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ライラックとガベル第17話「よい夢を」

 この夢を見るのは本当に久しぶりだ。

 最後に見たのは一年ほど前だったろうか? それでも初めてこの夢を見た日のことはよく覚えている。
 なにせあの日は背中に蔦を一面彫りつけられた日の夜で、ライラックは熱にうなされた。
 
 熱に耐えられず目を覚ますと、まるで雨に降られたかのようにパジャマもシーツも濡れて湿っていた。肌に張り付くすべてが不愉快で起き上がり、暗い部屋の中で手当たり次第に触れる布を剥ぎ取る。それからベッドを下りる。

 部屋を出れば短い廊下があって、左手でUターンして一階へ降りる階段になっている。定期的に父が白いペンキで塗り直すから、夜に電気をつけずとも階段と手すりはぼんやりと浮かび上がって転ぶ心配はない。
 階段を軋ませながら降りてゆけば、整理整頓されたリビングにキッチンがある。食卓であり、団欒の場でもあるリビングのテーブルには母が編んだレースのランチョンマットに、使い終わって綺麗に洗ったペンインクの瓶。中には少しの水が入っているだけだ。

 テーブルの天板に手をついてその横を過ぎる。外を臨む窓を覆うカーテンを引けば、そこには油絵の黒で塗り潰したような夜があった。
 窓ガラスに顔を近づけて、どれだけ目を凝らしても何も見えなかった。ガラスには自分の顔だけが映る。冷や汗が浮いた額、筋になっておとがいへ流れていく一滴。
 吐いた息がガラスに触れて結露となる。
 そのときだ。玄関が叩かれたのは。
 ライラックは思わず肩を震わせた。
 ゴツ____ゴン。
 低い音と共に玄関の扉が振動する。
 ゴン。
 もう一個ドアが低く震える。
 家の玄関には外にノッカーが取り付けられているが、それは使われていないようだ。ドアの外にいる誰か、あるいは何かは、直接拳かなにかをドアにぶつけている。
 ゴン。
 音は低くくぐもっている。だがこちらを急かすようなものではない。どちらかといえばどこかたどたどしく、ドアを叩くという行為に不慣れなようだ(だがそんな人間がいるだろうか?)。

 窓と玄関はすぐ隣にあるのに、窓から玄関の方を除いても、何も見えない。
 ライラックは窓ガラスを離れ、ゆっくりと玄関へ向かった。
 ドアの正面に立ち、下ろされた錠前に手をかける。
 ゴン、と目の前でドアが低く震える。ここまで近づくと、音が低い位置から響くことに気づく。おおよそライラックの腰のあたりだろうか。
 ライラックは錠前を開き、そしてついにドアを開けた。

 そしてドアを開けた先から、炎が溢れた。

「_______ッ、ッハ、____ぅ、ゲホッ!!」

 光と熱に目覚めた。そして目覚めた途端、開いた喉めがけて雪崩れ込んできた熱湯のような空気に全身が内側から燻される痛みにのたうった。

「う_____」

 身体は酸素を求めて空気を吸い込むが、流れ込んでくるのは熱だけだ。それは水のように喉の奥へ滑り込み、隙あらば直ちにライラックの意識を奪おうと目論んでいる。
 気休めに袖口で口元を覆いながら、ライラックは周囲を見渡した。
 どうやら自分はまだ地下にいるらしい。らしいというのは、周囲はとうに火の手が回り、此処が何処だと断定できるような装飾やしるしがとうに焼け落ちていたからだ。おそらく地下の法廷前の通路ではあるだろうが。

 壁が燃えている。天井が剥がれ落ちて、あちこちに黒ずんだ瓦礫が折り重なっている。
 あれだけ薄暗く怪しげな歴史の雰囲気に満ち満ちていたこの場所は、今まさに無情な燃焼という自然現象を前にして、一寸の闇も保てず、ただ粛々と燃え尽きるさなかにある。
 
「…………は、」

 立ち上がろうとしたが、既にそんな体力は無かった。通路に座り込んだまま、ライラックは息を吐いた。ふう、と吐いて、辺りを埋め尽くす熱の隙間に辛うじて残っている酸素を吸う。
 誰の姿も見えなかった。信者たちも、ジンも、そしてガベルも。
 
