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【雑記】亡き弟と従弟の想い出、町の過疎への憂いが、昭和の大多喜町を記す動機かと思います

 私は日常からの現実逃避のためか、ここnoteで時々『大多喜無敵探検隊-197X』おおたきむてきたんけんたい-197Xという、全く誰の得にもならないような自称・児童文学じしょう・じどうぶんがくを書いて、ひとりえつひたっておりますが、‥まぁなんでこんなモノを暇みてチマチマ書き記しているかというと、動機のひとつとしては、うちの子供の存在でしょうかね。結婚が遅かった私に子供が出来たこと、そして、その令和育ちの小学生のうちの子を眺めていると、昭和の自分の子供の頃とは何から何まで随分と違うよなぁとしみじみ感じまして、、
逆に考えると、今の時代からは大分特殊に映るであろう私の子供時代を、せっかくなのでアルバムのように、いずれどこかに残しておきたいなという気持ちがありました。まぁでもしかし、それぐらいの淡い気持ちでは、人一倍に尻が重たい私が動くわけがありません。
まーいつかやろう、爺さんになったらやろうハイハイそのうちね‥
ホジホジ(´σ_` ) ポイ( ´_ゝ`)σ ⌒゜

↑ だいたいいつも、こんな感じな私なのです

 それでも駄文散文、落書きながらもポチポチとやり始めた決定的な理由とは、長年の闘病の末、9年前に亡くなった弟(國男 / クニオ)に次いで、もう一人の弟と思っていた従弟の浩二(コージ)の、突然の死でしょう。彼が去年の4月に、千葉県のもみじロードで単車で事故っていきなり死んじゃったのです。
霊安室で見た浩二の姿は、血まみれで少し首の骨が曲がっているようでしたが、それでも薄っすらと笑いを我慢して寝たふりをしているような、そんな微笑んでいるような穏やかな顔をしてまして、思わず私はイイ歳して半ベソかきながらも浩二のホッペタやオデコをピタピタと叩いては『おーいコージ、何寝たふりしてんだよぉー起きろよオイ!霊安室寒いから風邪ひくぞ!叔母さん心配すっぞ!』とかしばらくワケの分からないことをやってました。‥もちろん起きてはくれませんでしたが。。

(逆輸入のスズキGSX-R1000Rが、浩二の最後の愛馬でした。)
(ヒョロガリチビだった浩二、いつしか背が高くイカツいオッサンに成長しました)
(イカツいオッサンに育った浩二ですが、小学生の頃は本当にヒョロガリチビだったのですw)

 50歳にもなって300km/h以上も出る逆輸入の単車になんて乗らなきゃよかったのになぁ、なによりレーサーみたいな単車だし50歳の反射神経じゃ追いつかないでしょーよ。
私自身が18歳の頃に単車で大事故をおこし、半年の入院と5回の手術をしておりまして、その私の苦しむ様子を、浩二も何度も見てて知ってた筈なんですけどね、私も浩二に会うたび『コージ、もう歳なんだから単車やめようさー』とかネチネチ言ってたのですが、年長さんの意見とはいつの世でもウザがられるのが常なのか、全く聞いてはくれませんでした。いやはや残念至極・・。
その結果、私は弟を二人失ったようなものです。この先の人生、もう私の兄弟、兄弟のように思える人物はおりません。
幼い頃から一緒に遊び、喧嘩をし、そして一緒に怒られた、一緒に泣いたこともあったかなぁ、これからも長い人生を一緒に歩いていく筈だったであろうかけがえのない人物を、私は既に二人も失ってしまったのです。
『兄弟や親しい従兄弟とは、その人生において間違いなく同志だ。』
弟の國男に続き、従弟の浩二を失ったことで、皮肉にも私自身は心の底からそう思えた次第です。
まぁ世の中には、お互いがお互いを憎しみあうような、そんな残念な兄弟や従兄弟もいるのでしょうが、その点は私は幸せでした。こうして彼らを失ったことを、今でも無念に思えているのですからね。

そして、以下は弟の國男(クニオ)です。18歳の頃から凡そ20年以上に渡り闘病生活でした。冗談抜きに美男子でしたので、病気を患わってなきゃ滅茶苦茶モテモテだったと思います。
その弟は、享年45歳で、上記の通り9年前に亡くなりました。

(國男は寡黙でちょっと強情なところがある男でしたが、信条を貫く頑張り屋でした)

https://note.com/sanadado/n/nc1d5354ef8e6

 そんな人生の同志の筈だった浩二と國男ですが、もう私の前には現れてはくれません。あの二人の声も聞こえません。まぁたまに私の夢には出てきますが、夢じゃ仕方がないもんなぁー。
そんな二人との想い出を、たった一つでもいいからこの世界に残したくなったというのが、一番大きい動機でしょうか。

(1977年 小学2年生の従弟の浩二と、小学3年生の國男。クニオよ、なぜ首が傾いてるんだ?コージよピースはダサいのでやめるんだ)

まぁ浩二と國男は昔から非常に仲が良かったので、2人ともあの世で寂しくはしてはいないと思いますけどね。でもまぁ残された私自身は、彼らの分も頑張って長生きしなきゃならなくなりましたよ。

(ビールジョッキ片手に、二人の分も元気に生きようと決心する私)

 そしてもう一つの動機は、今の大多喜町の状況でしょうか。用事でたまに行くたびに更地が増えていってるのですよ。あれは寂しいものですね。私たちが昭和の頃に走り回ってた町なかには子供の姿がありません。確かに昭和の頃から過疎と高齢化の町だと散々言われてはおりましたが、今の大多喜町は、もう誰の目にもそれがすぐそこに迫る脅威だと映ることでしょう。実はこの状況は大多喜だけじゃなく、千葉県の房総南部の各市町村は、どこも遅かれ早かれ限界集落に向って一直線のように見えて只々切ない限りなのです。まぁ三方が海に囲まれた半島地勢でどん詰まりなので、他の県のように地理的な経済効果もほとんど見込めず…、さらに流行り病のせいもあって、最近では過疎と高齢化に一層の加速がついたようにみえます。
この過疎と高齢化については、我が日本国の人口減少と都市への労働者人口の流出のために、現在、国内各地で顕著に見られる光景でもあり、世の流れと仕方のないことでもあるのでしょうけど、、とはいえ自分が多感な時期に育った故郷が変わり果て朽ちていく様は、どうしょうもなく寂しいものがあります。
だからあの頃の、大多喜町がずっと今より元気だったころを、コージやクニオの想い出と一緒に、少しでも残したいなと思いました。
でもこれは一体誰のためになるんだろうかなぁ、どこまでも私個人のためだけなのか?それとも今の大多喜町や房総半島南部地域の役に少しは立つのかな?町おこしのヒントやタシにでもなってくれりゃ本望ですが、、まぁ流石に『役場のションベンタワー』や『謎沼』じゃ、ネーミング的にも町おこしには適さなさそうだ
ァ '`,、'`,、('∀`) '`,、'`,、

昭和50年代(1970年代)の大多喜町 イラストマップ

私が思い出しながら描いた、昭和の時代の大多喜町の絵地図、所謂イラストマップです。昭和50年代ぐらいまでは、大多喜町の町なかには色んなお店があり、また元気に遊びまわる子供たちも、そこかしこでよく見られました。大多喜町はこの当時から『過疎の町』と云われていましたが、それでも今よりずっとずっと賑やかでした。今の大多喜の子供たちに見せてあげたいです。

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