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自分史第4弾~教育熱心の母~

5歳から6歳の3月にかけて「ひかり園」と「名峰保育園」に通わせてもらいました。どちらとも楽しかったです。
 ひかり園では、同じような障害を抱えた同世代の子やそのお母さんと一緒に遊ばせてもらいました。ひかり園での好きな遊びは、高速ブランコでした。高速ブランコというのは、自分で食わることができない推進力を先生にかけてもらって、ブランコで遊ぶというものです。それは、僕は超楽しかったんですが、先生たちは必死で押して下っていたのを覚えています。
 ひかり園での思い出として、心に刻まれていることがあります。それは、母が何も手伝ってくれないということです。車椅子を押すのも自分で、服のボタンをかけるも自分で、ご飯を口に運ぶのも自分でやらされていました。当時は、左手に麻痺症状が少し出ていました。ですが、そんなのお構いなしでした。すべての動作に対して、母基準で遅かったら怒られてました。もう恐怖でした。ほかの子は、お母さんに手伝ってもらっている状況で、自分だけ怒られるかもしれない恐怖と戦っているのですから・・・。だから、覚えた技としてひかり園の先生に手伝ってもらうということでした。バレたら怒られていました。後々知ることになりますが、母は意図してやっていました。その真意は、この子をここで甘やかしたら独り立ちできないということでした。5歳児時点で、10年後や20年後を見据えた育児をしていたということです。我の母ながら、あっぱれです。
 ひかり園に通いだして、変わったことがありました。それは、公文を使用してのお勉強が始まったのです。内容は、ひらがなの読み書きや線の書き方を勉強しました。最初は、初めてだったので楽しかったんですが、だんだん飽きてきました。母は、そこを物で釣ったり、お昼や夜ご飯を終わらないとあげないよと言ってきて圧迫をかけてきました。お昼や夜ご飯を出されたらやるしかありません。そこまで、追い込まれていました。ですが、この時の苦行が7歳になって、小学生になった瞬間に役に立ちました。

 6歳児には、地元の一般保育園に通うようになりました。通いだしたいきさつは、シンプルでした。僕が「行きたい」と言い出して、わがままを言ったからでした。母たちも普通の子と同じように小学校に行くと思っていたので、混じらわせたかったという思いもありました。そこから、交渉が始まり、保育園に通うためにトイレを改造していただいたり、僕専用の先生を二人追加で新たなに雇ってもらいました。本当に至り尽くせりというのは、このことですね。
 通うことになった「名峰保育園」は、仏教のお寺の保育園でいした。毎朝、必ず合掌の時間がありました。意外にも、合掌する時間は好きでした。「なぜなんだろう」と今でも思うことがありますが、思い出せません。ここでは、友達のつくり方や一緒に遊ぶことを学びました。そこら辺を明日の更新時に書きたいと思っています。
 では、また明日。

#ヒルシュスプルング病 #先天性脳性麻痺 #車椅子 #保育園 #教育


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