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第2章_#09_マリアージュ・フレールの紅茶と、再びの中華レストラン
1994年12月、初パリ。
さて、パリ暮らしにすっかり馴染んでいるE子さんのお住まいにお招きいただき、私とB子さんはサンジェルマンデプレの裏手にあるアパルトマンへいそいそとお邪魔した。
あまりに昔のことなので、細かいことはまったく覚えておらず、写真もないが、シンプルな家具でスッキリと暮らしておられた記憶だけはある。よく女性誌などの写真で見かける「これだけの家具でどうやって暮らせるのか?」と思っ
第2章_#08_ドゥ・マゴとサンジェルマンのビストロのオニオングラタンスープ
1994年12月。初めてのパリ。滞在3日目。午後。
私とB子さんは、サンジェルマン大通りを歩いている。
その前に、
B子さんの風邪は、やはり奇跡は起こらず、翌朝になって劇的に完治することはなかった。しかしながら幸い重症化もしておらず、咳と鼻水は出るものの普通に活動はできる低空飛行レベルにとどまっている。
おそらく私が日本から持ってきた抗生物質のおかげであろう。(しつこい。)
その抗生物質は
第2章_#07_パリのマクドナルド〜初人種差別〜セーヌ河クルーズ〜安物のブーツと抗生物質
1994年12月。初めてのパリ。初日。
オルセー美術館で午前中から午後を過ごし、パリに留学中の2人の友人との待ち合わせ場所に向かう。マクドナルド、シャンゼリゼ通り店。そう、あのマクドナルドだ。
パリまで来てマクドナルド?まぁ確かにそうだが、分かりづらい場所で待ち合わせて巡り会えないと困るから、こういうベタな所がいいのだ。だって、当時は誰も携帯電話なんか持ってなかった。待ち合わせに失敗して永久に
第2章_#05_パリの朝は真夜中?
さて、1994年の初パリ。
出国から数えて24時間以上寝ていないので到着日の夜は崩れるように就寝。しかしながら、体内時計はまだ日本なのか、夜中に何度も目を覚まし、ようやく寝入ったかと思った頃にもう朝7時のアラームが鳴る。
一人旅なら二度寝するところだがそうもいかぬ。
先に洗面所を使った方がいいだろうな。頭ボンヤリしたまま身体を起こす。
パリの朝。もうそれだけで感慨深い。
さあ、まずは朝日を浴び
第2章_#02_胸いっぱい腹いっぱいの国際線
さて、1994年12月某日。旅慣れたキャリアウーマンB子さんと共に、機上の人となる。12時間後にはパリだなんて、まだ信じられない。
九州出身なので飛行機には数え切れないほど乗ってきたが、12時間もの長時間のフライトはもちろん初めて。1日の半分だ。一体どうやって過ごすのかイメージできない。とりあえずコートを脱いで頭上の物入れに仕舞い、飛行中に使う身の回りのものや本などを座席ポケットに入れるが、ポケ
フランスと私 第二章 「最初のフランス」
フランスと縁があるはずなどない九州の離島で生まれ育ったにも関わらず、人生のところどころでフレンチ・カルチャーにひょんなきっかけで出くわし、30歳目前にしてこれまたひょんなきっかけでフランスへ旅することと相成った私。
ここまでのいきさつは、第一章「出会い」を:
https://note.com/rica_motoqui/m/m98089bac0884
さて、初めてのフランス。
準備の段階から分か
第1章_#08_きっかけはいつも何気ない
さて、無期延期となったフランスへ絵の勉強をしに行く夢。
その後、結婚したり、会社の仕事も副業のイラストも忙しくなったりで、しばらく忘れていたが、ひと段落つくと思い出してしまう。ため息をつきながら、あ〜、フランス、行きたかったな~とウジウジ思い悩む日々。
日仏学院の早朝初級クラスはどうにか続いてはいたが、動詞の活用や時制はややこしくなるし、冠詞は今ひとつピンとこないし、覚える単語も増えて、なんとな
第1章_#07_飯田橋のフランスと潰えそうな夢
さて、続き。お茶の水のアテネ・フランセで入門科を終えた。入門科はABCから基礎的な文法までで終わるクラス。赤ん坊が3歳児になった程度のことだから、次の初級クラスからが本当のスタートである。なのに、アテネ・フランセには初級以上の早朝クラスがない。残業が多いから夜のクラスは無理だ。困っていたら、クラスの事情通に、飯田橋の学校に早朝クラスがあると教わった。おお、それは朗報。
その学校は、日仏学院(現