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自分史

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自分史第14弾〜小学生2年生春〜

長らくおやすみしていた自分史について再会したいと思います。これから小学生2年生の頃、話を書ます。2年生は、色々が重なり地獄でした。それでは、始めたいと思います。

今日の目次・2年生の春
・待ち受ける地獄
・次回予告

・2年生の春2年生になった僕は、ワクワクしていました。なぜなら、学年が上がったのと「お兄ちゃん」と呼ばれる機会が増えていたからです。実は、小学生1年生の7月に妹が生まれていました。

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自分史第13弾~小学生1年生のまとめ~

小学1年生を今振り返ると、「発走(発想)夢中」という言葉が思いつきます。「発走(発想)夢中」は、木下語録です。込めた意味は、動き出して、自分の考えを夢中になっている状態を込めました。なぜなら、この時期に人生のステップを踏みだし、考え付いたことを実行することにワクワクしていたからです。
僕は、1年生は試すことに躊躇せずに怒られることよりも規則よりも自分がどう思うかにフォーカスしていました。そして、R

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自分史第12弾~作戦実行~

 前回は、悪ガキ3人組で立て作戦のエピソードを書きました。もし、前回を見られていない方がいた場合は以下の記事から読んでいただければ嬉しいです。

小学1年生の僕らが作戦を立てたところまでいい感じでした。ただ、まだ小学1年生でした。役を決めたところで、慌ててしまい役通りできない羽目になりました。
 結果として、僕がカギ閉める以外の役割を一人でしてしまいました。僕が率先して作戦を立てたのに、忘れてしま

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自分史第11弾~悪ガキ3人組~

今日は、悪ガキ3人組の由来について書きたいと思います。由来は、シンプルにいたずらばかりしていたからです。
 今でも、当時の看護婦さんやR君とたまに集まって、思い出話に花を咲かせることがあります。特に話題にあがるのは、「当直の先生閉じ込めた事件」です。このことは、本当にひどいことしたと今振り返っても思います。事件の内容は、以下のようになります。
 寮には、毎晩当直の先生がいました。担当の先生によって

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自分史第10弾~暴走族3人組の結成~

今日は、タイトルの暴走族3人組のエピソードに書きたいと思います。

小学1年生の頃には、立派に車椅子で暴走族化していました(正確には、僕らのほうが正解かも・・・(笑))。入学してから寮生活と支援学校で常にR君とN君と一緒に生活していました。R君とN君は、僕よりも車椅子の漕ぐスピードが速くて悔しい想いをしたのは過去の記事で書きましたが、改め言わせてもらうと超悔しかったんです。毎日、毎日、必死になって

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自分史第9弾~プールでの苦い思い出~

前回は、小学生1年のころに寮生活で引き起こした事件について紹介しました。前回の記事を見てない方は、そちらから見ていただけると嬉しいです。

今回は、小学生1年生のころに引き起こした学校でのほろ苦い思い出を紹介したいと思います。それは、夏のプール授業で起こしてしまいました。プールの授業は、基本的に多数のクラスが合同で行うという方式になっていました。親友のR君やN君のクラスと合同で僕のクラスはプール授

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自分史第8弾~ルール作り~

僕が寮生活を開始するまでは、ルールがあまりない寮でした。今は、「ゲームは5時~6時までナースステーションに返却する。破られた場合は、一週間のゲーム禁止及びトイレ掃除を課す」や「1病棟と2病棟は夜6時以降の行き来は禁止」といったような、数々のルールがあります。今あるルールはすべて僕が起こした問題が発端で作られました。本当に今いる後輩にはごめんなさいです。僕が小学1年生に起こした問題で特に覚えている3

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自分史第2弾~長い闘病生活~

自分史第2弾~長い闘病生活~

鹿児島大学病院(以下鹿大)に転院した僕は、約4年間も入院・退院を繰り返す日々を母と送ることになりました。母は、基本的に病院で寝泊まりを一緒にしてくれました。父は、母と僕を守るために仕事が終わった後に鹿児島まで高速で車を走らせて毎日のように来てくれていました。父は、この時のことを僕が大きくなった時に以下のように話してくれました。
「大輔のことはもちろんのことだが、母が体を壊さないか心配だった。でも、

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自分史第1弾~生まれた日~

僕は、1994年07月19日午後5時39分にこの世に生まれました。母のお腹から帝王切開で取り上げてもらいました。親戚一同喜んでくれていたと話を後々聞きました。
体重3195g・身長50㎝と至って普通の赤ちゃんとして元気に生まれたはずでした。ですが、生後7日で生まれた病院から国立都城病院に転院し最終的には鹿児島大学病院に転院することになりました。
転院の理由は、生後7日間ミルクを与えてもあまり飲まな

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自分史第4弾~教育熱心の母~

自分史第4弾~教育熱心の母~

5歳から6歳の3月にかけて「ひかり園」と「名峰保育園」に通わせてもらいました。どちらとも楽しかったです。
 ひかり園では、同じような障害を抱えた同世代の子やそのお母さんと一緒に遊ばせてもらいました。ひかり園での好きな遊びは、高速ブランコでした。高速ブランコというのは、自分で食わることができない推進力を先生にかけてもらって、ブランコで遊ぶというものです。それは、僕は超楽しかったんですが、先生たちは必

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自分史第3弾~4歳から問題児本領発揮~

僕が入院生活を終え、自宅での生活をするためには、母の努力がありました。今はNGらしいですが、当時の母は点滴の仕方といったような処置を看護師さんから学んでいました。今でも母は、病院にいき注射の処置を見てると、「あの看護師さんよりも私のほうがうまいわ~。教えてあげようかしら」ということを言います。処置を学んだ母の努力のおかげもあり、僕は月2・3回のペースで鹿児島大学病院への通院で退院を許されました。当

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自分史第5弾~保育園で得た経験から僕からのメッセージ~

5歳半からひかり園と並行して通いだした名峰保育園は、何も抱えてない人たちとの生活でした。僕は、それまで俗にいう健常児と一日の大半を生活することはありませんでした。通いだしたとき、僕自身が周囲の子たちから不思議そうな目で見られるのが不思議でした。僕にとっては生まれてからこの体が普通で、周囲の子たちのほうが異常に見えました。この時は、何が普通かわかりませんでした。並行して通っていたひかり園は、障がい児

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自分史第6弾~6歳児の大きな決断~

5歳児半から通いだした1年半の保育園生活はあっという間でした。年長組になったときぐらいから、周囲の友達は「来年から小学校だね」と騒ぎ始めました。僕は、この楽しい保育園生活がずっと続くと思っていたので「え?何のこと」って感じでした。僕は、なんとなくこのまま同じように学校も通うんだと思ってました。でも、決断を迫られることになります。それは、支援学校に通うか一般の学校に通うかのどちらを選ぶ権利を得たので

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自分史第7弾~憧れの人と出会う~

こんばんは。今日から小学生の頃の僕を振り返りたいと思います。小学生に上がり、自分自身で親元から離れたいと思いから支援学校に通い、寮生活をし始めました。
 寮生活を始めた数日は、両親から解放された解放感でいっぱいでした。ですが、それが、始めて3日で寂しくなってしまいました。僕自身も予想外でした。朝おきて、「おはよう」と両親に言われて僕の好みに合わせた朝ごはんがあることへの幸せを感じました。僕が通って

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