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人生は悲劇か、それとも喜劇か


『母への感謝状』


 僕は母に感謝している。まず、「生んでくれてありがとう」と伝えたい。

 嫌なことや辛いこともあるけれど、自分が努力すればいくらでも楽しいことが待っているこの世界に産み落としてくれて、ありがとう。

 反抗したり、衝突したりすることもあったけれど、僕は感謝している。

 特に、ただ生んで育ててくれただけではなく、僕の母はあり得ないほど苦しい状況に置かれても逃げずに僕と妹を育ててくれたし、母のお陰で僕はとても成長することができた。

 僕は幼少期の家庭環境の影響で、普通だったらしなかったであろう努力をたくさんしてきた。

 もちろん周りの人と比べてどうこうというつもりは一切ないけれど、少なくとも自分が出せる全力をずっと出し続けてきたし、自分の人生に真摯に向き合い続けることができたと思う。

 これは、僕の家庭に起こった悲劇と喜劇についての文章だ。


「人生は近くから見ると悲劇だが、遠くから見ると喜劇だ」というチャップリンの言葉がある。

僕もそう思う。

 目の前で起こった悲劇に対して自分がどう解釈してどう行動を起こすかによって、その悲劇が起こった意味が変わるのだ。

 僕達は、人生を楽しむために、喜劇を生きるために生まれてきている。

 嫌なことがたくさん自分の身に降り注いでくる世の中だけれど、起こった出来事、事実に対してはどう解釈していくか、どういう意味付けをしていくかの方が圧倒的に大事だと思う。

