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自分史第2弾~長い闘病生活~

鹿児島大学病院(以下鹿大)に転院した僕は、約4年間も入院・退院を繰り返す日々を母と送ることになりました。母は、基本的に病院で寝泊まりを一緒にしてくれました。父は、母と僕を守るために仕事が終わった後に鹿児島まで高速で車を走らせて毎日のように来てくれていました。父は、この時のことを僕が大きくなった時に以下のように話してくれました。
「大輔のことはもちろんのことだが、母が体を壊さないか心配だった。でも、俺が付きっきりになるわけいかない。大黒柱として、安心して治療費を稼ぐ必要があった。だから、移動の合間に仮眠をとりながら宮崎ー鹿児島を往復する生活を送るしかなかった。本当にあの時は必死だった。」
 母も父も必死に生まれて間もない僕を守ってくれました。さらに鹿児島にいる親戚(以下鹿児島のおばちゃん)も一緒に病院にきて、僕と母を気にかけてくれてました。その時、鹿児島のおばちゃんも育児中の身でしたので僕のおばあちゃんがその子たちの面倒をみてくれていました。木下一族総出で僕を守ってくれていました。
 僕は、鹿大の主治医や看護師さんにも恵まれていました。母が僕を病気を持って生んだことで自分を責めていると時には慰め・時には叱り・一緒になって闘ってくれていました。また、母は入院仲間もでき、すごく支えられていました。
 3歳になる頃に先天性脳性麻痺が発覚しました。でも、母は「なんでもやらせてみよう。この子にはできないことはない。人様のお金で、手術をさせてもらっているのだから将来的には絶対に税金を納める立場になってもらわないといけない。」と思ったということでした。僕は、毎回講演会でこのことをネタとして使用するんですが、本当に我の母ながら強すぎると思います。だって、母が決意したおかげで僕はこの後生活で人一倍厳しくされ、何度憎んだりしたか・・・(笑)。でも、大学生になったころにはこの決意に感謝することになります。その話は、追々書きたいと思います。
 母は、節目には必ずに僕に言うことがあります。「大輔の命は、大輔だけのものじゃなくて、本当に色々な人に支えられて生きてるんだよ??だから、恩返ししていこうね。」

 こうやって、改めて振り返ると色々な人が僕の命を守るために自分にできることでお互いを支えあい、活かしてくれました。まるで、リレー形式のような形でつないでくれました。だから、僕は僕の人生を助けてくれた人が助けてよかったなと思われる生き方をしていきたいと思います。

今日は、ここまで。続きは明日にします。明日から入院生活を終えて自宅に帰ってからのことを書きたいと思います。


#闘病生活 #感謝 #父と母 #先天性脳性麻痺 #ヒルシュスプルング病

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