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綾杉の虎


 艶やかな色味の、漆塗りの綺麗な鳥居をくぐって境内の中へ入っていくと、大きな大樹が私を迎え入れてくれる。真夏の燦燦とした太陽の光を目一杯に吸収し、太い根を大地に張り巡らせ、神々しく佇む、樹齢千八百年を超える大木。
「うわぁ、なんて立派な木なんだろう」
 私は思わず声を漏らした。
 樹齢千八百年という大木は、そよ風に揺られ、轟轟という大きな音を立てて葉を揺らしている。雄大な音を立てて揺れる綾杉の木はまるで、「よく来たね」と言って私に手を振っているようだった。
 私は身震いした。
 何か大きなものに迎え入れられるときの暖かな気持ちと、同時に何か恐ろしいことに巻き込まれてしまう恐怖を感じた。私はこれから、何か大きな、逆らえない運命の流れのようなものに巻き込まれてしまう。相反する二つの感情が私を襲う。
 私はしばらく綾杉の木を見上げた。葉と葉の隙間から零れてくる太陽の光が眩しい。
 首が疲れてきたころに目の前にある石碑へ視線を落とした。そこには、一つの墓が立っていた。人の胴体ほどの大きさの石碑に、大きく『虎の門』と刻まれている。
『虎の門』———かつてここで、一頭の虎が死んだという。
 私はその虎の映像を初めて見たとき、全身が凍りつくような寒気に襲われ、呼吸が激しくなり、その場にうずくまって動けなくなってしまった。
 とても大切な存在が殺されてしまうという恐怖感に、私は襲われた。見たことも聞いたこともないのに、私はその虎が死にゆく姿を見て、苦しくなった。
 この地域に現れるはずのない、白い毛並みの虎だったという。人の生活圏に野生動物が現れること自体が珍しいことであるのに、正体不明の虎が出現したのだから、当時周辺地域は大混乱に陥ったそうだ。その虎は、中国の古代神話に登場する『白虎』に似ていたことから、そのことを記念して『虎の門』が建てられたそうだ。
 もう百年も前の話だ。一体何が起こったのだろう。
   私は瞳を閉じて、遠い過去に思いを馳せた。



 それは混乱の時代だった。
 社会の先行きはいつでも不透明で、いつも人は不安に駆られていた『変革の時代』だった。これほど人が追い詰められていた時代は、これまで無かっただろう。
 何か大きな変革が起こるときには、多くの犠牲が伴う。社会の変革が大きければ、その結果もたらされるものが社会にとって良いものであったとしても、悪いものだったとしても、人々は一定の苦痛を受ける。変化には、それ相応の痛みが伴うのだ。犠牲になった人達は、時代の『転換期』にいたことを認識することが出来ない。だから、言葉に出来ない正体不明の大きな苦しみを味わい、絶望し、生きていく術を見失い、自ら命を絶つ。
 絶望の時代。
 その虎は、そんなときに現れた。
 まるで何かを訴えかけるように獰猛な雄叫びを上げながら、月明りの激しい明るい夜に、突如として表れた。
 その虎は、必死に何かを訴えかけているように見えた。
 悲しみと怒りが交錯し、綺麗な言葉が出てこずに、自身の中にある葛藤を全力で叫んでいるように見えた。
 その虎はどこから来たのだろう。何故現れたのだろう。何を訴えかけていたのだろう。私は不思議な感覚に襲われている。
 一番不可解だった点は、その虎が死ぬときに涙を流していたということだ。
 その虎が銃弾を受け死にゆく映像が残っていたが、涙を流しているところが映っていた。虎が死んだのは、銃弾を受けたころによるものではない。何か精神的に憔悴して、自ら生命維持本能を止めてしまった結果死んだように、私には見えた。ほんの数秒だが、一筋の涙が虎の頬に向けて瞳から零れ落ちていくところが、鮮明に映っていたのだ。私は妙に、この映像が胸に染み込んで、頭から離れなくなった。どこか人の悲しみを象徴しているようにも見えたから。その虎が流した涙は、私の心へするりと入り込み、私の中核を掴んで離さなくなった。
 私はなぜか、「泣かないで」と言いたくなった。
 どこか悲哀に満ちた神聖な情景が、その映像には映っていた。
私は神話のワンシーンでも見たような気持ちになった。これが百年前の出来事であるというのだから、余計に幻想的な雰囲気を帯びている。
 なぜ、私はあの映像で心動かされたのかは分からない。ただ、あの虎を見たときに、私の中に巣食っていた黒い渦のようなものが綺麗に消え去り、立ち直る力が湧いてきたのだ。不思議な体験だった。私が大切な人を失ったことと、虎が駆除される映像には何の関連性もないはずだ。なのになぜか、私は心が晴れる気持ちがしたのだ。自身の中にあった痛みが晴れたことで、五年という悪夢のような療養機関の幕を閉じ、私はようやく前に向かって歩き出す力が湧いてきたのだ。私は過去の呪縛から解き放たれ、こうして今この瞬間を生きている。その虎が今目の前の石碑の下で眠っている。