 自身や周りの人の失敗がどういった意味を持つのかは、自分の今後の行動で決まる。

 人生、何が起こるのか分からない。
 それに、前もってどの選択が正しいのかなんて誰も分からない。

 だから、自分に起こった悲劇に意味を与え、自分が選んだ道を正解にしていく力が必要なのだ。だって僕達は楽しむために生きているのだから。



人生は悲劇か、それとも喜劇か



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『夜の胸騒ぎ』


 あれは、今から十年前の二〇一二年、僕が小学校四年生のときまで遡る。

「お母さん、本当のことを教えて」

 ここのところ、両親の様子がおかしかった。毎晩何やら僕達兄妹が寝静まった後に二人で話をしていることが多かった。

 子供が寝た後に晩酌をしながら夫婦水入らずで話をすることは、特に不思議なことでもなんでもない。

 ただ、子供ながらに何やら嫌な予感がしたのだ。どうやら、僕ら兄妹が寝るのを待ってから話を始めている気がする。

 いつもは夜中に起きていっても「早く寝なさい」と言いつつも、少し話に混ぜてくれていたのに、最近は何故か会話に混ぜてくれない。

 夜中にトイレに行きたくて起きたときに、何やら両親が話しているのが聞こえていた。

 壁越しで話の内容は分からないけれども、確かなのは僕の気配を感じると話が止まるということだった。今まではそんなこと、なかったのに。

 僕がリビングに出ていって、何を話していたのか聞いても何も教えてくれない。ただ静かに「もう寝なさい」と言って部屋に返されるだけだった。

 そして、ある日父親が家からいなくなった。

 何が起きているのか良く分からなかったけれど、嫌な予感が的中した。父の荷物も、家から無くなっていた。

 単身赴任をすることが多い父親だったけれど、数週間しても家に帰ってくる気配はなかった。何かがおかしい、何だか胸騒ぎがした。

 その違和感、自分の胸騒ぎが、確信に変わったのだ。これは絶対何か悪いことが起きたに違いない。

 出張勤務が多くて家にいる時間は決して長くない父だったけれども、もうかれこれ数週間は帰ってきていない。何かがおかしい。

 僕は夜中に起きていって、お酒を飲みながら一人でテレビを見ている母の所に向かった。

「あら、れいじ、まだ起きてたの?」と話しかけてきた母に単刀直入に聞く。

「お母さん、本当のことを教えて」

「ん、何の話?」

「どうしてお父さんはいなくなっちゃったの?」

 穏やかだった母の体が一瞬硬直した。
 そして、しばらく黙り込んでしまった。

 子供ながらにここはあまり話すべきではないと思い、僕も黙っていることにする。恐らく大人の事情で何かあったに違いない。

 そして、単に帰ってこない理由が仕事などであれば、黙っている理由なんかないはず。母はテレビの方を向いて僕と目を合わせてくれない。

 そして、母のお酒の入ったグラスを持つ手が震えだした。
 やっぱり、何かあったのだ。

「僕が受け止めきれないと思っているの?」

 どうしたら話してくれるかと思って、言葉をかけてみる。

 ようやく母が口を開こうとしたときに、妹が起きてきた。子供ながらにこのまま話すのはまずいと思い、「また今度ね」と言ってその場を離れた。

 やはり何かがあったみたいだ。この胸騒ぎの正体は一体何なのだろうか。子供ながらに考えてみたけれど、全く想像もつかなかった。

 一体、僕の家に何が起きているのだろうか。

 母のあの神妙な顔が脳裏に焼き付いた。ただ、何か深刻なことを言われそうで、もう一度話しかけるのに数日かかった。

 母も自分からその話題について話すことはなかった。お互いに、心の準備をしたかったのだろう。


 二、三日した後、また僕は夜テレビを見ている母の元へ向かった。

 朝は僕が登校時間のギリギリまで寝ているせいでドタバタしているし、昼はもちろん学校があるし、夕方は習い事のサッカーや空手があるから、やはり母と話すなら夜なのだ。

 またソファーでビールを片手にドラマを見ている母の前にちょこんと正座して、視線を送ってみる。

「お母さん、この間の続き」と言うと、母はテレビの電源を切った。
「ふぅー」という深呼吸の後に、母はこのニ、三日でどう話そうか決めていたであろう丁寧な口調で話し始めた。

「お母さんはね、お父さんと離婚したの」

「……りこん?」

「要するに、もうお母さんとお父さんは夫婦じゃないの」

「どうして?」

「一緒に暮らせない理由があるの」

「?」

「お父さんね、借金があったの」

「しゃっきん……?」

「人からお金を借りて、返せなくなっているの。だから、このままだとれいじ達がご飯食べられなくなっちゃう」

「じゃあ、お父さんにはもう会えないの?」

「れいじが会いたいって言ったら会えるけど、もう一緒に暮らすことはできないかな」

「……」


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両親の離婚、父の借金


 僕が九歳のとき、両親が離婚した。
 父親の借金が原因だった。

 僕が小学校四年生、妹が小学校一年生のときだ。

 正直、当時の僕には事の深刻さをよく理解することはできなかったが、お金に関する「大人の事情」で一緒に暮らせなくなったのだということは分かった。このまま父と暮らしていると、母と僕達兄妹が生活できなくなるようだった。

 両親はとても仲が良く、とても幸せな家庭だったと思う。しかし、父の浪費癖が判明したのだ。

 母が父の浪費癖に気が付いた時には、父の借金は数千万円に及び、このままいくと、母と僕達兄妹が生活していけなくなる状況であることが分かった。

(後に総額四億円であったことが判明した)

 何かと羽振りが良かった父だが、祖母がお金持ちの家系で、何かとお金を使うことに抵抗感が無かったようだった。

 母と父は13歳も年が離れていたし、両親が結婚したときに父は既に三十代後半だったので、年上である父がお金をある程度持っていてもおかしくないというか、母からしても不自然なことではなかったと思う。

 しかし、実際は、父は祖母によくお金を貰っていたようだった。

 貯金があるにしては使いすぎな気がする、と母の勘が働き、父の浪費癖は判明したのだ。

 ただ、母は父の浪費癖に気が付いてから直ぐに離婚するのではなく、何とか家族を壊さずに状況を改善できるよう五年間試行錯誤してくれた。

 だが、父の行動が変わることはなかった。

 そして、離婚するという決断に至ったのだ。しかし、あろうことか父の借金は母が返すことになった。
(全てではなく、総額のうちの数千万を母が返すことになった)

 父にはどう頑張っても返せないからだったと思う。

 父はそのまま家を出ていき、父方の祖母の面倒を見ながら家のローンや子育て、生活に必要なお金全て母が稼ぐことになった。

 意味が分からないほどきつい状況に母は追い込まれた。

 三十代半ばの母が、女手一つでどうにかできる状況だっただろうか。今冷静に母の当時の状況を想像すると、ぞっとする。

 ただ、結果的に母は何とかこの状況を切り抜けてきた。

 借金の額が膨大で絶望的な状況ではあったけれど、祖母が不動産を持っていたので、そこの運営を引き継ぐことを出発点に、何とか母は家計を支えられるように、奔走してくれた。

