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自分と向き合い、他者の靴を履いてみると、ちょっとだけ社会をよくできるかもしれない

私が通う早稲田大学には、「体験の言語化」という名物授業があります。どの学部の学生でも履修することができるオープン科目に属していて、15人程度の少人数のクラスの中で、履修生が「自分の心に引っかかっている体験」を持ち寄って、思い起こし、その体験を改めて捉え直す中で、個人の体験を単なる個人的な経験ではなく、社会の課題に結びつけ、「自己を社会に文脈化する」思考プロセスを学ぶ授業です。

なんだかよくわからない説明になってしまいましたが、「サークルでこんなムカつくことがあった!」「恋人にこんなことを言われて悲しかった!」「親にこんなこと言われてモヤモヤした!」とか、選ぶ体験は本当に自由で、体験が起こったそのときの自分の気持ちと相手の気持ちを多層的に掘り下げていって、自分の中に内面化されている価値観や、どんな社会的圧力によってその価値観が自分の中に内面化されてしまったか等々を考え、自分と社会とのつながりを見つける、という授業です。

私は現在4年生ですが、この授業を1年生のときに履修して完全に魅了され、その後はTeaching Assistant(TA)として受講生のサポートをしてきました。
所感としては、この授業に超どハマりする層が2割、それなりに授業として真面目にこなす層が6割、面倒臭くなったのか合わなかったのか一切授業にこなくなる層が2割、といった感じですが(笑)、今までTAをしてきた中で、15人のうちたった2割の超どハマり層に食い込んできた学生さんのうち、とても印象に残っている方が1人いるので、その方のエピソードについて書き残しておきたいと思います。

もともとそういう人だから、分かり合えなくて当たり前?

「体験の言語化」の授業は、全部で約2ヶ月、全8コマ×90分のクラスで成り立っています(2022年現在)。自分と深く深く向き合う授業としては、とても限られた時間しか用意されていないわけなのですが、このたった8コマの授業を通して自分の中で何か腑に落ちた感覚を得たのだろうな、ということが客観的にもよくわかる方が1人いました(Xさんとしておきます)。

Xさんは、最近仲良くなり始めたばかりの友達たちと集まって話をしていたときに、その友達のうちの1人が、自分の価値観とは相容れないような話をさも当たり前かのように話し、周りにいた数人の友人たちもまた、その意見に同調していたことにとてもモヤモヤしたそう。そのときの一場面を切り取って、深掘りする体験として持ってきていました(私自身の体験ではないので詳細には話せないですが)。体験を選んだら、まずは自分の感情を多面的に深掘りしてみて、その次に、簡単な演劇などを通し、相手の立場や感情にも目を向けていくというプロセスを踏んでいくことになります。

Xさんは「そういう価値観を持っている人がいるなんて不快!嫌だ!」と感じていることは自分自身で気づいて、何度も話してくれていたのですが、「相手の立場になってどんな気持ちだったのか寄り添ってみましょう」という時間になると、「相手がそんなことを言ったのは、もうなんか、そういう人だから」「相手は大して深く考えてなかったと思う。特に悪気もなかったんだろうし、深掘りするようなこともない」というところで行き詰まってしまいました。Xさん自身とても正義感が強いタイプで、自分の価値観とは相容れないようなことを言う人が考えていることはわからないし、想像できないという感じでした。というよりも、わかりたくないし、想像したくないし、そうする価値もないくらいの強いスタンスだったかもしれません。

思考を自分軸に戻す

その後、先生や、周りの違う境遇を持っている受講生とも話してみようと促してみると、徐々に色んなことに気づいていきました。

例えば、「怖い」「嫌だ」という感情にも、種類があるということ。例えば、単純に「怖い」と言っても、その人と同じコミュニティにいることで、自分も知らぬ間に同じような考えに染まってしまうのではないかという怖さ、自分も周りから同類だと思われているのではないかという怖さ、もしかしたら自分よりも相手の考えが社会の中では多数派なのではないかという怖さ、もしそうだったとしたらこれから社会はどうなるんだろうという怖さ。何を感じたのかということだけではなく、「どの部分」に、何を感じたのかということまで考えてみると、初めて感情が自分のものになったような感覚が得られる気がしています。異なる価値観に出会ったときに「え、あの人なんか怖い」「ちょっと嫌な感じだな」と思うことはあると思いますが、それは自分の感情を言語化しているというよりかは、相手にラベル付けしている感覚に近いのかもしれません。脅威的な存在には、名前をつけて、自分との間に境界線を引いてしまうと楽だから、「怖い人」「嫌な人」としてまとめておくみたいな。