「あつ……」

 まるで茹だるように暑い夏の小道に座り込んでいるかのように、首元に浮いた汗をぬぐうライラックの素振りは緩慢だった。そのうち放っておいても勝手に汗も蒸発するとわかると、その場に項垂れた。そうしていると少しだけ楽になった。

 座り込んでいる通路の床も木造だ。防炎剤は塗られているだろうが、敷かれたカーペットの端からじりじりと焦げ付き、小さな火が虫のように湧き出ている。
 ライラックは特に火の手を逃れようとか、せめて焼け死ぬにしてもましな場所を探そうとは思わなかった。
 熱いのも痛いのも、もう慣れている。今はただそれ以上に疲れていた。

 ____だから、ものが燃え、軋む以外の音が聞こえても、ライラックはもう顔を上げようとはしなかった。
 はじめは。

「ライラック」

 これも幻聴だろうと思った。音だけで、声だけでまるで砂漠に降った雨のように甘美でも。

「ヨーハン、顔を上げなさい」

 ゆっくりと顔を上げる。

「顔を見せてごらん」

 言われて、言われたとおりに限界まで顔を上げる。
 そしてひりつく眼球から瞼を引き剥がし、目を開ける。
 だが、ライラックは顔の角度を間違えた。
 その人は通路に片膝をついていて、見仰ぐまでも無く目の前にいた。
 ライラックの目はその理知的で深いブラウンの瞳を見た。
 そしてフレデリクもまた、帽子のつばで出来た影の奥から、ライラック色の瞳を見た。
 
 帽子を被り、三つ揃いのスーツに身を包んだ紳士がそこにいた。確かにそこにいるのは、あのフレデリク・ソーンだった。
 
「フレデリク……」ライラックは自分が泣いていることに気づいていなかった。
 乾いていた眼球を水の膜が覆い、薄紫の虹彩が水光を帯びる。まるでライラックの花が朝露に濡れ、日の光がそれを照らすように。

 フレデリクは瞬きもせず、炎の中にあるとは思えないほどあまりに落ち着き払っていた。
 これだけの熱と炎をもってしても、フレデリクの顔にかかる影は微動だにしない。ここに至ってなお、フレデリクの面影は深い影の向こうにあった。

 フレデリクは口を閉ざしたまま、おもむろに手を差し伸べた。手袋のされていない指先はライラックの顎に触れ。

 ツ、と。

 冷たい指が頬へと滑る。
 たったそれだけで、ライラックは耐え難い官能に気を失いそうになった。床に就いた自分の手に爪を突き立てて、その痛みがなければ気絶していたかもしれない。

「ライラック」

 と、フレデリクが呼んだ。「アイリスとオレガノの息子。両親を失いながら、よくぞここまで育ったものだ」

 わずかにフレデリクが顔を近づける。ほんの1センチあるかないかのことだ。
 それでもフレデリクの纏う冷え冷えとした空気(あるいはフレデリクが吐き捨てる吐息の一片)が肌を掠めると、ライラックは反射的に目を瞑り、顎を引いた。

 だがそれも「顔を見せてごらん」とフレデリクが言うまでのことだ。「君の瞳が見たい」フレデリクは遥か昔、洗礼を与えたときと全く同じ声で言った。彼にとっては十歳に満たない子供も、とうに成人した男も、違いはないのだろう。

 ライラックはもう一度、顔を向けた。
 目の前にフレデリクの顔があった。ここまで近づいてしまうと、帽子の影の奥に確かな肌の質感が透けて見える。フレデリクの上瞼の輪郭や鼻筋、唇の凹凸までも見えてしまいそうで、ライラックは視線だけどうにか逸らした。

「フレ、デリク……」ライラックの声は炎に当てられた時以上に弱っていた。「ここは、じき焼けてしまいます……外に……」

 フレデリクはまるで聞こえていないように、ただライラックの顔を見つめている。
 ライラックはくれぐれも目が合わぬように、彼の神秘に触れてしまわないように、まるで初恋の人を前にした少女のようにただ視線で逃げまどう。

 そして____逃げ惑う途中で、ライラックはフレデリクが腕に何か抱えていることに気づいた。
 そういえばいつも携えている杖を今日は持っていない。それは杖を持つほうの手がもう塞がっていたからだ。
 純白の布で包まれているが、その中には何か、ひどく黒々とした。焼け焦げた木片のような歪な何かがあるようだ。

