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第2章_#08_ドゥ・マゴとサンジェルマンのビストロのオニオングラタンスープ

1994年12月。初めてのパリ。滞在3日目。午後。

私とB子さんは、サンジェルマン大通りを歩いている。

その前に、

B子さんの風邪は、やはり奇跡は起こらず、翌朝になって劇的に完治することはなかった。しかしながら幸い重症化もしておらず、咳と鼻水は出るものの普通に活動はできる低空飛行レベルにとどまっている。
おそらく私が日本から持ってきた抗生物質のおかげであろう。(しつこい。)

その抗生物質はなぜかB子さんがパッケージごとあたかも私物のようにキープしており、昨夜も1錠ポイッと消費された。(しつこい。)

昨日(滞在2日目)は、B子さんの風邪に障らぬよう、無理をせずご近所の散策にとどめた。
1人で行きたいところへ行けばよかったのだが、初の海外旅行で不安が先に立ち、気疲れもしていたのか、まったくそんな気にならなかった。

いや、それよりも問題だったのは、私のくるぶし、というか安ブーツだ。
新しい靴を買おうと決心したのだが、外に靴を買いに出るには裸足というわけにもいかないから、靴が要る。この安ブーツをどうにか履ける状態にしないことには、靴も買いに行けないってことだ。
(くるぶしの痛みは昨日とうに限界に達し、腰痛に頭痛まで併発していた。)

考えあぐねた末、サイドゴアのゴア部分をザクザクと切って、ゆとりを作り、締め付けから解放させようと思い至った。
しかしながらハサミは持参していない。何かないかと探したら、ミニソーイングキットに小さなハサミを見つけた。が、そのハサミというのが、糸ぐらいしか切れない小さくて脆弱な代物。まぁボタンつけくらいしか用途のないミニソーイングキットの付属品だから、仕方がない。
(旅の素人だったので、ホテルのフロントでハサミやカッターを借りるという発想がまったくなかった。)

しかしまぁ、皮ほど硬くないにしても結構分厚いゴアを、こんなハサミでどうやって切ったのか。肝心なところの記憶がないが、まぁ火事場の馬鹿力というやつか。
ともかくゴア部分を一直線にザクザクと切り込み、カパカパする履き口のところをクリップ(旅の資料の束に使っていたやつ)で留めたら、あら不思議、快適な靴ができてしまった。

うまく伝わってるか自信ない。下の図解を参照されたし。

さて、話を最初に戻す。

サンジェルマン大通りを歩いているのは、人と待ち合わせをしているからだ。

いくら旅慣れたB子さんと一緒でも初めての海外、万が一の時のためと、出国前に夫がパリ在住の知人・E子さんを紹介してくれた。もしも今日、B子さんの体調がイマイチなら、私1人でE子さんに会いにいけばいい。それなら1人でも大丈夫そうだ。一応、B子さんに確認してみる。

「もしも今日、B子さんの体調が芳しくなければ、夫が紹介してくれたパリ在住の日本人の方にひとりで会いに行こうと思っているんですが。」
「どこに住んでいる方なの?」
「それは知らないのですけど、電話番号を持っているので、ご連絡してみようかと。」
「面白そうね。せっかくだから私もご一緒しようかしら。」

よかった、元気じゃん。これはもう絶対に抗生物質のおかげだな。(ほんっとに、しつこい。)

さておき、早速、E子さんの自宅に電話をかける。ホテルの電話からだ。
LINEやスマホ通話に慣れている今から考えると、あの頃のコミュニケーションは超絶まどろっこしかった。
もしも在宅してなかったら、すぐにアポはとれないわけだが、当時はそんなのは当たり前のことで、繋がるまで何回もかければいい、そんなのんびりした時代だった。
もう昭和は終わって、とっくに平成だったんだけどね⋯平成ってそんなにのんびりしてたんだっけ?

