見出し画像

ライラックとガベル第16話「 die damn,it」

 夢見心地だった。
 ただその夢は、熱帯夜に魘されてみるような、陰気で扇情的な夢だ。

 吸い込むのも嫌になるほどの熱気で息をするのが苦しい。透明でありながら微温湯のようで、どこか脂ぎっている。
 着飾った男女が喉や腹をかきむしってアラスターの残した余熱に悶えている。言葉にならない慟哭と嗚咽が這いずる法廷の中、自分の脚で歩いているのは二人だけだ。
 ガベルは彼らを踏みつけこそしなかったが、その背を跨いでゆくことを厭わなかった。
 ライラックは自分がガベルの肩を借りて歩いているという状況を理解した。
 良くないとわかっているのに、そのことに優越感を感じずにはいられない自分がいることを、ライラックはよく理解した。

 終わったのか? とライラックは思った。
 恐ろしいもの、妨げなければならない最悪の事態、災厄そのもの、子どもを叱るために親たちが語る童話の怪物たち。
 それらすべては息を止め、古い夢と、もう誰にとっても定かでない思い出の中へ帰ったのだろうか?

「ガベル……」
「どうした?」

 ライラックは少し悩んだ。すべきことは決まっている。一度足を止めて、背後に倒れているであろう老人の死をよくよく確かめることだ。その首に空いた空洞を透かし見て、胸元に耳を当てて何も聞こえてこないことを確認することだ。
 あのブルーの瞳から輝きが消えるさまを、よくよく目の当たりにしなければならない。

 おそらくガベルがたった一人で背負ったそれらの堪えがたい恐怖を、せめて半分請け負わなければならないのに、当のガベルは足を止めない。

「ライラのこと、」ライラックは足を止めた。「最後の最後で……、すまない……」
 
 ガベルがライラックにつられて足を止める。再び歩き出そうとして、しかし靴底は床を離れない。
 ガベルが背後を振り返るまいと耐えているのがライラックにはわかった。
 ややあって、ガベルは「いいんだ」と言った。「君のせいじゃない。彼女はずっと前からこう生きると決めていた。彼女はああ生きると決めていて、今日までそう生きてきて、今日もそう生きた。それだけだ」

 もう行こう、とガベルはライラックの体に回した腕の力を強めた。

「ガベル」
「ライラック、今はまず君の手当だ。外に信頼できる人たちを呼んである」
「いつの間に?」
「秘密だ」
「……そうか」

 ガベルがライラックのために笑ったので、ライラックも笑った。だがそれがガベルには不思議だったようだ。両手から大量出血している男が、どうして急にニコニコしだしたのかと。「ライラック? どうして笑ってるんだ?」

「お前が誇らしくてさ……」

 ライラックの顎から皮脂の混じった冷や汗が垂れ落ちた。着ているスーツとシャツが内側から濡れて不愉快だったが、それでも今は笑うことが出来る。
 老人共はお前を羨み、お前の全てを若さと若さゆえの情熱で説明しようとした(何故ならそれは老人ではけして持ちえず、ゆえに仕方なしに負けを認めるかっこうの理屈だからだ)。
 だがガベルは情熱を頼りに此処へ来たのではない。情熱と若さで問題を解決できるなどと、そんな馬鹿げた信条はこれっぽっちも持ち合わせていない。
 正義や情熱は目的であって手段ではない。だから悪辣や堕落は彼に通用しない。

 ライラックは掠れた声で言った。「お前の近くにいると、なんだか、俺まで……」
 
 いい人間になれたような気がする、と言いたかったが、できなかった。鈍痛と寒気がないまぜになって込み上げた嘔吐感が喉を塞いだ。
 生温くぬめった何かで口の中が一杯になる。ライラックは嗚咽し、耐えた。顔色はもはや灰色に近い。
 排水溝の中身で作ったジャムのようなそれは間違いなくライラックの中身だ。それをライラックはガベルに見せたくなかった。「ライラック?」ガベルの声だけが聞こえた。