「フレデリク、」
「____ライラック」

 脊髄が砕けるほどの恍惚が染みわたる。名前を呼ばれただけで。その名だって本来の生でもなしに。
 ライラックは口の中に込み上げた唾液を呑み込んだ。幸いそれで喉が辛うじて潤った。

「フレデリク……今まで、どうして____どうして、ここに……」
「私が此処に来たのは、妻を迎えに来たんだ」

 つま。
 妻。
 ライラックの復唱は音にならなかった。だがそれよりも致命的な過ちをライラックは犯した。
 ライラックはフレデリクの目を真正面から見てしまった。
 その瞬間、ライラックは自分の身体に負ったいくつもの傷や痛み、そして耐え難い熱のすべてを忘れてしまった。

「ライラック____私の妻のことで、君が気に病む必要はないよ」
「……」
「もとより彼女は、この終わりの為に私の元を去ったのだから。私は彼女に出来る限り長く生き、そしてさらなる繁栄の術を説いたが、彼女はそれを拒んだ」
「…………」
「彼女は全て息子に託すべきだと言った。自分たちの時代は終わったのだと。だがそれは誤りだ」

 フレデリクのブラウンの瞳が音も無く細められ、彼は自分の腕の中にあるものを見た。
 フレデリクの腕の中にいるのは、焼け死んだ一匹の狼だ。

「彼女は否定したが、私含め、人間はその発端からして罪人だ。人に生まれたならば、誰もが罪を背負い、故に常に善くあらねばと生き急ぐ。金、権力、女、男……優れたものになれると自分を急き立て、自らの首を絞め続ける。
 そうしてようやく死んではじめて、安寧に到達できる」

「それに比べ、彼女は生まれながらにして純真で、清浄だ。穢れなく、満ち足り、安寧を抱いている。ゆえに長い時を生きる。何よりも暗く輝いて、誰より少なく豊かである」

「彼女が私を救ったように、私が君たちを救う。君たちをよりよいものにする____だが私のその願いを、彼女は否定した」

 フレデリクは滔々と、それでいて淡々と語った。
 
「自由意志によって驕り、死に急ぐ人間がどれだけ哀れなことか。神秘が既に完成されているのなら、我々がすべきことは、この世に蔓延る虚栄の歴史を捨て去り、全ての根源に立ち返ることじゃないか?」

「生まれながらにして神秘そのものの彼女が理解できないのは無理も無いことだ。だが、息子もまた理解を示さなかった。幼いながら既に苦悩を知っていたのに、あの子もまた、救いと導きを否定した」

「その結果が______」

 鈍い振動が床を伝う。なにか、何処かの太い支柱でも焼け崩れたのだろう。その崩落はまた次の崩落を呼び、連鎖してあちこちでくぐもった木々の悲鳴が上がる。
 煤を含んだ一陣の熱風が通路を駆け抜けた。
 その灰色の風は、ライラックの上着をはためかせ、フレデリクのスラックスの裾を揺らし。

 そして、帽子が舞い上がった。
 フレデリクの風貌を守っていた影が晴れる。緞帳が上がるように、にわかに勢いづいた炎がその頬を照らす。

 ライラックは朧げな意識と視界の中で、媚薬漬けにされたような思考の中で、それでも理解する。
 我が子の前ですら、フレデリクが決して帽子を脱がなかった理由を。

「一緒に来るかい」

 声が肌に、舌に、脳に染みわたる。
 露わになったフレデリクの額には汗一つない。理知的な額、若々しい白皙の美貌、神秘と邂逅したが故の深い色の瞳。
 綺麗に撫でつけられたブラウンの髪に_____

「ライラック、君が望むのであれば、今度こそ私が君を導こう」
「一緒、に……」
「君は安寧を手に入れ、苦痛と苦悩が君を訪れることはもう二度とない」

 もう二度と痛い思いをしなくていい。
 もう二度と苦しい思いをしなくいていい。
 もう二度と悩まなくていい。

 こうして目の当たりにしても、フレデリクの表情や目にライラックは何かを見出すことは出来なかった。媚薬のようなただひたすらの心地よさだけがあった。
 優しさを見つけられない代わりに、しかしフレデリクからは、弱者に対する憐れみもなかった。
 フレデリクは誰かを救うことに情熱を持っていないようだが、同時に、彼は救いの手を取られることへの期待も、手を振り払われることへの憤懣も持ち合わせていない。
 彼はきっと、ただ自分が辿り着いた真理を分け与えようというだけで、それによって自分がよりよくなることや、富が集まることには無関心だ。
 ただ自分がそうできるから、そうしているだけに過ぎない。やりたいからでも、やらねばならぬからでもない。
 持っているから分ける。出来るからやる。知っているから教える。
 自分にできるというただ一点で、だからそうする。少なくともライラックはこの時理解した。初めて、フレデリクという神秘の存在を理解した。

