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総理の見方

今回は、コラム回。

 先日、菅総理が次期総裁選への出馬を断念された。
野党やメディアは、ここぞとばかりに「無責任」や「放り投げ」、「混乱を招く」など喚き散らして連日批判を繰り返し、無責任な自称 有識者 の方々も批難の華を添えている。

 正直言って、いつもながら滑稽だと思う。
上辺だけの意志なき意思表示に辟易している人間は私だけではないだろう。

 まず、放り出していない。事実誤認だ。
任期満了まで務めると言っている。そのため無責任でもなければ、混乱も招かない。内閣府も閣僚も省庁もそれに合わせて対応する。
それともうひとつ。こんな非常事態にいきなりバトン渡されて対応した人間に対して「お疲れ様でした」と言えないものか。流石に酷い。

 私は別に与党贔屓したいわけではない。
むしろ言いたいことは山ほどある。農水省と経産省がゴネて緩くなった水際対策や独裁とも取れる閣僚の失言などは批判されるべきことだった。


 今回、私が述べたいのは、たったひとつ。
「首相という立場への見方を間違えていないか」ということだ。

 メディアも野党も発言力の強い新聞記者や、お仲間の学者先生も一様に批判しかしない。これは民主党が与党だった時もそうだったと記憶している。
なんでもかんでも「総理」と名がつけば、人格否定しようが、身内の恥を晒そうが何しても構わないというスタンスに見えてしまう。


 私は正直、それは「楽な仕事」だと思う。
揚げ足を取って批判する。そして、自分が間違っても責任は取らない。
なんとなくそれっぽいロジックを積み上げ、対案も出さず議論しない。無責任極まりない。
私たちの国のことなのに具体的な議論がないまま、放り投げられた批判は時とともに忘れ去られる。
そこに何の意味があるのか。


本当に必要なのは、「その人が総理大臣だった時にどんなことを実現したか」を検証することのはずでは?


 なぜそれをしないのだろう。


 総理という立場は、どうあれ必ず批判が付きまとう。
だが、それは次に活かすための検証であって、体制に対する批判という時代遅れのイデオロギーを公共放送や紙面で展開することなのだろうか。

 少なくとも私が求めているのは、イデオロギーではない。
彼がどんなことをしたか。何がダメだったか。そして将来のために何をやらねばならないか。それが知りたい。


 ときに社会人になると、政治的な話をするのは良くない、と言われる。
社内や友人との付き合いが悪くなる。取引先と揉める。誰が聴いているかわからないから……などなど。


そうして創り上げられたのが今の投票率だろう。


有難いことに現在は、TwitterやYoutube、Noteなど、政治に限らず様々なことが「周りを気にせずに」知ることが出来るようになった。
今の時代に生まれてよかったと思う。おかげで色々な知識や嘘、嘘の背景などが見えてくる。


 個人的に菅内閣のやったことを少し調べたが驚いた。
土地や種苗を守りつつ、原発処理水の放水やQUADの締結、ワクチン接種の早期実現、広い範囲の業種の給付金拡大など短期間の内に行っていたのだ。
実際にはもっと多くのことをたった一年でやっている。
気になる方は、ぜひ調べて頂きたい。

 ただ、残念ながら致命的に広報が下手だったと思う。
自分が何をしたか、というアピールが上手くなかった。
加えて西村経済再生担当大臣の失言について責任を取らせるべきだった。
あれ、普通なら倒閣+議席割れるレベルの発言だ。


個人の感想としては、
菅総理は、平時の時に観てみたかった。


任期は残っているが、満了した際はゆっくり休んで頂きたい。
※コロナ時の勤務日数は、安倍前総理を超えています。

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