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「かんう」武村賢親

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琳琅 創刊号より、「かんう」です。  3人の視点が入れ替わり立ち替わりし、お互いの状況をまったくの別角度から、それぞれの背景をもとに物語を推し進めて行きます。
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記事一覧

琳琅 創刊号より 「かんう」武村 賢親

琳琅 創刊号より 「かんう」武村 賢親

井塚義明の視点1

「あの人、定時上がりが常だよな。いい歳こいてクラブ通いとか」
「まぁ、そう言ってやるなよ。いろいろ溜まってるんだろ」
 聞こえてるよ、そう心の中で呟きながらデスクへと戻る。部下からの要望で買ってやったコーヒーサーバーの近くで、こんな陰口を聞くとは思わなかった。吉田が言うのは、まぁ、まだ分かるけど、佐々木はなぁ、あれじゃあ出世できないなぁ。
 ノートパソコンを鞄にしまい、机上に散

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琳琅 創刊号より「かんう」武村賢親

琳琅 創刊号より「かんう」武村賢親

小羽千尋の視点1

 吐き戻したものはいつもより黒かった。お昼に食べたおにぎりの海苔だろうか。渦を巻いて流れていく様子は鳩尾の気持ち悪さをそのまま目にしているようで不快だった。真っ黒な渦が透明に戻っていく。もとの沈黙を取り戻すまでじっと見つめていると、不意に、ふふふっ、と小さくせせら笑うような声が聞こえた。便座の蓋を閉めておでこをつけるように突っ伏すと、笑い声は少しずつ湿り気を帯びていき、やがては

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琳琅 創刊号より、「かんう」武村賢親

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鴇田重喜の視点1

 いつの間にか隣に並んでいた小羽は二の腕を摩りながら白い息を吐いていた。預かっていたモッズコートを彼女の肩に羽織らせる。新宿駅西口地下広場はその無機質さも相まって地上よりも肌寒く感じた。通行人は目が回るほど多いが、僕らの撮影を気に留める人はいない。沢山の足音が広場の天井で反響し、鼓膜を包み込むように震わせて来る。右耳と左耳で聞こえる音の感触が違うため、この場所のような音の籠りや

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琳琅 創刊号より、「かんう」武村賢親

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井塚義明の視点2

 大音量で流行曲のミュージックビデオを映し出すユニカビジョンを見上げながら、深く吸い込んだポールモールの煙を吐き出す。紫煙は風にもまれて跡形もなく空に溶けた。少し前まであそこは空き地で、PePe前の喫煙所はもうちょっと開放感のある場所だったんだけどなぁ、と感傷に浸る。LABIが建って、ここは少し窮屈になった。以前からごちゃごちゃした迷路みたいな街だったけど、景観を切り取るように

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琳琅 創刊号より、「かんう」武村賢親

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小羽千尋の視点2

 トッキーは一眼レフカメラのモニターを確認するときだけ、かっこよくなる。撮影中は周囲の通行人や被写体であるわたしにこれでもかと気を配るくせに、撮った写真を確認するときだけは画面に全神経を集中してしまうので、わたしが所定の位置を離れて一緒にモニターを覗き込んでいることにも気づかない。無防備な彼の、うん、と小さく呟く声を聞くのが好きだ。

「次の場所、行こうか」

 大ガード下をぬ

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琳琅 創刊号より、「かんう」武村賢親

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鴇田重喜の視点2

 心臓が小さく早鐘を打っている。先程の小羽の行動には、正直焦った。遂にバレたかと思ったが、小羽が一番好きな手の組み方をしてやったら、特に疑うこともなく身体を密着させてきた。ちょろい、ちょろ過ぎるぞ、小羽、と自分のことを棚に上げてタクシーに乗り込む。

 これから向かう佐久間は新宿御苑の方角にあって、少し距離が離れていた。電車で行こうにも、帰宅ラッシュで鮨詰状態の電車に小羽を押し

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琳琅 創刊号より、「かんう」武村賢親

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小羽千尋の視点3

 並々とビールが注がれたジョッキを片手に、乾杯の音頭をとる。きん、と澄んだ音が響くと、縁のギリギリに留まっていた白くきめの細かい泡が揺れて、わたしの親指に滴った。泡に上唇をつっこみ、ごく、ごく、と喉を鳴らしながら嚥下する。詰めていた息を勢いよく吐き出すと、ホップの香りが口内に広がってはればれとした気分になった。トッキーがわたしの顔を見て自分の鼻を指さしている。拭ってみると白い泡

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琳琅 創刊号より、「かんう」武村賢親

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鴇田重喜の視点3

 もぞもぞと身体を動かしながら僕の太ももに頭を乗せて胎児のように丸くなった小羽は、僕が何か言おうとする前に細い寝息を立て始めた。柔らかい手触りの髪が流れて、小羽のいつまでもあどけなさが抜けきらない目元を隠す。

「井塚さん、コートを」

 取ってください、という言葉を待たずに立ち上がった井塚さんは彼女のコートをハンガーから外して手渡してくれた。そのまま部屋の引き戸を開けて靴を履

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琳琅 創刊号より、「かんう」武村賢親

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井塚義明の視点3

 佐久間の営む日本料理の居酒屋には喫煙席がない。カウンター席に座る客の正面で料理をする手前、食材に匂いがつくといけないと言って、自分は超のつく愛煙家のくせに店の中では絶対に煙草を吹かさなかった。そのかわり、店の裏手を通る細い路地には逆さにしたビール瓶のケースと円柱型の吸殻入れを並べただけの小さな喫煙場が設けてあり、どうしても吸いたいという客にはそのスペースを提供している。オレン

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琳琅 創刊号より、「かんう」武村賢親

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小羽千尋の視点4

 事件の後、同僚を殺害して実の娘にも手を掛けた父の行いは大きくニュースで取り上げられた。真相を確かめようと昼夜訪ねてくる報道関係の人間も少なくなかったし、それを理由に交友を絶交されたことだってある。当時のわたしは精神科のある病院に入院していて、面会は基本、助けてくれたトッキー以外とは絶対にしなかった。引き取ってくれるという親戚と会うにも、アルバイト先へ面接に行くにも、トッキーに

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琳琅 創刊号より、「かんう」武村賢親

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鴇田重喜の視点4

 JR線のプラットホームで、僕らは二本目の電車を待っていた。始発は結局逃してしまい、自動販売機で買った温かいココアを片手にホームドアに寄りかかる。体温を攫って行く風を避けるように、僕と小羽は身を寄せ合った。

「今度はさ。その先輩の個展、連れて行ってよ。わたしも自分の映っている写真見たい」

「わかった。次に展示する機会があったら連れて行くよ」

 彼女が僕の知らないところで父

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琳琅 創刊号より、「かんう」武村賢親

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井塚義明の視点4

 流れていく早稲田通りを見送ると、トンネルに入った電車の窓におれの丸い顔が映った。眉間には皺が寄り、酒を飲んだ帰りだというのに頬頭はまったく赤味を帯びていない。

 明日も仕事があると言って逃げるように店を出て来たが、駅まで歩いて電車に乗っても、自分の言動の根拠に思い至らなかった。おれから伝えて欲しい、か。小羽はそんなこと一言も言っていないのに。最後、咄嗟に付け足してしまった言

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