「堪えずに吐くんだ、あとはこの先の階段をのぼってしまえば、すぐ____」

 ガベルの声が途切れる。
 ライラックは力なく項垂れていたが、状況は分かりきっていた。

 法廷を出て、まっすぐに伸びる通路のつきあたり。
 薄暗く古びたそこは人だかりで一杯だ。
 無造作に倒れている背広の男たちについて、元よりガベルもライラックも気にしてはいなかったが、彼らもまたそうだ。
 彼らは涙ぐみ、そして歓声を必死にこらえている。
 統一感のない、けれども漲るような期待を秘めた正装の老若男女は、法廷から出てきたガベルを見て今にも全身が弾けそうな感動にうち震えている。

 渾身の力で顔を上げたというのに、現実はなんの面白みも無い。
 行く手を阻むように通路で待ち構えている嬉し気な面々ときたら、ライラックの想像そのものだ。
 その一番手前に突っ立っている暴力の化身さえも。

「ライラック」

 白、黒、白。
 通路の照明が怪しげに点滅する。
 照明のいくつかは床に落ちて蛍光灯が割れている。壁にもへこみがあった。
 その犯人であろうジンは、右腕から血を垂れ流したまま立っている。位置的にジンの後ろにいる信者たちが、まだかろうじて人の形を保って、静寂を保っているのはジンがいるからだろう。
 誰だって、右腕から血を垂れ流しても眉一つ動かさず、野生の狼と素手で殴りあうような男の前に出たいとは思うまい。

「ひどい顔色だ」
 ジンの声は淡々としたものだ。ライラックはガベルの肩に回したほうの手を小さく振るにとどめた。まだ口の中にはヘドロが纏わりついていた。
「とはいえ腕も足もついているか。つくづくアラスターは若者に甘い」
「ン……俺も、どうも昔から年上にもてるから、困ってるよ……」
「そうか」
「ジン」ライラックの声は掠れていた。「てっきり……出会い頭に挽肉にされると思ってたんだがな……」
「お前を引き裂いて擦り潰す。私とアラスターの間にそのような約定は無い」
「俺が、アラスターの身体に穴をひとつ増やしたとしてもか?」
「互いの愚行について、責に帰すべき点は大いにあるだろうがな。とはいえ私の望みはアラスターを私のために働かせることであって、この国で起こる全てはなんら重要ではない」
 
 早々に事を済ませたいのだ、とジンは言った。その顔は無表情で口調も相変わらず淡白だったが、そこには辟易とした感情が凝り固まっていた。

「故にライラック、その男は此処に置いていけ」

 ジンの短い言葉より、吐いたライラックのため息の方が長い。
 ライラックはぐちゃぐちゃになった右手を強く握り込んだ。変形した自分の手のひらの形と剥き出しになった肉に触れた痛みが、彼を恐怖で叱咤した。

「その話は、もうしないって言ったよな? 断られると分かり切ってることを聞かないでくれ……時間を無駄にしたくないなら、頼むから……」
「理解している」ジンは言った。「だが少なくともお前には、時間を数秒無駄にするだけの価値がある」
 
 ライラックは驚いたし、そして借りている肩越しにガベルの驚きも感じた。ほとんど初対面のガベルにとってもジンは「時間を無駄にする価値」を何かに見出すような人間ではなかったらしい。
「ジン、」
 隙あらば灰色に茹だった何かが喉の奥からこみあげそうになる。その不快感と全身の冷えに抗いながら、ライラックは注意深く口を開いた。

「これが最後だ。断る。そこを……」

 不意に。
 ふと。
 胃袋が突然裏返る。

 あっ、と。
 そう思った時には、ゼリー状になった背骨を勢いよく引き抜かれるような怖気がライラックの全身を駆け上り。駆け抜けて。
 そしてそれは濁ったベージュ色のペーストとして口から吐き出された。
 ライラックの口から。
 丁度彼が俯いた先にあった彼の右足と____ガベルの左足に。
 水が弾けるのとは違う。嫌な飛沫を立ててそれは撒き散らされ、小さな滴はわずかに糸を引いて飛散し、飛び散り。
 唾液とそれから焼けた喉から染み出た血も交じり合って、くすんだベージュに赤くほつれた線を引っ付けた液体は、まさしく今のライラックの一部だった。

