琳琅 創刊号より、「かんう」武村賢親
小羽千尋の視点4
事件の後、同僚を殺害して実の娘にも手を掛けた父の行いは大きくニュースで取り上げられた。真相を確かめようと昼夜訪ねてくる報道関係の人間も少なくなかったし、それを理由に交友を絶交されたことだってある。当時のわたしは精神科のある病院に入院していて、面会は基本、助けてくれたトッキー以外とは絶対にしなかった。引き取ってくれるという親戚と会うにも、アルバイト先へ面接に行くにも、トッキーに同席してもらわなければ満足に話もできないほどの疑心暗鬼に陥っていて、そんな自分が死にたくなるほど嫌いだった。実際に、処方された薬を大量に飲んで自殺を図ったこともある。眩暈や耳鳴りばかりでなかなか死ねず、結局、トッキーに助けを求めて、また一緒に救急車に乗ってもらったことも何度かあった。
一週間くらい前、迷惑をかけ続けている彼に愛想をつかされて、本当にひとりぼっちになってしまう夢を見た。それまでに何度か彼に暴力を振るわれる夢を見たことはあったが、わたしに背を向けて何も言わずに去っていくなんて夢を見たのは、初めてのことだった。暴力を振るわれるよりも、離れて行ってしまうことにただならぬ恐怖を感じたわたしは、震える身体に鞭をうって、千葉刑務所へと出掛けたのである。
アクリル板の向こうに座っている父は、やはり父だった。ガスバーナーを振り回していたときの鬼気迫る表情などは欠片も見受けられず、そこにはいつもの、仕事帰りの疲れ切った表情を浮かべている五十七歳の男がいるだけだった。何度も謝罪の言葉を告げて頭を下げてくれたが、わたしの近況や、親戚家族の様子や、アルバイト仲間の話を聞くときはちゃんと父親らしく耳を傾けてくれる。三十分という短い時間だったが、わたしは五年ぶりに父の声を聞き、目を見て、親の真心に触れたような気がして満足していた。帰りのタクシーでは一度も吐き気に襲われることはなく、じっと窓に映った父親似の大きな瞳を見つめていた。
だから父が死んだと連絡が来た時、取り戻しかけていた自分の背骨のように大切なものが、天辺から根元までガラガラと崩れて、二度と取り戻せないような感覚に襲われた。隣で心配してくれていた井塚さんを置き去りにしてトイレに走る。結局間に合わずに、階段の中腹で吐き戻してしまった。追いかけてきてくれた井塚さんの介抱で落ち着きを取り戻すまで、ずっと蹲って、体内の水分が全部なくなるのではないかというほど涙を流し続けていた。
トッキーにはまだ、父の死を伝えていない。これ以上迷惑をかけると、いつかの夢が現実のものになってしまう気がして怖かった。彼には、たとえ暴力を振るわれても離れて行って欲しくない。こんなことを言ったら、それこそ彼は怒ると思うけれど。
髪をくすぐられたような気がして、意識が浮上する。トッキーの指がわたしの目元にかかった前髪を耳の方へそっと流して、優しく頭を撫でていった。うっすらと目を開くと、起こしちゃったか、といたわるような声が降りて来る。少し胸の辺りがむかむかした。きっと悪い夢を見たのだろう。内容は覚醒と共に霧散して、既に形が分からないほど漠然としたものになってしまっていた。小さく顔を振って身体を起こすと、テーブルの上は綺麗に片付けられており、井塚さんの姿もなかった。時刻はてっぺんをとうに過ぎて終電どころか始発の時間に迫っている。慌ててトッキーを振り向くと、井塚さんは終電で帰っちゃったよ、と言ってわたしのおでこを軽く指で弾いてくる。おまえ寝すぎ、と言う彼の顔が、少し疲れているように見えた。
カウンター席に出ると既に起き出していた作務衣姿の佐久間さんが、よく眠れたかい、と朝から良く通る声で迎えてくれた。部屋を貸してくれたうえ、起こさないでくれたことに重ねて感謝の意を述べて、わたしたちはお店をあとにした。新宿の朝は生臭くて、終電を逃して遊び歩いていた人たちや、朝一の仕事で駆け回る人々によって既に騒がしさを取り戻しつつある。刺すような空気の冷たさに、負けじとトッキーの手を取って大股で歩いてみれば、三日ぶりに満足に休めた身体はすこぶる調子が良く、これなら電車で五つの最寄り駅まで問題なく帰れそうだった。
繋いだ手を握り返されたような気がして振り向くと、フードのファーに首を埋めて鼻をすするトッキーが可愛く見えて、思わず口元が綻んだ。彼は訝しんで、なんだよ、と訊いてくるが、わたしは、出来る限りの笑顔を作って、なんでもないよ、と答える。
いつも支えてくれるトッキーに、今のわたしが返せるのはこれくらいだ。
この関係が何時までも続くとは思っていない。いつかちゃんと疾患を直して、彼から独立しなくちゃいけないことくらいわかっている。それでも、彼が近くにいてくれる間は、ほんの少しだけでも支えてもらいたい。もしトッキーが辛くなったとき、わたしが支えてあげられるように。彼にしてもらって救われたことを、わたしもしてあげられるように。
自然と握る手に力がこもった。それに気づいてくれたかどうかはわからないが、彼も歩幅をわたしに合わせてくれて、新宿駅まで並んで歩く。掌がいつもより温かく感じた。
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