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琳琅 創刊号より 「かんう」武村 賢親

井塚義明の視点1


「あの人、定時上がりが常だよな。いい歳こいてクラブ通いとか」
「まぁ、そう言ってやるなよ。いろいろ溜まってるんだろ」
 聞こえてるよ、そう心の中で呟きながらデスクへと戻る。部下からの要望で買ってやったコーヒーサーバーの近くで、こんな陰口を聞くとは思わなかった。吉田が言うのは、まぁ、まだ分かるけど、佐々木はなぁ、あれじゃあ出世できないなぁ。
 ノートパソコンを鞄にしまい、机上に散乱する資料をファイリングしていく。取引先は青、社内資料は黄色、動きのあった株式は赤。しまった、コピーを取るのを忘れていた。
「佐野さん。この資料なんだけど、一部だけコピーしてきてくれない」
 タイミングよく眼の前を通りかかった佐野に資料を渡し、その背中を見送る。作業に戻ろうとした時、胸ポケットのスマートフォンが振動していることに気が付いた。引っ張り出して画面を覗くと、カメラのアイコンと共に鴇田重喜という名前が表示されている。画面をスライドして通話に応じる。もしもし井塚さん、今電話しても大丈夫ですか、という鴇田の言葉に、大丈夫、もう会社出るところだから、と、書類整理を勧めながら返す。
「今、新宿にいるんですけど、良かったら今晩飲みませんか」
 非常に魅力的な申し出だが、生憎、今夜は吉祥寺のライヴハウスに寄って、あわよくば終電までターンテーブルを回し続けるつもりだった。美味しい酒と肴に舌鼓を打つか、鳩尾を震わせる大音量のサイケデリックな夜か、どちらの楽しみを取るか少々迷ってしまう。悩んだ末に、今夜は吉祥寺でハメを外すつもりだから、今回はごめんね、また誘ってよ、と言おうと口を開きかけた時、スピーカーの向こうから、小羽もいるんですよ、という一言が飛んできた。あ、ほんと。じゃあ行こうかな。三十分ちょっとかかるけど平気? と思わず快諾の意を告げる。
「僕らも撮影で来ているので、ゆっくり来てもらって良いですよ」
 それから二言、三言話して、鴇田との通話を終えた。とっさに行くと言ってしまったが、小羽の方は大丈夫だろうか、まぁ、鴇田がいれば問題ないとは思うけど。
他に着信が入っていないかを確認してスマートフォンをしまうと、先程までオフィスの片隅にいたはずの佐々木が営業先に提示する資料を持ってやって来ていた。新規顧客の開拓に躍起になっている彼は、取引先の相手に合いそうな証券や株式の資料を作ってはおれの意見を仰ぎにやって来る。マニュアル通りで面白みのない資料に、何かアドバイスがあれば、なんて言われても返答に困るのだけれど、問題ない、ただお勧めを全部載せるんじゃなくて、幾つか掲載しないでおいて、会話の伏せ札にしておいた方が、引き出しが多いと思われるよ、と、取り敢えず自分が実践しているテクニックを伝えておく。顧客へ渡す情報は資料じゃなくて暗記が基本だからね、と念を押しておくが、彼はどこ吹く風な表情で、わかりました、とだけ言って去って行ってしまった。
 佐々木にはハングリー精神が足りないなぁ、もう少し食いついてくれれば教える方も楽しいのに、などと思いながら帰り支度を整えていると、コピーを取って戻って来た佐野が、この資料、今夜のクラブで使うんですか、と少し興味を持っていそうな声音で訊いて来た。彼女は前々からおれの通うライヴハウスに関心があるようで、たまに自分も連れて行ってほしいというような発言を口にする。そのうち連れて行ってあげてもいいとは思っているのだが、佐野には吉田が想いを寄せているらしいという噂が立っているので、吉田が何らかのアクションを起こして成就だか玉砕だかをするまでは、こちらから誘うということはしないようにしている。ただでさえよく突っ掛かってきては影で愚痴をたれ流す吉田なのだ。業務以外の部分でも険悪になったらなおさら面倒臭い。
 違うよ、これは帰りの電車で暗記する用、それに今夜はライヴハウスにはいかないしね、と応えながら、受け取った資料を小さく折りたたんで尻ポケットに突っ込む。原本の方は赤いファイルに丁寧にしまった。
「前々から訊こうと思っていたんだけど、佐野さんは吉田と仲が良いほう?」
 脈絡のない質問に首をかしげつつも、佐野は、あんまり、と控えめに答えた。吉田は相変わらずコーヒーサーバーの前で佐々木と駄弁を弄している。この距離なら聞こえないだろうと、少し声を潜めて、吉田が佐野さんに気があるって噂を小耳にはさんだんだけどさ、と軽く藪を突いてみた。
「私、吉田さんはちょっと」
 陰口をいう人は好きになれないです、という彼女の正直な返答に、少し胸がすいたような気分になった。用の済んだ彼女にお礼を言い、営業先のご厚意で頂いたタクシー券を一枚プレゼントする。喜々として自席に戻る佐野を見送ってから、退勤作業を終わらせてエレベーターへと向かった。オフィスの入り口を出たところで吉田と佐々木が、お疲れ様でした、と間延びした声を掛けてくる。それに応えながら、残念だけど吉田、きみの望みは薄そうだよ、と心内でほくそ笑み、エレベーターのボタンを押した。

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