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国宝の茶室

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国宝指定されている三名席(待庵・如庵・密庵)+αの解説です!
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国宝茶室 密庵(京都大徳寺 龍光院)

「密庵(みったん)」

国内に現存する国宝茶室(待庵・如庵・密庵)の一つで、江戸前期の茶人・小堀遠州の作。

密庵のある龍光院は京都大徳寺の西南の端に位置し、特別公開も含め一切の拝観を行っておらず完全非公開となっています。そのため、他の二つは見ることができることから「最も見るのが難しい国宝」とも呼ばれます。

密庵は現在、書院の北西隅に組み込まれていますが、当初は独立した建物であったそうです。

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国宝茶室 待庵(京都妙喜庵)

「待庵(たいあん)」

京都府大山崎町の妙喜庵にある茶室。

待庵は現存する最古の小間席であり、多数の茶室遺構の中でも類を見ない古い手法や部材を留めています。

江戸時代以来、侘び数寄の大成者・千利休の唯一の遺構と伝えられ、天正10(1582)年に豊臣秀吉が明智光秀と戦った山崎合戦の際、秀吉が利休に命じて造らせた茶室であるともされています。

書院との接続状況から現地で建造されたものではなく、別の

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如庵(犬山有楽苑の茶室)



「如庵(じょあん)」

愛知県犬山市の有楽苑にある国宝茶室。

元々は建仁寺の塔頭正伝院に設けられた茶室で、織田有楽斎の作とされています。有楽は織田信長の実弟であり利休と同時代を生きた茶人の一人です。

明治6(1873)年正伝院は同じ建仁寺の永源院と合併され、正伝院の建物は四散します。明治41(1908)年に売却され、如庵と書院とは一旦は東京三井家本邸に移されます。

その後、大磯の同家別荘

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猿面茶席(古田織部の元国宝茶室)

「猿面茶席(さるめんちゃせき)」

利休の弟子で、利休の死後は徳川家の茶道指南役となった、古田織部(1544-1615年)の意匠と伝わる茶室。

家康の城・名古屋城築城の際に、清洲城(信長の城)の古材を利用して建築されたそうです。

信長が清洲城にいた頃、枝を払った節目が二つある柱がありました。それを見た信長は秀吉に向かい、「汝の面のようだ」と戯れたそうです。

その柱が床の間の柱(床柱)に使われ

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湛浩庵(神屋宗湛の元国宝茶室)



「湛浩庵(たんこうあん)」

別名は吹毛軒。三畳半の大きさに一段上がった「文琳棚」のついた茶室。

石田三成と友好を深め、太閤秀吉を強力にサポートした博多の豪商・神屋宗湛の茶室です。

戦国後期には、秀吉や側近の三成をもてなす商談・政談の場としても使われましたが、江戸中期から転売され人手に渡りました。

その後、平岡浩太郎氏という方に買い戻され、平岡邸の中に納まります。平岡氏の名と神屋宗湛の名

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飛雲閣 憶昔席(西本願寺の茶室)



「憶昔席(いくじゃくのせき)」

京都西本願寺境内の滴翠園(てきすいえん)内に建つ飛雲閣に付随した茶室。

躙口を入ると、座敷とは無目敷居で画された相伴席(武家流の茶室に見られるお伴の席)があり、その先に三畳半の座敷。座敷は上段に見立てられる。

座敷には床と付書院を設けている。床框は黒塗りで、床柱はやや曲がりを帯びた南方産の皮付丸太、相手柱には面(つら)をつけないみがき丸太。床脇の壁は低く吹

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