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東日本大震災大震災の記憶⑦あとがきとおまけの話
震災を経験して、沢山のことを知った。沢山のことを学んだ。私の根本をも揺るがす出来事だった。
私は元々霊感がある方だった。子供の頃からモヤモヤっと見えたり、気持ち悪くなって行けない場所などがあった。
それは大きくなってからも変わらず、見えてしまうことも何度かあったのだが、それは震災でぱったりと見えなくなった。
震災を経験し、相続争いなどを目の当たりにしてしまい、生きている人間の方が怖いと思ったこ
東日本大震災の記憶⑥
私は育児の合間を縫って、親戚と共に何度も遺品探しに出かけた。小学校の体育館に、大量の遺品が置かれていた。写真やアルバム、バッグ、ランドセル。1度流され海水に浸かった遺品たちと汚れた体育館は、津波の物凄さを物語っていた。全てが泥まみれだ。つまむようにして1つずつ確認していく。
何度も通ってようやく、おばあちゃんのバッグと、アルバム類、旦那の少年野球の写真などを見つけた。
小学校の時計は、あの日の1
東日本大震災の記憶⑤義父
当時家にいたのは義父、義母、義姉、5歳の義姪、要介護の義祖母、飼っていた犬、そしてお隣の夫婦が津波が来るからと二階建ての家に避難してきていた。
渋滞と義祖母の車椅子移動を考慮して、避難は諦めたそうだ。二階にいれば大丈夫だろう。一階はダメかもしれないな。そう思ったとあとで聞いた。
同じ家にいて、義父はどれ様子を見ようとベランダに出た瞬間に津波に襲われ、ベランダと家が切り離された。家は瞬く間に津波
東日本大震災の記憶④
そこからまた記憶はほぼない。旦那は唯一の交通手段だった、県内から出ている高速バスで仙台に行ったが、私は赤ちゃんである長男のことを考えて被災地入りは見送った。
その後何度も余震がきて震えたり、津波注意報が出て私は過呼吸を起こした。
不安定な私を心配して、母が毎日一緒の部屋で寝てくれ、慰めてくれた。
「来ない方がいい。」「酷い状況だ」ずっと旦那にそう言われ、私は宮城入りを反対されていた。
そして
東日本大震災の記憶③
3/21
宇都宮から東京の新幹線に乗るために、朝イチで駅に向かっていた。なんとか宮城に入るルートを確保したかった。
高速道路は分断されている。通常の道路も通れるか分からない、赤ちゃんを連れては危険。宮城に行く前に、東北の別県にある私の実家に身を寄せることにした。
その宇都宮駅に向かう車の中だった。
旦那の電話が鳴った。義父からだった。
「あがっていた遺体が、お義母さんだった。」旦那の実家は自営業
東日本大震災の記憶②
その日は不安だったが、電話が一瞬でも繋がったことで、「きっと無事だよね」と言い合いながら寝た。
お義父さんの電話が繋がるってことは、みんな一緒に避難所にいるんだ。きっとそうだ。そう思いたかった。
次の日から記憶が途切れる。何をしていたのか覚えていないのだ。この後も震災の記憶は所々途切れている。余りにも大変で、ショックで、思い出さない方がいいようなこともあるのだろう。
次の記憶は、数日後の夜だと
東日本大震災の記憶①当日
2011年3月11日。
結婚二年目、長男生後2ヶ月。引越しを目前に控えたその日、私はいつも通り長男に母乳をあげ、旦那を送り出した。その日旦那は仕事で埼玉県へ。その日の午前中、宮城にいる義母とメールをしていた。
「写真送って!!」「かわいいね」「会うのが楽しみ」
3月20日には初めての乳児を連れての引越し。義母が新幹線で群馬まで来て、子守りをしてくれる予定だった。
14:46
突然襲った大き
みんなで楽しむスペースライフ
こんにちはラムネです。今回は「Twitterスペースについて」お話していこうと思います!かく言う私もスペースでは初心者🔰なのでここ数ヶ月使ってみた、感想のようなものです。それではスタート👋
スペースの醍醐味
スペースの醍醐味ってなんだろう?まず他の配信アプリなどと大きく異なるのは、コメント機能がないということ。(2022年6月現在)リスナーは聞くのみ、スピーカーは話すのみ、と完全に分断され