 私の両親はもうこの世にはいない。愛していた人も死んでしまった。
 彼女が自死の道を選んでしまってから、私は無力感に苛まれ、どうしても立ち直ることが出来なかった。私はあらゆるものから自身をシャットアウトし、ひたすら自身の傷を癒すことに専念していた。『専念していた』というと積極的な行動だったように聞こえるかもしれないが、実際は自身の殻に閉じこもり、自己の内面と格闘するほか選択肢がなかったのだ。何か立ち直るための積極的な行動が出来るような精神的余裕は、私には全くなかった。私は当時、相当に疲弊していた。そこから、五年という月日が流れた。とても長い月日が流れた。ただ、丁度半年前に、私はようやく長い療養から脱出することになった。
 それが、あの虎の映像だった。家に保管されていた資料の中から、偶然百年前に起こった事件に関する資料が出てきて、それを開いていくと、その映像が見つかった。



 私は昨夜遅くにぼんやりとした薄明かりで目が覚めた。家の電気は全て消し、カーテンも閉めて寝ていた私は、恐怖で飛び起きた。誰かが家に侵入してきたのかもしれないと思ったからだ。私はこの家に一人で住んでいる。
 しかし、実際そこには誰もおらず、ただ代わりに掌サイズの火の玉がふよふよとベットの傍に浮かんでいたのだ。
 ついに幻覚を見るようになってしまったのかと私は懐疑したが、どうやらこの火の玉は本物らしい。燃える音はせず、近づいても温かみは伝わってくるが、熱くはない。ちょうど、人と抱き合ったときに感じる体温のような、じんわりとした温度感だった。
 そこで実感したのだ。これは妻なのだと。
 彼女を抱いていたときの体温と、全く同じなのだと私は気づいた。人の体温は一律であるが、この感覚は間違いなく妻であるとそう確信した。
 私が起き上がると、胸の高さで浮遊していたそいつは、妻は、ゆっくりと動き出した。私はその火の玉についていくことにした。
 そこからのことはあまり良く覚えていない。暗い夜道を、彼女が照らす範囲を見て、ただただついていっただけだ。
 どういう経路で、どのぐらい歩いていたのかは分からない。ただただ、暗い夜道を目の前の妻が歩くのについてひらすら歩いていただけだ。
 丁度『この後、一体何が起きるのだろう』という恐怖感が薄れ始めたころに、日が昇り始めた。そのときには、もう既に綾杉の木がある神社の鳥居の前にいた。
 そうして、私は今ここに立っている。導かれて、私はここまで来た。
 これから私は、過去へ行く。百年前に。どのようにすれば過去まで行けるのかは分からないけれど、此処へ来ればその方法が分かるという実感だけは最初からあった。
 また、風が吹いてくる。
 どこから来たのであろう、冷たい風が私の頬を切り、どこへ行くのだろうか、風は乾いた音を立てて過ぎ去っていく。私は、強張った体を緩めて、深呼吸をした。
「あなたは行かなくてはならないわ」
 私の妻が隣でそう囁く。正確には、妻の魂がそう囁くのだ。私をここまで導いてきた、掌に乗るくらいの大きさの、青い炎。
 私は目の前にそびえ立つ綾杉の木を前に、彼女の言葉に耳を澄ませた。
「きっと、何か見つかるから」
 先の見えない、未知の世界へと足を踏み入れることに心細くなっていた私に、彼女は励ましの言葉をかけてくれる。
「あぁ、行くよ」
 どうして、死んだはずの彼女がこんな姿になって表れたのかは分からない。しかし、私は変に詮索せず、ただ黙って大いなる流れに従うことを決めた。
 瞼の奥に広がっているであろう世界を私はイメージする。私は過去へ行かなくてはならない。一度行ってしまえば、もう戻ってくることは出来ないかもしれない。
 あらゆる物事は一方通行であり、この大自然の理に逆行することをすれば、自分自身に何が起こるのか想像はつかない。これから先は未知の世界だ。
 しかし、それでも私は行かなくてはならない。
 百年前のこの世界で、やらなければならないことがあるのだ。それが何であるのか、まだ分からない。しかし、行けば分かるという実感はある。
 だから、私は行かなくてはならない。