「どうして泣いているんだ?」

 そう尋ねるフレデリクの声は、やはり心地よい。抑揚はほぼ無いのに冷酷な印象は与えず、むしろその冷たささえ快感になる。
 ライラックは震える手で顔を拭った。涙が手のひらにべったりと張り付いた血を溶かして、ライラックの顔はむしろ血で汚れた。

「フレデリク」ライラックの声は震えていた。「……教主様」

 フレデリクの手がライラックの顔から離れた。ライラックが身を引いたからだ。

「私も……あなたの元を去らねばなりません……」

 フレデリクは瞬きもせずただこちらを見つめている。やはり手を振り払われても、フレデリクには悲しみも怒りも無い。
 ややあって、フレデリクが言ったのは、泣かなくていい、ということだった。

「此処で命を落とすにせよ、生き永らえるにせよ、君の人生から苦悩と苦痛が去ることはない。だが、私の元を離れて何処へ行くという」
「何処へも……ここに、此処が」ライラックは目を瞑った。「ようやくここに、来ることができた……」

 ライラックはフレデリクに笑いかけた。ライラックが大人になってからよくやるような、ニヒルな笑みだった。

「私がここで死んだら……ガベルはきっと、死ぬまで私のことを忘れないでしょうか?」

 自分の命と引き換えに悪の巣窟から送り出した盟友として。
 あるいは、長年友を騙り、驚くべき執念深さで付き纏った狂信者として。
 あるいは、一体なにがしたいのかわからない、不可解な犯罪者として。

「きっと」フレデリクは短く事実を述べた。「どんな形であれ、此処で焼け死んだ君の姿を死ぬまで夢に見るだろう」

 ライラックはにっこりと笑った。それこそが本心の笑顔だった。

「もし御子息と会うことがあればお伝えください。ライラックは苦しまずに死んだと」

 フレデリクは初めて瞬きをした。彼の耳がそば立ち、まるで言葉を聞き返すかのように震えた。それでもライラックは笑顔だった。
 やがてフレデリクは何も言わずに立ち上がり、身を翻した。熱風に煽られて飛んだ帽子を拾い上げるとき以外、彼は去り行くその足を止めなかった。

 フレデリクの姿が陽炎のようにぼやけて消えると、ライラックにかかっていた魔法もたちどころに消えた。ライラックは激しく咳き込み、全身の痛みにのたうち、ぼろぼろになった奥歯はとうに噛み砕いてしまったので、ろくに痛みを堪える方法は無かった。
 川に溺れて死ぬのと、火に焼かれて死ぬのはどっちが辛いだろうか。
 ライラックは通路に倒れ込んでそう考えた。
 さきほどカーペットの端に燃え移ったあの火は、いまどのあたりまで進んだだろう? いつあの火が、投げ出した腕の先や、服の裾に取り付いて、火は一体いつ、どのタイミングで皮膚を炙るだろう?

 ____天井が崩れて、さっさと押しつぶしてくれたらいいんだがな。

 そんなことを考えて灼熱の通路に寝返りを打つ。
 するとまるで願いを聞き入れたかのように、見上げた先で天井に大きな亀裂が走った。ドンドンと激しい打撃音のようなものから察するに、地上階のほうでもなにか崩落が起きているようだ。

 いつか、ガベルは神がいるようなことを言って、神は三ヶ月と一日目までの行いを見ているかもしれない、とも言っていた。

 馬鹿なことをと当時のライラックは思ったものだが、あながち間違いでないようだ。すくなくとも二十数年の行いをもって、神はライラックの願いを聞き入れた。
 天井が罅割れる。瓦礫が一つ、また一つと降り注ぐ。

 流石に人生最後の日ともなればいいこともあるものだ。


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