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第2章_#09_マリアージュ・フレールの紅茶と、再びの中華レストラン

1994年12月、初パリ。

さて、パリ暮らしにすっかり馴染んでいるE子さんのお住まいにお招きいただき、私とB子さんはサンジェルマンデプレの裏手にあるアパルトマンへいそいそとお邪魔した。

あまりに昔のことなので、細かいことはまったく覚えておらず、写真もないが、シンプルな家具でスッキリと暮らしておられた記憶だけはある。よく女性誌などの写真で見かける「これだけの家具でどうやって暮らせるのか?」と思ってしまう、あの感じ。ほんとに暮らせるものなんだと妙に納得した。

聞けば、独り暮らしではなく、パティシエ修行中の女性とシェアしているということだった。その方は仕事に出かけていたのでお留守だったが。
こんな立地で、家賃いくらぐらいなのかな。
喉元まで出かかったが、はしたない気がして、我慢した。

「紅茶でいいですか?」

とても香りのよい紅茶を淹れていただく。花のような果実のような甘い香り。

「おいしい紅茶でしょう?私はこのお茶が大好きで、去年一時帰国したときも、何はさておきこれだけはと真っ先にスーツケースに入れたくらい。」

パリの老舗紅茶店「マリアージュ・フレール(Mariage Frères)」の看板商品『マルコ・ポーロ(Marco Polo)』のことである。
当時はまだ日本には出店していなかった。

「家に着いて、荷解きそっちのけで、お湯を沸かして淹れたの。
そしたらね、日本で飲むとちっとも美味しくないの。ビックリするくらいに。
なぜだろうといろいろ考えたんだけど、やっぱり日本は硬水じゃないからかしら⋯。」

ふうん、そんなものなのか。というか、さっぱりわからなかった。

「マリアージュ・フレール」は、その3年後の1997年、銀座のすずらん通りに日本第一号店が誕生した。
以後、あれよあれよという間に、都内のあちこちにショップができて、一番人気の『マルコ・ポーロ』はそこらへんのスーパーでも見かけるようになった(最近は見ないけど)。

あの時の彼女の分析がもしも正しいとすれば、我々は、軟水で淹れたがために本来の美味しさを100%発揮できてない残念な高級紅茶を、美味しい美味しいとありがたがって飲んでいるわけか⋯と、30年近く経った今でも、デパ地下などに入っているショップの前を通るたび苦笑してしまう。

突然、E子さんが立ち上がる。

「そうだ!マリアージュ・フレールのお店に行ってみましょう!とっても素敵なんです!お連れしたいわ!」

パリにもマリアージュ・フレールの店舗は複数ある。位置的に、リヴゴーシュ店がいちばん近いから、たぶんそこだったはず。歩いて数分くらいだっただろう。

外観からして、その佇まいのシックなことと言ったら!
木の扉を開けて中へ入る。

1Fはショップ。
その後に訪れた日本の店舗の記憶に上書きされているかもしれないが、
壁面に隙間なく並べられた大きな茶缶。黒くてシックな例のやつだ。
好きな茶葉を指定して量り売りで購入するシステム。これは日本でも経験している人は多いはず。
量り売りの茶葉のほかに、ティーバッグやジャム、茶器などもあるが、ひとつひとつの商品のパッケージデザインが洗練されているのに加えて、ディスプレイも気が利いていて、なんというか、オシャレ圧がすごすぎる。
当時の日本にこんな素敵な場所はなかったのだ。(たぶん。)

ショップはさっと見て、2Fのサロン・ド・テに向かう。

サロン・ド・テというのは紅茶専門の喫茶店のこと。質のよいこだわりの紅茶が供され、夢のように美しいお菓子が楽しめる。
フランスの代名詞とも言える「カフェ」とは明らかに違うジャンルの飲食店と思った方がいい。
客層も、雑多な人々が集うカフェとは違って、裕福そうなお上品マダムが多い。
ちなみに、カフェにも紅茶はあるけれど、たいがいはポットに入ったお湯と空のカップとティーバッグが1個、素っ気なく出てくるだけだ。
ゆえに美味しい紅茶が飲みたければ、そして優雅な気分に浸りたければ、カフェではなく、サロン・ド・テに行くのがよい。

さて、話をマリアージュ・フレールの2Fに戻す。

正直、サロン・ド・テの様子も銀座本店の記憶に上書きされて全く覚えていないのだが、スタッフの制服が白い麻のスーツで、あ、それは日本でもそうだっけな、ただ、そのときのスタッフがモデルみたいにシュッと長身の黒人男性で、麻のスーツがもう本当に格好よくキマッていて、近くに来るとほんのりと上品な香水の香りがして、なんというかここに自分がいていいのだろうかとオドオドしてしまうほどに素敵な場であったことだけは覚えている。

(やべー、緊張してきちゃったよ。)

そして、紅茶の種類が豊富、というレベルを通り越して、山ほどありすぎて何をオーダーしていいのか分からない。しかも当たり前だけど全部フランス語だし。

(ムリだ。選べぬ。)