「…………ゲホッ、」

 そっくり返った胃袋が元に戻ってからようやく、ライラックの喉は再び空気を通した。
 そしてライラックは顔を上げた。謝ろうとしたのだ、ガベルに。
 だからそこにはガベルがいるはずだった。ガベルの顔が映るはずだった。

 だが、ライラックはガベルを見つけられなかった。

「_____ライラック!!」

 息を呑み、吞み込み切らないうちに発されたのだろうガベルの声は掠れていた。その声は短い音の内に急速にねじれ、急速に遠ざかる。
 ガベルが遠い。そばにいない。
 脊髄反射でライラックは腕を伸ばした。何が起きた? なにかあったのか? 誰かに何かされたのか? 
 とにかく傍に。手の届く場所に取り戻さなければ。
 そう思って伸ばした腕に鋭い痛みが走った。冷えた血が垂れて、それは垂直に顔に落ちてくる。
「貴様!」
 腕が踏みつけられる。「貴様!」肩が踏まれる。胸を踏まれる。「貴様! 貴様!」
 声が聞こえた。それは怒号だ。
 靴底が見えた。それは機械のように何度も何度も降り注ぐ。
 いくつもの顔が見えた。老若男女、見たことがあるような顔だが、どれもこれも激しい嫉妬と怒りに染まり、まるで別人のようでもある。

「貴様!」
「貴様!」「貴様!」
「なんてことを!」「よくも教主様の御足に!」「貴様という男が!」「なんてことだ!」「貴様、貴様、貴様!」「ああああああああああ」

 ライラックは瞬きもせず、ただ仰向けに倒れていた。
 これだけ大勢の人間に一斉に足蹴にされているというのに、ライラックはほとんど痛みを感じていなかった。そもそも嘔吐した直後、ガベルの脚に吐瀉物を吐き捨てるという愚考を犯した大罪人に激怒した信者が嵐のように猛然と襲い掛かり、ライラックを闘牛の如く突き飛ばし、床に殴り倒された時の痛みさえ一切なかった。
 
 だからライラックは一貫して、自分の脊髄が求めるままに眼球を動かし続けた。
 幸いにして、ガベルの姿はすぐに見つけることが出来た。周囲を取り囲み、まるで廃棄場でゴミを圧縮する機械のように降り注ぐ足や腕の向こうに、ガベルはいた。
 ガベルは青ざめた顔で何かを叫んでいるようだが、周囲の雄叫びで聞こえない。ただ分かったのは、何処からも血を流していないことだ。彼は怪我をしていない。
 そのガベルを背後から取り押さえているジンの姿に一瞬不安が過ったものの、少なくとも彼はガベルを床に押し付けたり、腕を捻り上げてはいない。単純に両腕を背中でひとまとめにして握っているだけだ。彼にしては非常に穏当な取り押さえ方であった。
 ジンとライラックの目が合った。
 ライラックは瞬きをしなかった(瞼は細かく痙攣を起こしていたが)。
 ジンが僅かに目を細くした。彼はガベルの拘束を強めたようだ。
 ガベルの顔が歪む。
 一瞬。だが確かに。

「ガ、____ッ!」

 反射で首をもたげたのがいけなかった。丁度振り下ろされた誰かの靴先がライラックの右頬に突き刺さる。
 ライラックの身体が横向きになる。床に手をつき、顔が隠れる。大した変わりはない。靴底と怒号が打ち付ける場所が変わっただけだ。
 思えば。
 ライラックは自分を取り囲む暴力に対して恐怖は感じなかった。彼らが怒り狂う理由が分かりきっていたからだ。それはライラックが、彼らにとって唯一正統な新しい主に対して吐瀉物を吐きかけたことと、それから、彼らが不安と期待で苦しんでいたこの六年間、ライラックだけが主のそばにいることを許されていたからだ。
 不遜に対する怒りと、燃えるような嫉妬。
 何かがほんの少し違えば、ライラックは幸運なその誰かを足蹴にする方だったのかもしれない。
 フレデリクを失ったあの日から、もうとっくに限界だったのだ。己を騙し、他人を騙し、それでも一人目の狂信者に堕ちるのが嫌で、新たな主に見限られる恐怖でもって辛うじて体裁を保っていた。誰もが。
 誰もが支配を求め、服従を望んでいる。
 はやく支配してくれ。もう何も自分で考えたくない。全て教えてくれ、全て決めてくれ、最初から最後まで導いてくれ。生まれてから死ぬまで、決して逆らわないから____
 あの明朗な声で教え説かれ、あの怜悧な目で見下され、あの安穏とした影の中に一刻も早く抱きこまれたいと、誰もがそれを望んでいる。
 
