琳琅 創刊号より、「かんう」武村賢親
井塚義明の視点4
流れていく早稲田通りを見送ると、トンネルに入った電車の窓におれの丸い顔が映った。眉間には皺が寄り、酒を飲んだ帰りだというのに頬頭はまったく赤味を帯びていない。
明日も仕事があると言って逃げるように店を出て来たが、駅まで歩いて電車に乗っても、自分の言動の根拠に思い至らなかった。おれから伝えて欲しい、か。小羽はそんなこと一言も言っていないのに。最後、咄嗟に付け足してしまった言葉は何だったのか。我が身の護身か、それとも鴇田への気遣いか、どちらにしろ、卑怯な大人のしそうなことだ。
車内に視線を戻すと、隙間なく密集した人々が互いに目を合わせないようにでもしているかのように、上を向いたり下を向いたり、目が合ってもすっと外したりしている。物理的な距離はゼロに等しいのに、全員が全員、隣の他人と必死に距離をとりあっていた。
この中に何人、PTSDを知っている人がいるだろうか。この中に何人、肺癌を患っている人がいるのだろう。佐久間が奥さんの癌を受け入れてジタンをアメスピに変えたように、小羽の親父さんの死を知った鴇田にも、何らかの変化があるのだろうか。おれが投げだした事実を、鴇田はどうやって受け入れるのだろう。
再び視線を移せば、周りのサラリーマンと同じようなスーツに腕を通したおれが窓ガラスに映っている。人の不幸に直面しても平気でいられる自分に嫌悪感を抱いた。頭の先から足の先まで真っ黒に染まっている。こんなスーツ、今すぐ脱ぎ捨てて、おもいきりゴミ箱に叩き込んでやりたいと思った。
上石神井で電車を降りてタクシーに乗り換える。襟足の白髪が目立つ初老の運転手が、どちらへ、と振り向いた。一瞬だけ迷って、吉祥寺駅まで、と応える。上着の内ポケットから煙草とライターを取り出して、後部座席の窓を全開にした。おれの行動に何かを察したらしい運転手が、酒焼けしたような声で、車内は禁煙ですよ、とバックミラー越しに視線を投げかけてくる。
「吸うわけじゃないから、気にしないで」
十数年間苦楽を共にしてきたポールモールを掌にのせてしばらく眺めてから、ハードボイルドとクラシックの象徴であった赤いパッケージをそっと窓の外へすべらせた。刺すように冷たい夜気が指先を凍えさせる。アメスピを吹かす寂し気な佐久間の横顔が脳裏をよぎっていく。指先の感覚はしだいに遠のいていき、ついにはなにも感じなくなった。フロントガラス越しに前の車のテールランプを見つめながら、常夜灯の光を受けて輝く赤いパッケージが、真っ黒なアスファルトに跳ねて、中に残っていた煙草を撒き散らす。そんな光景を想像した。
―終―
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