライラック……」
「いい子だ。口を開けろ」
 ガベルは顔を背けようとしたし、口を開いたのは拒否の言葉を発するためだった。だがライラックは構わずにもう一度口付けた。長らく離れていた恋人にするようにその顔を両手で包み、今度は優しく理性的に、何より精密に舌を使った。
 だが、二度目のそれは早々に終わった。扉の開く音がしたかと思うと、数歩の足音。
 ライラックの肩が掴まれ、強制的に引き剥がされる。そこに立っていたのはジンだった。
「いつまで乳繰り合ってる」
「シルヴェストス人にはムードってもんがないのか?」
「アラスターが待っている。支度が済んだなら行け」
 ガベルの膝の上でライラックは肩を掴まれ仰け反ったまま「わかったよ」とため息をついた。「続きはアラスターの長話が終わってからにしよう」
 ジンがまるで野良猫を摘み出すような手つきでライラックを持ち上げ、ガベルの上からどかす。そして二人へ顎で外を指示した。
 三人が部屋の外へ出ると、広く長い通路には大勢の老若男女がいた。バラバラに散らばって好きずきに雑談したり壁にもたれていたりしたが、扉が開いた瞬間全員が刮目する。もちろんその視線の先にいるのは着替えを済ませたガベルだ。
「教主様……」
 誰かが囁くように言う。するとさざなみが広がるように、あちこちから啜り泣くような声や感嘆するような息遣いが聞こえた。通路にいる老若男女は皆、何かしら花をモチーフにしたものを身につけており、中にはあの蔦のタトゥーが服では隠しきれずに露出しているものもいた。
「行け」
 ジンが口に出すまでもなく、ガベルは自分に向けられる全てに顔を背けて通路を歩き出した。何人かが彼の背広の袖にかすめさせようと指を伸ばすものもあったが、ガベルはそれを許さずに早足で進んだ。
「ライラック」
「ん?」
 ガベルから少し距離を空けて後ろをつづくジンが視線をよこす。ライラックはスラックスのポケットに両手を突っ込んで歩いていた。
「あの男はアラスターの意志に添う気はあるのか」
「どうかな。少なくともフレデリクの名前を出すとキレるぞ、今のガベルは」
「アラスターは時間を無駄にすべきではない」ジンは言った。「彼にはやるべきことが多い」
「老人にとっちゃ、若者との会話ほど楽しいことはないのさ。奪ってやるな、余生の楽しみを」
 突き当たりにある両手開きの扉にはドアマンが立っていた。つばのついた帽子を被った紳士風の男は近づいてくるガベルの顔を見るなり、一礼しながらドアを開ける。
 ——ひと昔前の貴族の晩餐会はおそらくこんな部屋で行われていたのだろう。
 縦に長く広い部屋と同じく、細く長いテーブルが一台、部屋の中央に鎮座している。
 火の消えた暖炉、鹿や猪といった獲物の首の剥製あるいは頭蓋骨が博物館のように左右の壁にかけられ、かと思えば実に家庭的な本棚には子供用の絵本が紛れている。
「やあ!」
 そして、テーブルの一番奥。お誕生日席と呼ばれるそこに、本当に今日は彼の誕生日で、バースデーパーティの主役であるかのような笑顔を浮かべて座っている老人。
 別荘の庭でハンモックに揺られていた老人は、今日もまたバカンス中のような格好だった。ジャケットからシャツ、スラックスまでナチュラルな白で、リネン素材らしい。
「ジン、ライラック、案内ご苦労。そこに紅茶があるから飲みなさい」
 アラスターはテーブルに広げていた雑誌を畳むと、席を立った。そしてテーブルを反時計回りに歩いて、優しげな眼差しのままガベルの前に来た。
「はじめまして、ガベル・ソーン。私はアラベ……本名は長いのでね、アラスターと呼んでくれ、皆そう呼ぶんだ。親しみを込めて」
「アラスターさん」
 ガベルの声は硬質だった。それは少なくとも懐かしい、二年前までは法廷でよく聞いていた声だった。
「あなたがどういう立場で、どういった目的で私を此処へ招集したのかを説明いただく必要はありません。私はそれを知るつもりはない。私の父にまつわる全てのことについて、私は全ての権利を放棄している。私と父は——フレデリク・ソーンは既に親子の関係を失っています」
 ガベルがぽかんとするアラスターに眉を寄せた。
「私があなたにお会いしたのは、少なからず私を此処へ呼びつけたその労力の対価をお支払いしたまでだ。話はこれで終わりです。私はミラリスへ戻ります」
 そこまで言うなり、ガベルは踵を返した。いくら広いとはいえ入ってきた扉へ戻るまで四歩で足りる。
 だが、掴んで引いた真鍮のノブはびくともしない。
「————はっはっは」
 施錠されたような音はなかった。そもそも部屋に入る時でさえ、ドアマンはただ扉を引いただけだ。
