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琳琅 創刊号より、「かんう」武村賢親

鴇田重喜の視点3

 もぞもぞと身体を動かしながら僕の太ももに頭を乗せて胎児のように丸くなった小羽は、僕が何か言おうとする前に細い寝息を立て始めた。柔らかい手触りの髪が流れて、小羽のいつまでもあどけなさが抜けきらない目元を隠す。

「井塚さん、コートを」

 取ってください、という言葉を待たずに立ち上がった井塚さんは彼女のコートをハンガーから外して手渡してくれた。そのまま部屋の引き戸を開けて靴を履き、ちょっとトイレ、と言って席を外してしまう。引き戸を閉める際にお腹が引っかかっているのか、衣服の擦れる音がした。

 コートを広げ、丸くなった小羽の身体にかけてやる。最近ようやく肉付きが良くなってきた彼女の身体は、拒食と嘔吐を克服し、また以前のような引き締まった身体を取り戻そうと必死に栄養を求めているはずである。最近やっとまともな運動が出来るようになってきてさ、と言っていた彼女は、筋力が戻ったら、また一緒にサッカーとかしようね、とやる気満々で意気込んでいた。そういえば、小学生の頃から事件が起こるまで、僕は一度も小羽に一対一で勝ったことがない。右耳を壊されたトラウマもあって、まともに攻められない僕に、やんちゃだった小羽は、意気地なし、と言ってボールを蹴りつけて来るのだ。今にして思えば、小羽はけっこうないじめっ子だったのである。

 一人残された僕は残っている刺身をつつきながら小羽のジョッキに残っていたビールを飲んだ。静かな室内に小羽の寝息だけが聞こえる。彼女が入院していた病室を思い出すようだった。

 事件から五年。今でこそ忘れ去られた事件かもしれないが、当時、この事件はニュースにも大きく取り上げられ、事件後、小羽は怪我の治療と執拗な報道やSNSの弊害でしばらく表に出て来ることができなかった。高校は通信教育に切り替えたために卒業することができたが、大学には進まず、引き取られた親戚に紹介されたスポーツ用品店でアルバイトを始め、僕が大学を辞める頃には正社員として働くようになっていた。入社してからというもの、表情も以前のように豊かになったし、夜中に泣きながら電話をかけてきて、寝落ちするまで話に付きあってやったりすることも稀になった。いちいち僕にくっついてくるのは、入院中の依存が尾を引いているだけだろう。暇さえあれば見舞いに来る僕の腕を、痣が出来るほどに強く掴んでがたがたと身体を震わせていた小羽は、もうどこにもいないように思えた。

 引き戸が開いて、女将さんが空いた食器を片付けに部屋に入って来た。テーブル上の皿をお盆に移しながら、あら、気分でも悪いんですか、と言って、僕の太ももに頭を乗せる小羽を見やる。和服に割烹着という絵にかいたような女将姿は彼女の素朴な空気感に良く似合っており、音を立てないように最小限の動作で食器を運ぶ所作はまさに淑やかの一言に尽きた。お酒を飲むと眠くなる性質なんです、と答えながら、空いたビールジョッキや日本酒のグラスを女将さんの方へ寄せる。日本酒の升を渡したとき、女将さんが肩口に口を押し付けて、ごほっ、ごほっ、と咳を発した。布越しでくぐもっていたが、重そうな音である。風邪ですか、と訊くと、食器をのせたお盆を引き戸の向こうに滑らせながら、何でもないんですよ、毎晩乾燥していますから、湿度に気を付けないとこうなっちゃうんです、と言って座敷を出た。お大事にどうぞ、と声を掛ける。女将さんはこれまた淑やかに微笑んで引き戸を閉めた。あんなお嫁さんを貰えた佐久間さんが羨ましい。二人は神前式だったのだろうな、と勝手なイメージを膨らませて、残っている料理に箸をつけた。

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