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琳琅 創刊号より、「かんう」武村賢親

鴇田重喜の視点4

 JR線のプラットホームで、僕らは二本目の電車を待っていた。始発は結局逃してしまい、自動販売機で買った温かいココアを片手にホームドアに寄りかかる。体温を攫って行く風を避けるように、僕と小羽は身を寄せ合った。

「今度はさ。その先輩の個展、連れて行ってよ。わたしも自分の映っている写真見たい」

「わかった。次に展示する機会があったら連れて行くよ」

 彼女が僕の知らないところで父親に面会していたというのは衝撃的な報せだった。事件後、警察の人や弁護士に会うのにも、引き取ってくれる親戚に会うのにも、必ず僕に同席を希望していた彼女が、たった一人で自分に傷を負わせた父親に会っている姿など、まったく想像もできなかった。もしかすると、僕が自分で個展を開くことが出来るようになった頃には、小羽の父親は出所していたのかもしれない。死因の心筋梗塞は僕と全く関わりのないことであるが、小羽の知らないところで彼女の父親を死に追いやる原因をつくった一端には、間違いなく僕がいるのだ。

 隣で白い息を吐き出している小羽を見やった。ホームを歩いていく人々の背中を目で追ってはちびりちびりとココアに口をつけている。

 僕は弱った小羽を支えることで悦に入っていたのだろうか。小羽には自分がいないと、なんて考えて、彼女の自立を遅らせていたのではないだろうか。僕の知らないうちに彼女はずっと強くなっていて、そのうち出所する父親と折り合いを付けるために、自ら足を運んで、過去の恐怖と向き合っていたのかもしれない。

 鳩尾の辺りで黒く重いものが渦巻いているように感じる。寒いはずなのに、背中にじっとりと汗を掻いているのがわかった。顎の下が熱く、飲み込む唾が固い。右手をコートのポケットに突っ込み、何年間も渡せずにいた小さな箱を握りしめる。すぐ目と鼻の先にゴミ箱が見えた。彼女を再び縛り付けてしまうかもしれないこんなものは、今すぐ捨ててしまった方が良いのではないか。僕のエゴを、きっと小羽は受け入れてくれるだろう。しかし、それは本当に僕の求めていた小羽との関係なのだろうか。指輪を見せた時、こいつは一体どんな表情を浮かべるのだろう。

 じっとゴミ箱の並ぶホームの一角を見つめていたために、ホームドアに寄りかかっている僕に警笛が鳴らされるまで、電車が接近してきていることに気付かなかった。

 驚いた弾みでポケットから手が抜け、指先に引っ掛けていたリングケースが零れ落ちる。白い小さな箱はホームドアに跳ね返って床を滑っていき、その行方を見守っていた小羽の足元で停止した。

 彼女の細い指が箱を拾い上げ、薄い掌の上にのせる。一目でそれとわかるリングケースをまじまじと見つめる小羽の表情は、笑うでもなく、泣くでもなく、まったくの無表情で何の感情も読み取ることが出来なかった。

 ドアが開いて次々と乗客が降りてくる。皆一様に、扉の正面で突っ立っている僕と小羽を迷惑そうに一瞥して去って行った。すぐに出発を告げる軽快なチャイムが鳴る。

 動こうとしない小羽に何かしら言葉を掛けようと口を開いた瞬間、彼女は僕を押し退けて、ケースを胸に抱えたまま電車に乗り込んだ。扉が閉まり、車両が動き始める。背を向けたままの小羽は、振り返ることなく行ってしまった。

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