 だが現に、ドアノブはまるで塗り固められたようにびくともしない。
 びくともしないのだ。ガタガタと、下りた錠構造が擦れる音すらしない。
「やはりフレデリクの息子だな、君は」
 異様な雰囲気の中で、まるで別次元にいるようなアラスターだけが愉快そうだ。
 ドアノブを握ったまま振り返ったガベルの眼光を目にしてなおも、まるでアラスターは異国の露店で輝く土産物を見たように眉を浮かべただけだった。
「さあ、いつまでも立っていないで。座りたまえ、話をしよう」
「話は終わりと言ったはずです、アラスターさん」
「ああ、申し訳ないね、年寄りは耳が遠くっていけない」
 アラスターは眉を下げて、孫の我儘を聞かされた祖父らしく苦笑いをする。
「すまないが——もう一度言ってくれるかね?」
 と。
 アラスターが言う。
 その時ガベルは気づいた。視界の端でこちらに背を向けるようにして立っている長い銀髪の男がいること。
 その男がいつの間にか右手に白く薄い陶器の破片を手にして、それをライラックの首に突きつけている。
 そして彼の左手には、紅茶で濡れたソーサーと割れたティーカップがあることを。
「もう一度言ってごらん。どうしたんだい、そんなに怖い顔をして。ああ、」アラスターはひょいとジンやライラックのいる小ぶりな丸テーブルの方を見て「なに彼のことは気にする必要はないよ、花の一輪折れたところで、それはよくあることだ」
「これは歴とした脅迫罪に該当する」
「君は博識だな、そして度胸がある。そういえば元弁護士だったか。しかも負けなしの」
「彼を解放しろ」
 ガベルの態度にアラスターは少々虚を突かれたようだった。
「ライラック? 君からの定期報告では、君は攻略できていないという話だったと記憶しているが。しっかり落としているじゃないか」
「そう思うならこのイカれたバイオレンスサイボーグをどかしてくれないか?」ライラックが喉を陶器の破片で圧迫されたまま言った。「まだ紅茶にミルクを入れてない」
 アラスターは肩をすくめ、ぞんざいに手を振った。
 ジンが破片を握っていた手を下ろす。そして彼の手によって一部ちぎり取られた歪なティーカップの底にかろうじて残っていた紅茶を飲みながらスツールへ座った。
「これで君は私に要求を一つ飲ませた」
 アラスターは相変わらず朗らかに笑っていた。「では座りたまえ、君が本当に法を愛するものならば、平等の精神を無視して退室はするまい?」
 ガベルは黙ったままもう一度ドアノブを引いた。だがやはりびくともしない。
 ガベルは次にライラックを見た。ライラックは五体満足だったが、破片を押し当てられた首のあたりが微かに赤くなっていた。
 ライラックもそばのスツールに腰を下ろす。隣にはジンが座り、暇そうに虚空を見上げている。
「……」
 ガベルは巨大なテーブルに並ぶ椅子のうち、最も手前の、当初アラスターが座っていた席の正面にあたる椅子を引いた。
 アラスターは満足そうに頷き、そしてはじめの席につく。
「少々定刻を過ぎたが、それでは楽しいおしゃべりを始めよう」
 まず、そうだな、とアラスターは顎を撫でた。
「私が君を呼んだ理由について話すとするかな。君は知りたくもないと言ったが、なかなかどうしてそうはいかない——君は、フレデリクから“主席”という言葉を聞いたことはあるかね」
 ガベルが左眉を動かした。それから短く「言葉自体は」と述べた。
「よろしい。端的にいえば、主席というのはロスロンドの管理者のようなものだ。ああ、無論ロスロンドの市長とはまた別だ。そう言った意味では、主席の例えとして相応しいのはオージア首長か、少なくとも首都ミラリスのトップぐらいにはなる」
「とんだ買い被りだな」ガベルは一貫して無機質な声だった。「オージアの法律に表も裏もない。首長も市長も、それぞれ自治区に一人だけだ。貴方たちが自分をどう思っていようと、」
「しかし君は——」
 ゆるやかな波のように、アラスターの声がガベルの声を覆い隠した。
「——君は覚えているはずだ。ミラリスの前首長が、つまり今のオージア法務省の事務次官が——フレデリクの元に毎週通っていたことを」
 ガベルが口を半分開いたまま沈黙する。アラスターはテーブルに頬杖をついた。
「君はこう思っているんだろう。自分の父親や、私がしていることは、いい大人が長い間夢中になっているクラブ活動のようなものだ、と。他人との関わりが薄く、閉鎖的な田舎で娯楽に飢えすぎた老人たちが作り出した遊びだろうと。
 そして死の間際には、誰もが皆、馬鹿なことに夢中になったものだと笑い話にするんだろう、とね」
「だがそれは違う。圧倒的にな」

「だから君は恐ろしくなって、あの日——父親を始末したのだろう?