電話したのが午前中だったからか、あっさりと電話はつながり、その日の遅めの午後にお目にかかることになった。
彼女のアパルトマンは、サンジェルマン・デ・プレ教会のすぐ裏にあるという。B子さん曰く「あら、ここ(ホテル)から近いわよ」。
私は全然ピンと来ていなかったが、とりあえずホテルの場所を伝えて、彼女に待ち合わせの場所を決めてもらい、サンジェルマン界隈で一番わかりやすいカフェ「ドゥ・マゴ(Les Deux Magots)」で待ち合わせをすることになった。

で、そこに向かっているなう、というわけだ。

ホテルのあるオデオンからドゥ・マゴまで、約1km弱。徒歩15分程度。え?歩いて行けるの?そんなに近かったのね?
というか、パリ自体、山手線の圏内にスッポリ収まるコンパクトサイズだから、端から端まで徒歩で行ける。もちろん、時間と体力さえあればだが。

ドゥ・マゴとは、1885年創業の老舗カフェ。文豪やアーティストも常連の超有名カフェである。パリに暮らす人びとは当然のこと、フランス好きの日本人にもその存在を知らぬ者はいない。

あっという間に到着。
E子さんはまだのようだ。
とりあえず、ガラス越しに外が見える席に座った。

さて、カフェ・オ・レでもオーダーするか⋯と、メニューを開く。
が、ない!メニューにない!そんな馬鹿な!

嘘でも間違いでもない。[café au lait] の3つの単語がどこにも見当たらないのだ。
パリなのにカフェ・オ・レがないとはこれ如何に?
これは蕎麦屋の品書きに盛り蕎麦がないに等しい大問題だ。

「この店、カフェ・オ・レがないんですね?なんででしょう?」
「あら、そう?訊いてみれば?」
でも恥ずかしくて訊けないから、似た名前の違うものにすることにした。
「カ、カ、カフェ・クレーム、シ、シルヴプレ」
たった2語なのに、緊張して噛みまくる。
何が出てくるかドキドキ待っていたら、出てきたのは、どう見ても、カフェ・オレ…。

(なんだよ!おんなじなのかよ!!)
心の中で突っ込みながら、自分のおのぼりさんぶりに赤面する。

そして待つこと10分ちょっと。日本人らしき女性が歩いてくるのが見えた。
黒髪のウェーブヘアに、華奢な身体に馴染んだ黒いフレアースカートのスーツ、細いヒールの黒い編上げロングブーツ。オールブラックだ。
彼女にとってはこの界隈は近所のはずなのに猛烈にオシャレしている。メイクも丁寧なのが遠目なのに分かる。
(日本と違ってフランスの女性は近所でもちゃんとオシャレをして出かけるのだということを後で知るのだが、その話はまたいつか。)

「はじめまして、E子です。」
「はじめまして⋯な、なんか、めっちゃオシャレでびっくりしました。」
って、とても頭が悪そうな挨拶をしてしまう私である。
爽やかに、かつ愛らしく微笑みながら彼女が言うには、近所に行きつけのブティックがあって、彼女に似合いそうな商品が入荷した時にお店の前を通ると「似合いそうな新作が入ったわよ〜、見ていかない?」とスタッフさんに呼び止められるらしい。
パリのブティックのお得意さま⋯かっこよすぎる。シビれた。

聞けば、彼女は既婚者で、ご主人は日本に住んでいるらしい。
お義母さんから電話がかかってくる度にご主人が「E子?ああ、いまちょっと近所に出かけてる」と返答する。それがもう何年も続いていると聞き、驚く。
まぁ夫を残してこうやって海外を旅している私だってそこそこ自由だけれども、上には上がいるもんだ。
で、そんな彼女はパリで何をしているかというと、特に何をしている訳でもない様子。恐るべし。優雅の極みである。(後から夫から聞いた話だとご実家がかなり裕福だという。正真正銘のブルジョアだった。)
あくせく仕事してようやく10日間の休みをとってはるばるここまでやってきた自分、足に合わぬ安物の靴を履いている自分、カフェ・オ・レをオーダーするのにも緊張してしまう自分…。
ほんの少し惨めな気持ちになった。比べることに何の意味もないというのに。

ひとしきりおしゃべりが終わると、E子さんのガイドで、サン・ジェルマン界隈を散策。ご近所だけにとても詳しい。「地球の歩き方」には書いてないマニアックで地元っぽい情報満載だ。
話に相づちを打ちながら、パリの風景に自然に溶け込んでいる彼女についつい見惚れてしまう。