 母のもともとの職業は美容師だった。しかし、全く知らない分野である不動産運営に取り組むことを決断した。

 母は幼い頃、家庭の事情で家に一人でいて寂しい思いをすることが多かったそうだ。

 だから、自分が美容師に戻って一日中働くことによって、家に子供達だけで留守番をさせる時間がとても長くなることだけは避けたかったみたいだ。

「自分みたいに、寂しくてひもじい思いは絶対に自分の子供にさせたくない」という母の思いがそうさせたようだった。

 そもそも、借金の金額が通常の肉体労働では到底返せる額ではなかったというのも大きかったみたいだけれど。

 そうして、小学校四年生の時に父親のいない生活がスタートした。



 突如我が家に降りかかってきた悲劇。

「人生は近くから見ると悲劇だ」というなら、この地点は間違いなくどん底以外の何物でもない最悪の悲劇だっただろう。

「親が離婚するなんてありふれたことじゃないか」と思われるかもしれないけれど、母からしたらこれ以上の苦労があるかというほどの苦しい状況に追い込まれた。


悲劇を、喜劇に


 ただ、結果的にこの出来事は後の喜劇に繋がっている。

 喜劇に繋がっているというより、今現在進行形で喜劇に繋げているという方が正しい表現なのだけれど。

 僕は小さい頃にこういう家庭環境にあったことで、かなり自分の人生について真剣に考えるようになったと思う。

 子供ながらではあるけれど、自分の人生に「大人の視点」が入っていったというか、ただ単に目先の快楽だけを追いかけ続ける人生とはおさらばすることになった。

 振り返ってみると、やっていたことは全然子供のままだったけれど、考え方とか自分の人生に対する向き合い方は、確実にここから少しずつ変わっていったと思う。

 ずっと母とは子供というよりは一人の人間として沢山の話をしてきたし、障害を持った妹を将来は少しくらい手助けしてやれる余裕が自分には必要だと、心の底から思うようになった。

 「守りたいものがあるなら、自分には力がいる」——そう思わせてくれるような環境だった。

 弊害として、何となく過ごすということができなくなってきていたので、何か変に思い詰めがちになったり、人とずれたところで悩んだりしていたので、そこは懸念点ではあるが、長期視点で見ると、結構いい習慣なのではないかと思う。


 お陰で、自分でも「よくやったよな」と思えるほど頑張ってきた気がする。これほどいろいろなことに挑戦できたのは、この環境のお陰だ。

 普通に考えたら、悲惨な家庭環境だと思うけれど、僕はこの環境のお陰で小さい頃から自分の人生に対して真摯に向き合ってきたし、いろいろなことにチャレンジし続けることができた。

 母が逃げずに守ってくれたお陰で、僕達は強く生きる術を手に入れた。本来の幸せいっぱいの家庭だったなら絶対にしなかったであろう努力を僕はし続けることができた。

 母にとっては父の莫大な借金を肩代わりして女手一つで子供を育てるということは悲劇だったと思うけれど、僕がバトンを受け継ぐことで、あの悲劇は喜劇に変えていける。


 結局何が言いたいかというと、自分が置かれた不幸とも思える環境は、自分にとってのチャンスなのだ。

 冒頭でも言ったように、降りかかってきた悲劇がどういう意味合いを持つのかは、自分の今後の行動によって決まる。

 父親の借金が原因での離婚だったので、「ここで僕がお金の使い方が下手な大人になったら、お父さんとお母さんが離婚した意味が無くなる」と思ったし、自分に力がいると思っていたからこそ、自分が目標としていた夢に向かった努力をずっとし続けることができた。


 まぁ、これほどの熱量で自分の将来について考えて、自分の夢だった建築士を目指して十二年間奔走して、それに挫折したときは本当に生きた心地がしなくて、この先の長い人生をどう生きていけばいいのか希望を完全に失ってしまったときもあった。

 前に進まなければならないということは分かっているのだけれど、体が動かないし、絶望感で心は真っ黒なままだし、でも時間は過ぎていっていて、周りの皆は前に進んでいるという、絶望感と焦燥感と無力感と胸を締め付ける痛みを掛け算して一度にぶつけられた感覚。

 絶望したときに、人は視界に入っている全てがバラバラに音を立てて崩れ去っていくという感覚に襲われるという。あれは本当だ。

 でも、あの絶望した経験も何か将来的に何かの喜劇のストーリーのスパイスになるだろうし、あの絶望に意味を与えていくのは今を生きている僕の仕事だ。


 僕は母のお陰で何か不足感を感じたり、寂しい思いをしたりはしなかった。

だから、僕は恩恵しか受けていない気がするからあまり大きなことは言えないけれど、置かれたつらい苦しい環境はプラスに変えていけるのだ。

「ここで僕がお金の使い方が下手になったら、両親が離婚した意味がない」と思っていたから、お金の使い方には敏感になるようになったし、「僕が妹の父親代わりだ」と思ってきたからこそ、得られたものも沢山ある。