 私が今生きているこの世界は、この時代は、かつて人々が苦しんでいたような恐ろしい苦難の多い世界ではない。苦難の時代から、平穏な時代へと移行するには、きっかけがあった。それは、とある事件だった。その事件で、地球の半分の人口が死滅した。その後に、この平穏な世の中が訪れた。人々はこの事件を、死んだ虎の呪いだと言って恐れた。
 だが、この事件によって、ディュルケームがかつて『自殺論』で述べたような社会の不安定性も解決された。あの白虎が、この世界を作ってくれたのだと、私は思う。
 人の経験するあらゆる不幸は、『隣の人よりも少し幸福で豊かでいたい』という願望から引き起こされる。世紀の大悪人のような人はほとんどおらず、大抵の人は『少し』ずるくて、『少し』怠け者なのだ。そして、人の願望や弱さが集団になったときに恐ろしい社会的な問題や事件に発展する。
 人はそれ自体では大した問題にならない。人は極悪人ではないのだ。しかし、人は集団になったときに恐ろしい結果を引き起こす。
 私が生きている今の社会では、人の『弱さ』や『ずる賢さ』、『他人よりも少し幸福でいたい』という自己優越欲求を上手く満たす仕組みが出来ている。
 おかげでかなり安定した社会になった。無論、荒れていた過去の時代の社会システムや生活を経験したわけではないから、断言はできないけれど。
 統計的に見ても、悲惨な事件や市民の暴動も過去に比べれば大きく減った。もちろん、苦しみがないわけではないが、かなり改善したのではないかと思う。
 私は、この虎に会いに行かなくてはならない。



 私は目を開けた。するとそこには、透明な液体の入った器が置かれていた。
『虎の門』の石碑の上に、石の凹凸によって少し傾いた器が置かれていたのだ。青い炎はもう消えて無くなっていた。私は、目の前にある器を手に取った。誰が置いたのだろう。誰かが近くまで来て器を置いて去っていくような音も気配も無かった。飲めということだろうか。まぁ、どちらでもいい。これがきっと、過去へ行くための儀式なのだろう。
 透明で艶やかな光色を帯びた液体を、私はゆっくりと口に流し込んだ。瞳を閉じる。口から液体が数滴零れ、頬を伝い、顎先から地面へと落ちる。《ぽちゃん》と言う音がした後、私は意識を失い、その場に倒れこんだ。
 綾杉の木は冷たい風に吹かれ、「いってらっしゃい」というように葉を揺らしていた。



 どこか遠くの方から、ぼんやりとした光が見える。何か具体的な形を持っているのではなく、輪郭のないぼんやりとした薄い光が、私の瞼を通して見えている。でも、私は意識を失っている。目を開こうとしても、思うように体が動いてくれない。
 ただ、薄明かりだけを認識している。
 一体どれだけの時間が経ったのだろう。私は自分が何をしていたのかという記憶も曖昧で、数分もがいた後に、自身が綾杉の木の前で透明の液体を飲み、気を失ったことを思い出した。何万年もこうして気を失っていたような気もするし、倒れて直ぐ目が覚めたようにも思える。一体私はどれだけの時間、気を失っていたのだろう。
 身体を動かせずに悶々としていると、騒がしい人々の声が遠くの方から聞こえてきた。何かはっきりとした言葉にならない音が、ぼんやりと遠くの方から聞こえてくる。
 するとしばらくして、小さな男の子の声が聞こえてきた。
「ライオンさんに、なりたいの」
 私は飛び起きるように目を覚ました。
目を開くと、そこには幼い少年がいた。少年と言うよりは、幼児と言うべきか。とても小さな3歳にも満たないような男の子が、ステージの上で叫んでいた。
 倒れていたはずの私は、二本足でしっかりと立ち、ステージの男の子を見ている。
 その男の子はスポットライトを全身に受け、和やかな雰囲気に包まれ、マイクを持った保育士の女性から受けた質問に答えている。どうやら、ここは幼児が集まって何かを発表するステージのようだ。私はそのステージを見ている群衆の中にいた。
 私はどうやら、どこか違う場所へと飛ばされたらしい。ここはどこだろう。
「次は、『ブヒブヒ・ロックンロール』です♪ 子供たちの一生懸命なダンス、拍手でお迎えください」視界の先に見える女性がマイクで叫んだ。
 何やら大きな音が流れ始め、銀色や金色の装飾を付けた煌びやかな衣装を着たカラフルな子供達がステージ横から出てきた。
 胸には手造りのギターを掛けている。もちろん、演奏用ではなく、衣装としてのものだが。一体、ここはどこなのだろう。私は辺りを見回した。
 ここはかなり昔のように見える。人々が来ている服も、使っている言語も、若干異なっている。やはり私は、過去へ戻ってきたようだ。
「あなたのお子さんはどこで踊っているの?」
 隣に立っていたお婆さんから話しかけられた。
「え、あ、はい。私には子供はいないのですが、知り合いの付き添いで来たんです」
「付き添い? ここはお遊戯会よ? 変な人ね」
 その女性には怪訝そうな顔をされたが、その人は孫がステージに上がってくると視線をそちらに向け、私には興味を失ったように、孫に向けて声援を送っていた。しばらくその光景を眺めていると、「私の孫はね、ちょうど真ん中にいる子よ。ほら、一人で踊っている」その子は先程「将来は何になりたいの?」と聞かれ、「ライオンさんに、なりたいの」と叫んでいた子だった。
「お孫さん、可愛いですね」そう伝えると、その女性はうっすらと微笑んだ。


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