「ちょっと小腹が空いたわね。」
「身体も冷えてきましたしね。」
「じゃあ、行きつけのビストロが近くにあるのでそこへ行きましょうか。」

いかにも地元の人たちで賑わっていそうな雰囲気のビストロ。時間が早めだったせいかそんなに混んではいない。この手の店には定番だが、メニューは黒板に手書きの文字。当然、読めない。

「ここのオニオングラタンスープが美味しいんです。」
「じゃあ私もそうしようかしら。」
「じゃ私も同じで。」
全員が同じものをオーダー。(日本人のグループにはありがち。)

オニオングラタンスープ(Soup à l’oignon gratinée)とは、今さら説明するまでもないが、玉ねぎを飴色になるまで炒めブイヨンでコトコト煮込んだものを耐熱の器に注ぎ、カリッとトーストしたバゲットを一切れ入れてチーズをたくさん振りかけてからオーブンで焼き色がつくまで焼いた料理。冬のパリの定番の軽食だ。(軽食と言ってもかなり食べ応えがある。)

オーダーした直後に、あ!しまった!と後悔した。
私はすこぶる猫舌で、アツアツのものを食べるのが苦手なのだ。
どうしよう。今なら変更きくかな。でも、メニューの字読めないし、E子さんにご迷惑かけちゃいけないし⋯。
どうしようどうしようと、気後れして尻込みして、結局、そのままで行くことにした。ああ、どうして私はこうなんだろう。

モヤモヤした気分に追い打ちをかけるように、店内が暑すぎて汗をかき始める。パリは寒いからとやたらと肌着を着込んでいたせいだ。
パリは、どんなに外が寒くても、店やメトロの中はかなり暖房が効いているから温かい。だから脱ぎ着が簡単なものを重ね着するべきなのだが、パリ初心者の私は脱げない肌着を重ねてしまった。それでも、ここまで暖房が効いている店は初めてだ。温度調節が壊れているのだろうか。とにかく暑くて仕方がない。

そこへ3人分のオニオングラタンスープが運ばれてきた。
オーブンから出したてのそれらは、アツアツどころの騒ぎではなく、地獄のようにグツグツグラグラと煮えたぎっている。
「わぁ美味しそう!」と声を上げるB子さんの傍らで、絶望的な気分になった。

E子さんとB子さんは「熱い熱い」と言いながらも、ふうふう美味しそうに食べ進んでいる。
私はといえば、スプーンでほんの少しスープ部分だけすくって、ぬるくなるまでしばらく待ってからちびちび啜る。

美味しくなさそうな食べ方に見えたのか(そりゃ見えるよな)、
「お口に合いませんか?」とE子さん。
「⋯あ、いえ、ごめんなさい、実は猫舌なんです。」ああ、気を遣わせてしまっている、と、ますますモヤる。
「え~、だったら違うものにすればいいじゃない。」とB子さん。はい、仰る通りです。

体温はさらに上昇。わきと背中はすでに汗だく。額を汗がつたう。
もはや、美味しいのかどうか、分からない。いや、もう、何をしているかも分からないくらいにパニックだ。
暑い。いや、熱い。いや、両方だ。暑い!熱い!暑い!熱い!
一刻も早くここから出たいっ!!ホテルに帰って肌着を脱ぎたいっ!!!

「すいません、美味しかったのですけど⋯」
結局、オニオングラタンスープは三分の一ほどしか食べずに残してしまった。おススメを残してしまうなんて。めっちゃ気まずい。

「明日は私の部屋に遊びにいらっしゃいませんか?」とE子さん。
「わぁ、素敵!是非!」と即答したのはB子さん。パリは何回も来ているので、観光よりもこういう過ごし方が楽しいのだろう。私だって楽しくないわけはないし、貴重な経験だと分かっている。
でも、私は初めてのパリなんだから、エッフェル塔だのヴェルサイユ宮殿だのといったコテコテの観光スポットに行きたいんだーっ!!!と、心の中では叫んでいた。

ホテルに戻って、汗だくの服を着替えてようやく生きかえる。
そういえば新しい靴を買わずに済んでいることに、いま気づく。
急場凌ぎの大胆な解決策が功を奏したようだ。
À bientôt!

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