 絶望が成長のために必要だというのなら、大人になるための通過儀礼だというのなら、喜んで受け入れよう。

 僕は苦しいことでも絶対に逃げたりしない。
 一時的に引くことはあっても、本質に向き合うことは絶対にやめない。


 僕は、この家庭環境があったから、ここまで頑張り続けることが出来たのだ。自分の身に降りかかってきた不運や悲劇は、後の幸運や喜劇のための材料でしかない。


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『父への手紙』


 でも、ここまで読むと父親が悪人のように感じてしまうけれど、僕は父が嫌いなわけでは一切ない。怨んでもいない。

 特に、父に対してマイナスな感情を抱いたことはない。ゼロというのは噓かもしれないけれど、少なくとも記憶に残っている程ではない。

 だって、両親が離婚していなければ、僕のこれまでの生活や思考習慣は形成されなかった。

 ただ単に何となく暮らしていくだけの人になっていただろう。

 こんなにも膨大な文章を数十個もかけてしまうほどに毎日いろいろなことを考えて生きていくようになったのは、この家庭環境のお陰なのだ。

それに、小さい頃楽しく遊んでもらっていた楽しい記憶はある。

 サッカーしたりキャッチボールしたり、変顔したり、変なダンス踊ったり、小さい頃で記憶は止まっているから、そんなに数は多くないけれど、いい思い出は沢山ある。

 母に意味が分からないほどの苦労を掛けたことは許さないけれど、あれが無ければ僕の成長は無かった。


父親って、何なんだろう


 ただ、唯一弊害があるとすれば、いまいち自分が父親になったときのイメージが湧かないことだ。

 自分には父親としての親父の記憶が小学生の頃のまま止まっている。だから、どうにも家族を持って数十年暮らしていくという感覚が分からないのだ。

 ただ、依然として人とのコミュニケーションは好きだし、子供も好きだから出来たらかわいいと溺愛する自信はある。

 が、いまいち「どういう感じなのだろう」と掴めずにいる。

 母親がパワフルな人なので、「お母さんみたいなお父さんになる」と言っていたけれど、結局自分はどうなるのだろうか。

 まぁ、いろいろあったけれど、父は凄く紳士的な人だったし、子供目線のおちょろけた言動には凄く好感を持っていた。

 しばらく会っていないけれど、もうちょっと時間が経って再開したときに「立派な男になったな」と言ってもらいたい。言ってもらえるだろうか。


  かっこいい男になりたい。


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悲劇に意味を、しなやかに生きていきたい


 僕は今でも母と仲がいい。

 仲がいいというよりは、正確に言うと、共に闘った仲間のような感覚だ。

 お互い自分の軸のようなものがしっかりしているから結構衝突はするけれど、「本当のことを教えて」と母に話をしに行ったときから、ずっと腹を割っていろいろなことを話してきた。

 普通の親子の関係性ではないと思う。母の努力のおかげで、僕達兄妹は何か不自由な思いや寂しい思いをすることはなかった。

 贅沢はさせて貰えなかったけれど、自分に必要なもので買い揃えて貰えないものはなかった。

 そして、後半余裕が少しずつ出てきてからは塾に行かせてもらえたり、かなり頼んだけれど留学に行かせて貰えたりした。


 まだまだ未熟だけれど、必ずいろいろな所へ連れて行ったり、美味しいものをご馳走したりして、親孝行したい。

 子供は生まれてから三歳までに一生分の親孝行をしている、という話を聞いたことがある。

 また、「子供が元気でいてくれればそれでいい」ということも親は話してくれていた。

 でも、そんなんじゃあ足りない。

 べったりくっついて回ることはしないけれど、誇らしく思ってもらえる息子でありたいなと思う。

 まだ頼りない未熟なしょうもない男だけれど、ずっとあなたの息子です。精進します、ありがとう。


 僕は母の人生と僕の人生と妹の人生、ついでに僕の周りにいる人達の人生を喜劇にしていきたいなと思う。母の苦労を無駄にはしない。

 そのどちらにも目を向けられる力を持っていないと、どこかのタイミングで躓いてしまうのではないかと思う。


 人生は悲劇か、それとも喜劇か。

「生まれただけで、生きているだけで喜劇だ」というには少しこの世界は厳しいと思うけれど、悲劇に意味を与えたときに、より深い人生が待っているのではないかと思う。


 人間としての器の大きさ以上に、幸せは入ってこないと思う。

 だから、きつくても、辛くても、喜劇で人生を締めくくるためにしなやかに生きていきたいと、思うのだ。





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