「オエッ……」

 うつ伏せになって身を起こそうとしたら丁度心臓のある位置を背中から強く踏まれた。
 ライラックはまた吐いた。今度は薄ピンク色の透き通ったゼリーが出た。

 胃液と唾液とすこしの血液が混じったゼリー状の吐瀉物ごしに石造りの床が見えた。どうやら蹴られて這いずるうち、ライラックは命辛々逃げ出した法廷の中へ自ら戻っていたらしい。
 空気がにわかに熱を帯びる。熱帯夜のような空気が漂っている。もはや呻き声や手足が床を引っ搔いて悶える物音はしないが、あちこちに豪奢な衣服の裾や袖が見える。

 法廷。
 法廷に戻ってきた。
 だが、だとすればあるはずだ。あるはずなのだが、見当たらない。

 何処だ?

 ____アラスターの死体は、何処だ?
 
「やあ」

 ライラックの疑問に答えたのは黒い影だった。
 それは逆光を浴びたアラスターだった。身体を奇妙にねじらせた格好で倒れたまま、ライラックは辛うじて顔を上へと向けた。
 アラスターはライラックのそばに立っていた。腰の位置で体をきっかり九十度に折り曲げてこちらを見下ろしている。
 天井の明かりがアラスターの首に空いた穴をすり抜け、それはライラックの顔に降り注いだ。

「ちょっと見ないうちに随分男前になったな、ライラック」

 怒りに駆られた信者たちもぞろぞろと法廷に入ってくる。彼らは純粋な子供のように、蹴って転がっていった小石を追いかけてきた。
 少なくとも彼らはアラスターに対してなんら反応を見せなかった。首に穴を空けたまま立つ老人がいるにもかかわらず。まるでその姿が見えていないかのように。
 アラスターは彼らの顔をちらっと見るなり苦笑した。

「暴力、嫉妬、堕落。この手の見飽きたシナリオを、しかし君たちは愛して止まない。時代遅れだと気づいているのに、擦り切れたテープを誰も取り替えようとはしない」

 また信者がライラックを罵倒し、蹴り始めた。その信者のすぐ隣で暴行を見守るアラスターは赤黒く汚れたシャツの襟を直すふりをして、笑いを誤魔化した。

「何度私が手を貸してやろうとしても、君たちはその度私の手を振り払い、自ら望んで堕落する。正義を褒めそやしながら怠惰に浸り、自由意志を尊びながら無知であり続ける」

 幸い今度はどの靴底もライラックの顔には当たらなかった。だからライラックは太さも長さも様々な足の間から、アラスターの姿を見ていられた。

「だが、しかし」

 アラスターの日に焼けた皺だらけの手が喉を撫でる。フックに指を引っ掻けるように、老人は自分の首に空いた穴を楽しそうにほじくり回した。

「いい時代になった」老人は言った。「”アラスター”、相変わらずこの国は古臭く、あちこち腐ったままだ。
 だが____確かにいい時代になった。お前の生きていた時代よりも、少なくともひと一人分だけはマシな時代になったようだぞ」

 ライラックは久しぶりに瞬きをした。
 アラスターはすぐそばにいた。ライラックの耳元に膝をついて、右手で頬杖を、左手にはあの古い小銃を持っている。
 周囲を取り巻き、振り上げられ、振り下ろされ、あるいは今まさに振り下ろされようとしていた靴底は時間が止まったようにどれもこれもが静止している。
 灰を被ったようにくすみ、静まり返った空間で、色づいて動いているのはアラスターだけだ。