でも、そこから一歩踏み込んで、なぜ、どの部分に、何を、どのくらいの強さで感じたのか、というところまで掘り下げてみると、自分の価値観がようやく鮮明に浮かび上がってくるようになります。「この人が◯◯な性格で△△な言動をしてて、なんかムカつく」ではなく、「この人の△△な言動にモヤモヤしたのは、私の中に□□な価値観や軸があるからだ」というふうに考えると、思考が自分軸に戻ります。安全な場所から相手の性格や行動をあれこれ評価する批評家ではなく、どんな体験や感情でも自分を知る材料にすることができる実践家であれるというか、そういうイメージです。

相手の境遇にも想いを馳せる

Xさんも、周りの力を借りて、具体的にどの部分に何を感じたのかを深掘りしていき、徐々にそのときの気持ちに名前をつけられるようになっていくのが分かりました。そして、「私はこういう性格なんで」「あの人はこういうタイプだから」というところではなくて、「私がこういう感情を抱いたのは、こういう価値観を持っているからで、その価値観を持ったのはこういう境遇や環境があったからで…」「そういえばあの人はこういう境遇があったな。そういう境遇で過ごしたらこういう価値観を持つかもしれない」というところまで深掘りが進みました。

そうすると、違う価値観を持っていてもあまり相手が怖く見えなくなります「あ、なんだ、そういう境遇や背景があったからそういう価値観を持ったんだ。その価値観が良いか悪いかとかは一旦端の方に置いといて、その価値観はその人が選んで持っているものではなくて、社会の力や周囲の環境によって抱かされたものなんだ」ということがわかるからです。だから、「体験の言語化」の授業を受けると、ちょっとだけ生きやすくなります

あくまで私からみた目線でしかないけれど、Xさんはあのときたしかに相手の言葉に大なり小なり傷ついていて、でもそんな言葉に傷ついた自分を認めたくなくて、「そんな価値観は一般的に考えて良くない」「そんな価値観に寄り添うようなことをしてはいけない」という鎧を着て、自分を守っていたのかもな、と後から振り返ると思います。

ずっとモヤモヤしていたXさんは、最後の授業にはとても腑に落ちた柔らかい表情をしていました。授業が始まったばかりの頃、「その子はもうそういう人だし、私はそういう価値観は受け入れられないタイプなんで」と頑なに言っていたときとは、文字通り別人のような表情でした。自分の中でたくさん考えて整理をつけて、自分の鎧の存在に気づいて、それを脱ぐ意思を持って素顔を見せてくれたんだな、ということがよく伝わってきました。とても強い人だと思いました。

社会との接点を探るということ

そして「体験の言語化」を受けると得られるもう一つのいいことは、つまらないと思っていた社会がちょっとだけビビッドに見えてくることです。相手との関係性の間には、出身、性別、所属、年齢などいろんな要素が詰まっているし、私たちが何らかの価値観を抱かされるとき、社会が私たちに圧力をかけています。それらを解きほぐしたいと願うとき、自然と内側から湧き上がってくる感情によって、私たちは社会について関心を持つことができます。例えば、恋人との関係性に悩んでいた人はジェンダーの分野に興味を持つかもしれないし、親子関係に悩んでいた人は家族社会学に興味を持つかもしれない。バイト先との関係性に悩んでいた人は、ちょっとだけ日本の経済の仕組みに関心を抱き始めるかもしれない。自分の関心をもとにして、本質的な学びにつなげていくことができる可能性を秘めている授業なんです。

まずは小さな一歩から

最後に、Xさんの話を聞いた先生が「本当に友達だと思っているなら、今度からは自分の考えを伝えないとね。とりあえず『そういう考え方もあるよね〜』と言ってその場をやり過ごすんじゃなくて、伝えてわかってもらえなくても、あなたがどういう価値観を持って生きているかを表現することに意味があるでしょう。」と言っていたのにも強く心を打たれました。相手はもしかすると自分が今持っている価値観以外を知らないのかもしれないから、対話の余地があるなら挑戦してみようと。それを積み重ねていくことが、例え小さくても社会を変える一歩に繋がるかもしれないから。


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