 音もなく。
 ただ音もなく。
 ガベルの静かな眼差しにたぎるような熱がこもるのを、見ていた。
 ライラックは。その様子を。
「実に素晴らしい手腕だった」アラスターは続けた。恍惚とさえ瞳を輝かせて。「現に、君の行為を裁く法律はどこにもない。君はただ自分の父親と話しただけだ。口論ですらなく、ただ会話をしただけ。
 だがそれだけで、あのフレデリクは嵐の夜に身を投げることとなった。誰もが恐れ、誰もが愛さざるを得なかったあの男が、死期を悟った猫のように夜の闇へ消え————そして二度と戻らなかった」
「……何がそれほど貴方を愉快にさせるのかわからない」
「当時、既に次期主席に内定していたフレデリクが失踪したために、私はロスロンドへ呼び戻される羽目になったというわけだ。これが笑わずにいられるか? 私は南国に半年分の仮別荘を購入していたんだぞ? 最高の隠居生活が目の前でパアだ」
 両手をぱっと広げ、そしてアラスターはコメディアンのような動きでもう一度頬杖をついた。呆れ果てたような顔を隠しもせずそこへ乗っける。
「そこからは地獄の日々だった——フレデリクという優秀な後継者を失った私は、もう一度仲間たちと後継者を探し始めたが、嘆かわしいことにフレデリクと競い合った若人たちは、フレデリクの信者たちに洗脳されていたし、その信者たちはフレデリクを失って暴走寸前だった」
 そんな折に————」
 分かりやすいまでに分かりやすく、アラスターが視線を投げかける。
 その先にいたのはライラックだ。スツールに足を組んで座り、ガベルを見つめていた男はハッとして、とうに冷めた紅茶を飲む。
「——実に将来有望な息子がいる、と聞いてね。有り合わせの後継者を据えるよりは、数年待って心から納得できる後継を据えようと、そういう話になったのさ。私と仲間たち、かつては互いを蹴落としあった我々で見込んだ若人を立て、その中から選ぼうじゃないか、と」
 節くれだったアラスターの人差し指が空気をまぜ、そしてガベルを一直線に指した。
「そして私は君を推薦する。フレデリクの息子、フレデリクを殺した張本人。これ以上の逸材はいない」
「何を勝手な……」
「勝手をしたのは君が先だ。私のバカンスをぶち壊しておいて、今日までぬくぬく生きてこられた幸運を一度でも感謝したかね? 私に」
「フレデリクの行為にも、貴方の戯言にも関わる気はない」
「関わりたくないものに関わらずに生きられるほど、人生は容易くはないのだよ」
「また私の友人に刃物を突きつけて脅迫する気か?」
「君が強情ならそうするほかないね、それか、あるいは」
 部屋のドアが開いた。あれほどまでにびくともしなかった扉が。
 入ってきたのは帽子を被った男たちだった。身なりの良い格好をしており、三人いた。三人ともガベルに一礼を送ってからアラスターの元へ行き、そして折り畳まれたブランケットを差し出した。
「ありがとう、肌寒い季節になったものだね」
 それは一枚のブランケットだった。男たちはそれを渡すなり、再び一礼して部屋を出ていく。
「秋物の服をまだ買っていなくてね。このシャツもジャケットも、通気性がよくて好きだが、流石にもう潮時だな」
 アラスターはブランケットを広げ、何度かはたいてから膝に乗せた。
「やあこれはいい毛布だ。手触りがいいし、すぐに暖かくなる」
 ガベルは硬直したままだった。これまで堅牢さを保っていたその目が初めて揺らいでいた。
 それを見透かすように、アラスターは言った。
「これは——ライラにあげるには少々勿体ないな、ガベル」
 そうして茶目っ気たっぷりにウインクをした。
 彼の膝に乗せられたクリーム色のブランケットは、間違えようもなく、今はミラリスの病院にいるはずのライラのものだった。

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