「若いの。もう一度だけ俺の銃を貸してやる」

 アラスターはライラックの手を取り、血塗れのその手に銃を握らせた。あの独特な小指を引き金に引っ掛ける握り方で。「いいか? これが本当に最後だ」
 アラスターは大きく口を開いた。長い舌があらわれ、そこには血色の弾丸が一つ乗っていた。
 血みどろ(もしくは血で出来ているのか)の弾丸をアラスターが銃に装填し、そして銃を握るライラックの手を上からさらに握る。

「……アラスター」
「ん?」
「あんた、」ライラックは自分の手にある銃をぼんやりと見上げた。「あんたは、一体なんなんだ?」
 
 アラスターはライラックの手を叩いた。ぴしゃりと血飛沫の音がした。

「馬鹿げた質問だな、ライラック。”俺”が何者であるかを決めたのは、お前たちじゃないか」

 ライラックがこの老人の存在を認知したとき、既にアラスターは主席だった。いったいいつからこの国にいて、いつから主席で、何処で生まれ、どのように育ったのかは知る由も無い。
 誰もこの謎の老人について知らない。ただなにか、非常におそろしいものだ、ということだけを除いて。
 老人。主席。支配者。悪魔。
 
「俺が一度でも、俺はお前たちの支配者だと名乗ったことがあったか? 俺はボケたジジイだと、俺は恐ろしい悪の手先だぞと____俺はただの一度も、そんなことを言ったことはない」

 ”はじめまして、私は、アラベスタ……いいや、本名は長いのでね”。
 ”わたしのことは、アラスターと呼んでくれ”

 ガベルに対しても、そしてかつてのライラックにも、アラスターはそう言った。
 思い返せばこの老人はただの一度も言っていない。私はアラスターだ、とさえも。
 アラベスタ・アランドロ・アラヴェルク。
 それがこの老人の本名だろうとライラックは踏んでいるが、それだって、この老人が水からそう名乗り、自らそうだと認めたわけではない。
 
 ただ、この老人がいつも懐の奥深くに仕舞いこんでいるこの小銃にその名前が彫りつけられているから、そうなのだろうと推測したに過ぎない。

「俺が悪魔に見えるなら、それはお前が俺にそうあることを望んでいるからだ」アラスターは静かに口を開いた。「俺が支配者であることを望み、衰えてゆく老人であることを望み、謎めいた抗えぬものなのだと、そうして勝手に祭り上げて、勝手に媚びへつらったのはお前たちだ」

 一瞬の冷笑ののち、老人は穏やかに告げた。

「さあ、取引といこう」

 その声は老人の首に空いた穴から聞こえてきた。もはや老人の口は動いてはいなかった。

「俺はお前に一発かぎりの万能をやる。代わりにお前は俺に何をくれる?」
「……なんでも」
「それじゃ取引にならない」老人が眉を片方吊り上げた。「俺は獣どもと違う。きっちりやりたいんだ」
「何も持っていない……腕でも足でも、好きに持っていっていい」
「お前にはまだ俺が悪魔に見えているのか?」
 皺だらけの手がライラックの手から離れる。
 ライラックの首元にチェーンで引っかかっていたサングラスを、老人は素手で千切り取った。

「これでいい」老人はサングラスをかけて言った。「契約成立だ」
 
 よく狙え。お前が打ち砕きたいものはなんなのか。
 その言葉と共に瞬間、老人の姿は搔き消えた。
 老人という空間の栓が抜けた途端、それまで無理やり押し留められていた空気や音、熱といったものが再び蠢き出す。

 いくつかの足が振り下ろされたが、それはまともにライラックの体に届かなかった。
 彼らは皆、突然ライラックの振り上げた右手にある銃に驚き、驚愕し、愕然とした。一番初めにこの男の手からもぎ取り、遠くへ引き剥がした恐るべき凶器が、一体どうして再びこの裏切り者の手にあるのかと混乱した。
 
