阪神淡路大震災から28年、私は今も生きている

1995年1月17日、午前5時46分、阪神淡路大震災。私は一生忘れることありません。当時私は、神戸市長田区に住んでいました。自宅で個人事業を営んでいた印刷業の目処が立ったので、三宮に事務所を構えるべく、準備をしていたのです。

三宮のビルの一室を賃貸契約したのが、12月始め。それから内装をDIYで少しずつ作っていました。パソコンやコピー機のリース契約をし、書庫やデスクが揃ったのは、1月に入ってからでした。オープンを1月17日と決め、スタッフの面接をし、準備は着々と進んでいました。事務所に一週間寝泊まりして進めてきた内装が出来上がったのは、ギリギリの1月17日、午前3時半頃でした。

いったん長田の自宅へ帰って、風呂に入ろうと車を走らせました。家の玄関を開くと風呂より眠さに負けて、押し入れから布団をズルっと引きずり下ろして、その場で倒れ込みました。


午前5時46分、大地震!


突然下から大きく突き上げられたかと思うと、左右に大きく揺さぶられました。キッチンでは食器が落ちて割れる音が激しく、隣の部屋ではタンスが倒れドアが割れる音がしました。建物の軋みが凄く、大きな音と揺れが激しく、真っ暗でなにが起こっているのか、まったくわかりませんでした。

とにかく揺れは長かったです。揺れが収まっても、すぐに動けませんでした。動いていいのかどうか、分からなかったんです。幸い、体の上には何も落ちてきていませんでした。


命拾いをした


たくさんの偶然が重なり、私は命拾いをしました。

偶然1、三宮の倒壊するビルから約2時間前に出ていた。
偶然2、いつもの部屋で寝ていたら、タンスの下敷きになっていた。
偶然3、押し入れの前で寝たので、テレビの下敷きにならずに済んだ。
偶然4、長田区の大量火災に巻き込まれずに済んだ。


全壊、茫然!


三宮のビルは全壊しました。開業資金を銀行から借りたのに、パソコンなどの形あるものをすべて失い、借金だけが残りました。私の人生において、どん底に突き落とされたのです。

それから約1年半くらいボランティアをしながら生活をしました。食べて寝ることさえできれば、当時はそれで良かったんです。夢も希望も失い、ただ前を向こうとする気持ちだけ失わないように、必死で踏ん張っていた気がします。

私は、文字通り、命を拾ったのです


避難所で、私より被害の大きかった被災者から逆に勇気をもらうという、逆転現象がありました。「私にはもう失うものなんて何もない。でも元気だけは十分ある。」そう思うと、とても気が楽になったのを覚えています。命があるだけで十分。今から始めても何でもできるはず。それで決意したんです。

好きなことをやって生きていこう!


そう決めたんです。

でも、大変! ちょっとやそっとでは、できませんから(笑)

矛盾は出てくるし、人付き合いはギクシャクするし、第一、お金にならないんですよ。

好きなことだけやって、ちゃんと食べていけるのか?


そこです!

思春期に「ミュージシャンになる」と、啖呵を切って親と喧嘩して飛び出す。そんなドラマはいくらでもありましたよね。親は好きなことで食べていけないことをよく知っているから、無理だと言うわけです。それが身に沁みてわかりました。34歳の遅い反抗期でした。

でも、諦めなければなんとかなる、という展開のドラマもあるでしょ? 私はそれを信じました。信じれば、なんとかなるもんです。

根拠のない自信


私はいつも自信に満ち溢れていました。後から考えれば、バカみたいです。でも不思議ですが本当なんです。「根拠のない自信」と、いつも言っていました。何も後ろ盾がなく、お金もなく、ただただ前向きに生きてこうとする熱意だけです。

とはいえ、世の中そう簡単ではないです。その後、一度、二度と、突き落とされ、またすべて失ったのは、40歳の時。本当にバカですよね(笑) それでもなんとかなるのは、本当に不思議です。きっと私はツイてます(笑) 現在、61歳。やっぱりこれからもポジティブシンキングで、自信を持って生きていきます!

映像は生きる勇気をもらえた歌。ソウル・フラワー・ユニオン「満月の夕」。避難所では、歌だけでなく、メンバーの気さくなお喋りが楽しかったです。


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