ものすごい迷い症の私は、こういう状況がとても苦手だ。
さっきE子さんの部屋で飲んだナントカってやつでいいか⋯いや、でもそれじゃ、やる気なしって思われるよなぁ⋯。

「多すぎて選ぶの大変ですよね?」
困り顔の私に気づいたE子さんが助け舟を出してくれた。
「⋯はい、ちょっと無理です。」

結局、E子さんのオススメ茶葉とお菓子をオーダー。
どんなお茶とお菓子を頂いたのか、ましてや味などはまったく覚えてないけれど、運ばれてきたティーポットのお洒落なこと、お菓子の美しさに感動したことだけは今でも覚えている。
(たぶんその時のティーポットもお菓子も、いま銀座本店とかに行けばフツーに見ることができると思う。)

緊張しいしい、でも素敵なひとときを過ごし、E子さんのガイドで付近をぶらぶらと散策する。他愛もないおしゃべりをしながら、時おり小さな雑貨屋を冷やかしたりしながら。パリはこういう風に過ごすのがとても楽しい。

歩きながらB子さんが提案する。
「ねえ、よろしかったら、お夕食もご一緒しません?私たちにお返しをさせていただきたいの。」

そう。
昨夜ホテルに帰ったB子さんと私は、「E子さんに何かお返しをしないと」「お夕飯をご馳走するというのは?」と打ち合わせをしたのだ。

E子さんも快諾。
「うれしい!ではお言葉に甘えます!」

あれ?でも、店は決めてなかったよね。どうするんだろう。

「移動をするのもアレだから、歩いていける範囲にしましょう。E子さん、中華はお嫌いじゃない?」とB子さん。

もしや、その中華って⋯

「オデオンのすぐそばに、行きつけの中華レストランがあるの。そこはどうかしら?ね?」

やっぱりあの中華屋か。
パリに着いた夜に行った、中華なのにフォーがあった店。
名前も知らない店。

「え、ええ、そうですね⋯。」と私。(答えようがないし。)

正直なところ、あの中華屋がパリでどのくらいのレベルか、パリ初心者の私には見当がつかない。パリに中華屋があることに驚いたくらいだし。
まぁ、中途半端なビストロにお誘いして、グルメな彼女のお口に合わないよりは、中華が無難と考えたに違いない。それは間違ってないとは思う。
でも、一抹の不安が胸をよぎる。

さて、名前も知らない中華屋に再訪。

細かいことは覚えていないが、オーダーした料理のひとつがチキンカレーだった。そのチキンが、やたらと皮だらけで、しかも細かく切られておらず大きい塊のまま供されたことに驚いた。
そしてさりげなくE子さんを盗み見した。明らかに困惑の表情。
そういえば、口数が減ったし、あまり食も進んでない感じだ。

(これはヤバいかも。B子さんは気づいていないのかな。)

今度はB子さんをチラリ盗み見する。
なにも気づいていない様子でモリモリ食べている。
この人は、どうしてこんなにマイペースなんだろう⋯。

でも、そういうB子さんを見ていると、いちいち人の顔色を窺ってばかりいる自分がとても卑屈に思えてきた。
そう。気にしても意味がない。単に私の思い過ごしで、E子さんが気に入っていないと言ったわけでもないんだし、と気を取り直そうとしたところで、なし崩しにするようにE子さんが口を開く。

「⋯ちょっとダメだと思います。」

え?なに?
私とB子さんは同時に顔を上げて、E子さんを見る。

「ごめんなさい。ここは失格だと思うんです。なぜなら⋯⋯」

ダメの理由を簡潔に挙げ始めた。
(理由の中には案の定、皮だらけのデカい鶏肉のことも含まれていた。)
そうか、彼女はグルメだもの、中華にもうるさいのは当たり前だ。

それにしても、まさかのダメ出し。
招待された立場でありながら、連れられた店を酷評する。
まず日本だとこういう展開はあり得ない。
しかし、その物言いは真摯で、小馬鹿にした様子は微塵もない。
パリに暮らすと、言いたいことがあればこうして、誰に遠慮することなく真っ直ぐに自分の主張を述べるフランス人のようになるのだろうか。
少し羨ましくも思った。

「中華なら、もっと美味しいお店があるんです!しかもここから遠くないところに!」
最後にこう締めくくって、批評は終わった。

行きつけの店をケチョンケチョンにけなされた格好になってしまったB子さんはどう思っているんだろう。怒っているんだろうな。
また顔色を窺おうとした。すると⋯

「是非そこ行ってみたいわ!」

なんと、怒るどころか、モアベターな中華レストランに興味津々だ。
この人は、なんというか、心が広いのか、鈍感なのか、実に不思議な人だ。

「お気を悪くされたらどうしようと思っていました。」
「そんなことないわよ、率直に言って下さる人って好きだわ。
で、そのお店はどんな感じなの?」
「地元の人にも人気で、早い時間から行列ができるんです。
いつも並ぶ覚悟で行きます。本当に何を食べても美味しいんですよ。」
「わぁ、いいわねぇ。私も並んででも食べてみたいわ。」

2人は、私を置いてけぼりにしてワイワイ盛り上がっている。
気がつけば、次はその店に食べに行こうという約束が成立していた。
明日から2泊の予定で地方を旅する予定が入っていたので、パリに戻ってきた日の夜に。

私もニコニコとうなずきながらも、心の中では

(なんで、また、中華ーーーーーーーーっ?!)

と叫んでいた。

初めてのパリで、10日間程度の旅で、そのうち3回も中華を食べるって普通なのかしら⋯。
その夜はベッドに入ってもなかなか寝つけなかった。

明日から、2泊でロワール地方への旅。
ようやく観光旅行らしいことができることを祈りつつ⋯。
À bientôt!

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