 実のところ、ライラック自身にさえ事の全てを理解しているわけではない。だが思えば、生まれたときからそうだった。
 物心ついたころには父も母もフレデリクを信仰しており、毎日毎日食事のたびに長々とよくわからない言葉を唱えさせられた。
 よくわからないまま暗い部屋に送り出されて、台の上にひっくり返されて、背中が焼けるように痛んだ。しかし何をされているか分からないから「やめてくれ」の言葉も言えなかった。
 そして悪夢のような夜の翌日、父と母は死んだ。
 それなのにライラックはライラックとして今日まで生きていた。ライラック・ゼアロと名乗り、公的な書類としてもその通りだ。
 恐らく自分は、いくつもの人生の岐路から目を背けてきたのだろう。ライラックは薄々感づいていた。正気に戻るタイミング(あるいは自らの意志で狂気に踏み出すタイミング)は何度もあったのに、惰性か臆病さか、それに背を向けてきた。

 背を向けたが最後、これまでの全てを否定してしまう。
 自分が否定されてしまう。痛みが、悲しみが、恐怖が、葛藤が。
 名前を変えた。背を焼かれた。熱にうなされた。父と母が死んだ。
 あの夜、フレデリクがかけてくれた蠱惑的な声。

 年を重ねれば重ねるほど過去は美化され、正当化され、間違っていない、捨ててはいけないとライラックを慰め、親しく絡みついてきた。

「……先生、本当にありがとうございました……先生がいなかったら……なんとお礼を言ったらいいか……」

 裁判の度、依頼者がガベルの手を取って礼を述べるのを見ていた。
 その言葉は、かつては大勢の人間がフレデリクに捧げた言葉でもある。
 ____それでも、どちらが真っ当かぐらいは分かっている。

 真っ当だと分かっているからこそ、ライラックはガベルの全てに惹かれた。正しくて、清らかで、自身に満ち溢れ、確立した彼の在り方に。
 ライラックはガベルの全てに惹かれ、その全てに焦がれた。
 その全てに、焦がれるほど憧れた。
 その全てに、焼かれるほど嫉妬した。
 
 物事も知らぬままフレデリクに陶酔した幼少期を経て、フレデリクが去り、日を追うごとに美しさを増して圧し掛かる過去を捨てられぬまま這う這うの体で生きていた。
 ガベルと出会い、あまりに清浄なその姿に憧れた。だが憧れが強まるほどに、まるで裏切りを攻め立てるように過去もまた美しさを増した。
 過去も憧れも、決して手に入らないから眩しいのだ。ガベルへの止まぬ憧憬は、ライラックが決してガベルのようにはなれないという証明でもある。

 こうして、今この時もまた。
 ライラックの手には銃がある。血に塗れた手は形が歪にひしゃげて、人間のものとも思えない。
 暴力と脅迫に頼るのは、己の無知をひけらかしていることと同義だ。
 ガベルの言葉を思い出して、ライラックは心の中で笑った。

 ____ガベルは今、どうしているだろうか?

 暴力の引き金に指をかけ、ライラックは逡巡した。だが短い時間だった。
 周囲を取り囲んでいた同僚たちが一斉に身を翻し始める。随分ひどい目にあわされたが、結果的に彼らが自分をボールにして遊んでくれたのはよかった。己とガベルの間には、今十分な距離がある。
 それに何より、ガベルのそばには今、頼れる同僚が__暴力を捻じ伏せる暴力の化身がいる。

 最後の最後まで暴力に頼り、問題の全てに火をつけて燃やす。
 ガベルが最も嫌う方法だと分かっていても、ライラックはこのやり方を今だけはすんなりと受け入れることができた。元より、自分にはそもそも、これ以外の方法など思いつきそうにない。

 きれいさっぱり全て燃やしたら、その後こそガベルの出番だろう。彼と、彼に選ばれ、彼を助けるために集った善良な人々が、きっと上手くやるだろう。

 ガベル・ソーンはこちら側の人間ではない。
 そしてライラック・ゼアロもまた、そちら側の人間ではない。

 ガベルの言う通りだ、とライラックは深く納得した。ライラックや彼の仲間たちは皆、もうとっくに時代遅れだ。
 ライラックは久しぶりに祈った。子供のころにしていたように仰々しい台詞はない。しかし心は子供のように。

”これが最後の銃声になりますように”と。

 そして引き金を引く。
 実に簡単なことだった。
 耐え難い熱を孕んだ津波が全てを飲み込む。

 波が肌を打ったとき、耳元で誰かが囁いた。

「おやすみ、ヨーハン」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?