琳琅 創刊号より、「かんう」武村賢親
小羽千尋の視点3
並々とビールが注がれたジョッキを片手に、乾杯の音頭をとる。きん、と澄んだ音が響くと、縁のギリギリに留まっていた白くきめの細かい泡が揺れて、わたしの親指に滴った。泡に上唇をつっこみ、ごく、ごく、と喉を鳴らしながら嚥下する。詰めていた息を勢いよく吐き出すと、ホップの香りが口内に広がってはればれとした気分になった。トッキーがわたしの顔を見て自分の鼻を指さしている。拭ってみると白い泡がのっぺりと手の甲に張りついた。まだ温かさを残すおしぼりで鼻の頭と唇との間を押さえるようにして拭う。お通しのお漬物をぽりぽりと咀嚼している井塚さんが既に半分を空にしたジョッキを掲げて、いいのみっぷりだ、若いうちはそうでなくちゃね、と上機嫌に言い放つ。そんな井塚さんの鼻の下にも白いひげができているのだった。
「最近、写真の方はどうなの」
井塚さんの一言で、話はトッキーの趣味活動の件に移った。ついこの間、先輩が開いた個展の一角を使わせてもらって、いくつか展示させてもらいましたよ、というトッキーは、仕事でカメラを使うかたわら、香坂慈畝というプロの写真家を師匠として仰ぎ、SNSを中心に作品を発信している写真家の卵でもあった。わたしも一冊、香坂さんの作品集を自室の本棚に並べている。ひとの持つ秘密や傷にフォーカスを当てた、薄暮のような雰囲気を醸し出している彼女の作風は、トッキーの追い求める写真の理想像っぽくてわりと気に入っていた。実物は女装趣味をもつ変わった人だけれど、自分と似た感性を持っていたから、彼はトッキーを弟子のように可愛がっているのかもしれない。
順調にお酒も進み、運ばれてきた鮮魚の盛り合わせに舌鼓を打つ。びんちょう、サーモン、赤エビ、マダコなど、箸をつけたお刺身はどれも新鮮で瑞々しく、はんぺんに明太子を塗って焼いたものや鳥軟骨のから揚げも奥ゆかしい自然な味付けでしつこくない。二人が足繁く通う理由もわかる気がした。店主の佐久間さんは良い人だし、料理を運んできてくれた奥さんも美人で気立てが良さそうである。何より、落ち着いた雰囲気の店内はゆるりと寛ぎながらお酒を楽しむには最高の環境だった。
目が据わってきている。手足の先がむくんでいるような感覚は酔いが回っているサインだ。重たくなった頭を回転させて二人の会話にリアクションをとる。叩いたトッキーの肩は見た目よりもしっかりしていて、いつにも増して頼りがいがあるように思えた。お前、そろそろ危なそうだな、というトッキーの一言にむっとなって、彼が手にしていた日本酒の升を奪って一息に空ける。
わたしは普段、一人でお酒を飲むということをしない。わたしにとってのお酒のつまみは一緒に飲んでくれている人の話や相槌で、これがないと上手に酔っぱらうことができないのだ。久しぶりのアルコールは固く凝り固まった精神をときほぐすのにとても効果があり、三日連続で三時間も眠れていないわたしにとっては、たった二杯のビールと一合の日本酒でも十分な睡眠導入剤となってしまったようだった。
「膝枕、ぷりーず……」
仰いだ獺祭が決め手となったのか、一気に頬が熱をおび瞼が重くなった。抗いがたい睡魔に襲われる。取り落としそうになった箸をテーブルに置き、そのまま上体を倒した。気が付いたときにはトッキーの太ももにおでこを擦りつけていて、冷たくはなかったがしんとしみいるような冬の匂いがした。服に染み付いた彼の匂いと一緒に深く胸に吸い込む。
あの時はもうちょっと汗臭かったな。
遠い夏の記憶が脳裏で揺らめいたと思った時、身体に布が掛けられたような気がして瞼を薄く持ち上げた。胸部の激痛と、今もなお焼かれているような熱に落ちかけていた意識が浮上する。痺れるように痛む顔面に、生暖かい雫が幾つも滴り落ちてきた。悲しみだか、怒りだか、それとも悔しさだろうか、顔をくしゃくしゃにして鼻水と涙を垂れ流すままにしているトッキーの表情は、わたしが初めて目にする種類のものだった。おいおい、涙は良いけど鼻水は勘弁してよ、というかきみ、なんで上半身裸なのさ。浮かんできた言葉は自分でも驚くほど弱々しい吐息となって歯の隙間から漏れ出して行く。耳まで垂れた熱い涙は、もはや彼のものなのか、自分が流したものなのかわからなくなっていた。
頭を抱きかかえられて、やっと自分の身体を見下ろすことが出来る。胸は見覚えのない柄のシャツが掛けられており、やっと彼が上半身裸の理由がわかった。こういうところは無駄に紳士だよね、と思いながら、腹部を通り過ぎて下半身を見やる。太ももの下に黄みがかった水溜りが広がっていることに気が付いて、急に羞恥心が沸き上がってきた。
あぁ、これはもう、ダメかもしれない。
血まみれで死に体な半裸を見られ、わたしの焦げた肉とおしっこの匂いを嗅がれ、汗で湿った彼の肌に頬を付け、涙と鼻水が混じった液体を飲まされている。大切なものを失ったような、奪われたような、もともとそんなものなかったような、もし父が素直に出頭する意志の強さを持っていたならば、こんなことにはならなかったはずなのに。
遠く、割れた窓から覗く夏空にサイレンの音が聞こえてきた。沢山の足音が部屋に踏み入って来てわたしの身体を持ち上げる。何度かトッキーに繋いだ手を離されそうになったが、その度に出来る限りの力で暴れてやった。逃がすもんか、バカ。お前はこれからずっとわたしの面倒をみるんだ。病院へ搬送されて、火傷の治療のため患部に麻酔を打たれた。身体から力が抜けていくのがわかる。眠りに落ちることがとてつもなく恐ろしいことに感じる。残った力をすべて振り絞って、繋いだ手に力を籠めた。
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